美しい姉
わたしが想像していたものに遠くない光景が目の前に現れた。瓦礫と土砂で埋まる洞窟の前で、穴を掘り返しているエディス。躊躇なく振り上げるその手は素手だった。
改めて鳥肌が立つわたし。エディスとは少し離れたところに倒れているのはアンナだ。思わず息を飲んだが外傷があるようには見えない。
よっぽど夢中になっているのかエディスはわたし達には気がつかないようだ。わたしはローザにアンナを指差すと、彼女も頷く。二人が忍び足でアンナに近づこうとした時、
「何をやっている?」
アルフレートがエディスに声をかけた。おい!
わたしが抗議しようとすると、エディスがゆっくり振り向く姿が見えた。
「……もう来たの?」
振り向いたエディスの顔は別人に変わっていた。穏やかさも、柔らかさも消え失せている。しとやかな、と思っていた笑顔も今は不気味なだけだ。
「マルコムが教えてくれたんでな。お前がここに来るはずだと」
マルコムの名前を聞いた途端、エディスの顔から笑顔が消える。眉を片方だけくい、と上げた。
「あなた達をもう少し、引っ張っておくんだったわね。……いや、ウォンが不甲斐ないのかしら。まあ元々相打ちしてくれたらうるさいのがいなくなって助かると思っていたのだけど」
「『核』ならもう無いぞ。私が破壊した」
アルフレートの言葉を聞いてもエディスには動揺がない。ふふふ、と笑い出した。
「そう、……ならもういいわ。考えてみれば私にはもう、必要がないのだもの」
言い終わった瞬間、エディスの口から聞き慣れない言語が紡ぎ出されて行く。耳に不快な、人には発音出来ないような言葉。
「くそっ」
アルフレートが舌打ちした。彼の方も素早く何かを唱え始める。
「オル・エヴァイトス!」
アルフレートの呪文が完成し、彼の右手に光の魔法陣が現れた。これって……。わたしの脳裏にあの雨の日が浮かぶ。次の瞬間、かっと開いたエディスの口に光が収縮し始めたではないか。
「あ、あれって!?」
ローザが悲鳴を上げた。エディスからブレスが放たれる。辺りを覆い尽くすのは目を開けていられないほどの光、熱気、轟音。わたしは悲鳴をあげていたと思う。でも、それも聞こえなかった。
「前を見ろ!」
アルフレートの言葉に我に返り、わたしは目を開けた。またしても彼のお陰で助けられたのだ。エディスがこちらに向かってくる姿を見て、わたしは横に逃げ出す。彼女の体もまた、人間のものとは変わってしまっていた。額からは大きな角が双璧を成し、背中からは黒い羽根で覆われた翼。間違いない。エディスはあの悪魔と融合している!
元いた位置から衝撃波を感じて振り返ると、イルヴァのウォーハンマーとエディスの手から伸びる赤黒い刃がぶつかり合っていた。イルヴァの顔が見る見るうちに苦痛に歪んでいく。エディスの顔はあの瞳孔が見えない赤い瞳に変わっていた。エディスが体を捻り、そのままイルヴァの体に蹴りを入れる。まともに受けて吹っ飛ぶイルヴァ。そこへヘクターが剣を走らせた。エディスは片腕でそれを受け止めるともう片方の腕をヘクターに突いてくる。ヘクターもかろうじて剣で受け流した。
しかしすぐにまたエディスの攻撃が始まる。ヘクターを捕らえるように伸びた腕が空を切り、そのまま地面に突き刺さる。わたしの足にまで伝わってくる振動が凄まじい。
「フレイム・ランス!」
アルフレートが炎の槍を飛ばす。エディスは舌打ちするとその場を飛んでやりすごした。
立て直したヘクターが剣を振るい、エディスが簡単に避ける。こんなに圧倒的な力の差を見せられるのは初めてだ。それでもヘクターは動揺を見せることなく構えを見せる。エディスの笑い声が響く。それはすでに彼女の声ではなかった。
