黒ミサ
使用人棟のキッチンを抜けた先にある小部屋、安っぽい壁紙に囲まれているのはそれに似つかわしくないマホガニー製のデスクと、積み上がる立派な革張りの本だった。掃除は行き届いているが、足元は石床にちゃちで下が透けるようなカーペットが寂しく置いてあるだけで、追い詰められてとはいえ主人が利用するような部屋ではない。しかし食事すら外部から運んでいたのだから、この使用人棟に人の出入りはなかったはずで、ちょうど良かったのだろう。
「宗教学の本だと見つかったら、何されるか分からなかったから」
とクレイトン氏は急な引っ越しであったであろうことがよく分かる乱雑さを前に頭をかく。
豪華な装飾の聖神の本やその宗教の特性をまとめた本、種族や民俗学、歴史本もあるが、明らかに怪しげな本も多い。サイヴァそのものの名前は無いが、タイトルに『密教』や『黒ミサ』と付くのがそうだと思う。こんな時に何だが、お金持ちって本もたくさん買えていいなーなどと考えてしまう。
「私自身に信仰心はないんだが、宗教学を勉強していると世界そのものを見ている気分になるんだ。だから興味を持った」
館の主のそんな話を聞きながら、狭い部屋にみんなして身を寄せ合った。
「この本によると」
卿がそう言いながら引っ張り出してきた本は何度も補修した跡が見える年代物だが、埃は被っておらずここ最近も読まれていたのだとわかる。タイトルは「黒の祈り」とある。
「サイヴァに限らず、降神の儀の目的は『聖戦のため』と『信仰する神の存在の確認』だそうだ。ここでの聖戦とは聖なる、という意味ではなく信仰する宗派による戦いという意味だ」
「要するに宗教戦争な」
フロロが付け加えるとクレイトン卿は頷いた。
「そう、それと降神によって神の力を感じ、目視することで神との繋がり、信仰を確認する意味合いもある」
「それってサイヴァ以外の神でもやってるってこと?」
わたしが聞くと学園長が答える。
「最高位の神官しか出来ないし、よっぽどのことじゃないと神様自体が降りてきてくれないけど、サイヴァだけの儀式ではないよ。フロー、メーニなんかは戦い自体に否定的だからあまり実例は聞いたことはないけどね」
「へえ〜、じゃあ大きな戦争では神様の一部VS神様の一部みたいなことになってたりするのかなあ」
「なんだよ、そのプロレスみたいな」
呆れるフロロに学園長は笑う。
「そうかもしれないね。まあそんなことになったら、人は住めないほど荒れちゃうし、余波もすごいだろうけどね」
笑えない話をニコニコ語る学園長。クレイトン卿が弱々しい声で「続けていいかな」と言った。
「失礼、どうぞ」
学園長の促しに話が続く。
「ありがとう、……儀式に必要なのは『祈り手』『依り代』そしてこれが肝心、『大量のマナ』だ。そもそも神がなぜこの大地におらず、イデアと呼ばれる精神世界におられるのか、だが、それはこの地に存在するマナが限られているからだと言われているんだ。物質の構成に重要な役割を持っているとされているマナが、大きすぎる存在には対応出来ないというわけだ」
「海から上がった魚みたいなもんか」
アルフレートの例えにはローザの顔が大きく歪む。見ててこっちの方がハラハラしてくる。しかし学者気質はこうも空気が読めないのか、クレイトン氏は乗っかるように「それよりクラゲだろうか」などと言っている。そして軌道修正しようとしてか、小さく咳払いした。
「神降ろしはこの摂理を大きく動かして無理やり呼ぼうとするわけだから、大量のマナが当然のように必要となる。その源になるのは儀式に参加する『祈り手』はもちろんのこと、いわゆる『生贄』というものからだ。この質が儀式の成否を左右することは言うまでもない。
『祈り手』には神と対話出来るほどの高い信仰力を持った神官を、そして神が降りてきた際に入る体、もしくはこの世界に体を保とうとする手助けをするようなもの。それが『依り代』になる。宗教宗派によっては『祈り手』が『依り代』にもなる。しかし儀式の困難さからしても大抵が一つの『依り代』に対して複数の『祈り手』が執り行うようだ。
あとは儀式の成功率を上げるため、様々な工夫を凝らす。ラシャ神なら昼間でも煌々とろうそくをともすだろうし、サイヴァなら夜中に行う。蜘蛛、コウモリといったサイヴァのシンボルを用意したり……」
「神官の数を八人にしたりな」
アルフレートの合いの手にクレイトン氏は大きく頷いた。アルフレートがこちらを見る。
「ラグディスの件を当て嵌めてみろ。……『祈り手』はフォルフたち、『依り代』は火のルビー、マナは『祈り手』本人たちからだった」
「今回は? 『祈り手』……は魔女たちかしら。『依り代』がわかんないわね。火のルビーみたいなサイヴァの一部は多分無いだろうし。人でもいいなら魔女たちの誰かがなるのかな? マリュレーの村の人の役割はやっぱり生贄役? 祭壇見たいのが用意されててそこにみんなで待つのかしら。ラグディスの時はどういう仕組みだったんだろう」
わたしの指折ながらの疑