「ファイア・ボルト」
アルフレートがもう一度横槍を入れる。隙が出来ればいい、と思ってのことだろう。エディスは簡単に避けてしまうが、その光景になぜかわたしの中で、何かの違和感が芽生える。
「アンナ!大丈夫!?」
ローザの声に我に返り振り向くと、ローザがアンナを抱き起こしていた。
「アンナの具合はどう?」
わたしが聞くとローザはアンナの顔色を確かめる。
「……眠らされてるだけみたいね」
「……じゃあ、起こすのは止めときましょう。こんな場面、見せることない」
わたしは唇を噛み締めた。ローザも深く頷く。
「ローザはアンナを連れてどこか遠くに避難しておいて」
「……リジアは……?」
「わたしは、……ちょっと確かめたいことがあるから」
わたしが言うとローザは黙って頷いた。アンナを抱え、引きずるように離れていくローザの背中をちらりと見てから、わたしはエディスとの戦闘の場に戻った。
目を離したのはほんの少しだったと思うのだが、戦況はかなり悪化していた。
まずイルヴァが腰を曲げたまま動かない。どこか折れているのかもしれない。ヘクターがエディスと渡り合っているが、どう見ても防御に回っているだけだ。エディスの腕を振り回す姿は明らかにめちゃくちゃで、それがかえって反撃に回れないようになっているのかもしれなかった。
アルフレートはヘクターがかわし損ねたエディスからの一手を防御系の魔法で援護し、たまに精霊を飛ばしたりしているが簡単に避けられている。フロロもウォンと戦った時のように囮になろうとちょっかいを出しているが、相手にもされていない。
わたしはアルフレートのすぐ横に走り込むと、唱えておいた呪文を放った。
「エネルギー・ボルト!」
魔力の塊がエディスに向かっていく。が、いとも簡単に体を避ける。でも、期待した通りの動きだ。
「……練習ならこんな場面でするなよ」
アルフレートが術の印を手で結びながら言った。額には汗が滲んでいる。
「ちょっと思いついたことがあるのよ」
わたしも次の呪文を唱え始めた。
「なんだ?適当なアイデアは出すなよ。お前の王子様もそろそろ体力限界なんだ」
「エネルギー・ボルト!」
わたしはもう一度同じ呪文を放つ。
「……おい、ふざけるな」
こんな初級も初級の呪文が通用するなんて思っていない。アルフレートがわたしを睨むのと、ヘクターのロング・ソードが宙を舞ったのは同じタイミングだった。それでもエディスはその場から一歩下がった。ヘクターにとどめを刺そうとすれば可能だったはずだ。
わたしの呪文を避けるために、彼女は下がったのだ。
その間に、イルヴァが足下に落ちてきたロング・ソードをヘクターに投げ返した。
「悪い」
ヘクターが柄を握る。わたしはアルフレートに耳打ちする。短い説明だったが、彼には言いたいことが通じたようだ。少しの間、眉間に皺寄せていたが、すぐに呪文の詠唱に入る。
わたしはその間にエディスの背後に走りこむ。普通なら背後だろうと死角にはなりそうにない相手だが、見るからにエディスは悪魔の力を持て余している段階だ。元々の彼女が戦闘という力を持っていなかった為だろう。それが充分チャンスになる。ただそれは時間が掛かればエディスは悪魔との同化を完全なものにしてしまう、ということだ。悪魔がエディスの体を完全に乗っ取る、と言った方が正解かもしれない。
ヘクターがエディスの攻撃を避け損ね、頬から血を流した。彼の動きも相当足に来ている。イルヴァが苦痛に顔を歪めながらも加勢に飛び込んで行った。
もう少し、もう少し、がんばって!
わたしがみんなとは離れた大岩の上に来た時、鈍い衝撃音と共にヘクターとイルヴァが吹っ飛んでいく。エディスの動きの精度が明らかに上がっていた。次は、次のチャンスはない!わたしは呪文を唱え終わるとアルフレートに向かって手を挙げた。それを合図にアルフレートが呪文を放つ。
「カーズ・イクスプロージョン」
黒い光球が、エディスの周りを取り囲む。一つでも触れれば爆発を起こし、それが周りを誘爆していく呪文だ。
「ちっ!」
エディスが地を蹴った。空に舞うように高く飛び上がる。翼は、広がらなかった。
「エルメキア・ディバイン!」
わたしは指先から伸びる光の触手をエディスに向かって投げつけた。
「……!」
いとも簡単に捕まるエディス。彼女はまだ背中の翼を使うまでにはなっていないのだ。今の呪文はウォンが私に使ったものと同じ、魔法のロープで相手の動きを封じるもの。普通だったら人間が悪魔相手に使って通用するような呪文ではない。ウォンがわたし相手に使ったときのようにその場で切られるか、発動すらしないのかもしれない。しかしわたしの放った触手はエディスの動きを完全に捕らえていた。
驚くような表情を浮かべていたエディスが、次第に狂ったように暴れ出す。聞こえてくる悲鳴がわたしの胸を締め付けた。やらなきゃやられるのだ。この呪文の欠点は対象がわたしの視界内ということだ。そのためにエディスには単独になってもらう必要があった。例えばこの、空に浮かぶ彼女のように。
「アルフレート!」
わたしは叫んだ。アルフレートがトドメを刺すべく、口を開く。そのときだった。
「やめて!」
アンナの声にわたしは肩を振るわせた。思わずエルメキア・ディバインの呪文を解きそうになる。
「行っちゃ駄目!」
ローザとアンナがもみ合っているのが気配でわかる。
「……アンナ……」
エディスの口から漏れたのは、まぎれもなく彼女の声だった。
「わたしは、今、何をしているのかしら。……でも、それは私には最後までわからないのでしょうね」
呟く彼女の言葉は懺悔のようだ。
「なに、悪役になるのはなれている」
アルフレートが苦笑すると光輝く矢を放った。ジリリ、というはじける音。深くエディスの胸に突き刺さったそれは、彼女が地面に落ちてくるのと同時に消えた。
「姉様、姉様!」
アンナがエディスに駆け寄っていく。この後、わたしは彼女に何と声を掛ければいいのだろう。
膝から崩れ落ちた時、わたしの目の前に幻影のようなものが現れた。まるでそこにいるかのように鮮明だが、わたしにはこれが実体のないものだとなぜか理解した。黒い翼を持つ異形のもの。彼はわたしだけに語りかけてきた。
『我が名はヴォールドール。ようやく帰ることが出来た。力無き人間よ、礼を言う』
悪魔らしからぬ台詞を残し、悪魔ヴォールドールは空に消えていった。
アンナがエディスの亡きがらを抱き抱える横で、ローザがイルヴァの治療をしている。イルヴァの顔色はかなり悪そうに見えた。ローザもかなりキツイのだろう、疲労の色が濃い。わたしがアンナに声をかけようと近づいた時だった。
「……アンナ」
森の入り口方向からやって来たのはマルコムだった。アンナは振り返り、マルコムの姿を見た瞬間、小さく悲鳴を上げる。マルコムは自分の胸元を見遣ると苦笑した。
「大丈夫、もう傷は塞がっているから」
アンナはほぉ、と溜息をつく。今のやり取りで、わたしは重大な勘違いをしていたことにようやく気が付いた。アンナがマルコムを想っていたわけではない。二人が二人とも、お互いを想っていたのだ。それがどうしてエディスと結婚したのか、などと聞く気はない。誰が悪いのか、なんて今となってはあまり興味が無かった。
ヘクターにおんぶされたイルヴァは露骨に不機嫌な顔だ。
「しょうがないだろう、お前を抱えて動けるのはヘクターぐらいなんだから」
森を歩きながらアルフレートがイルヴァを窘めるが、イルヴァは頬を膨らます。
「イルヴァは誰の肩も借りたくないんですよ」
ヘクターは苦笑いだ。こんだけジェラシーが沸き上がらない光景も無いかもしれない。みんなドロドロのへとへとだ。割と元気そうなのはフロロくらいか。アルフレートも今回ばかりは相当キツかったに違いない。服についた泥がそのままだ。後ろからはマルコムがエディスを抱えながら歩いている。隣にいるアンナは目が腫れて真っ赤だ。しかし、どこか覚悟を決めたような、強い力を宿していた。
「薔薇風呂入りたいわあ」
ローザが力無く呟いた。
「ローザちゃんも疲れたでしょう」
陰の功労者の背中をぽん、と叩く。
「あんたは元気そうねえ」
ローザの声には感心の色と呆れた様子が混じっていた。魔法を唱えることで疲弊したことが無いのが唯一の自慢であるわたしだ。……ローザとわたしの魔力を交換できたら一番戦力アップになるような気がしてならない。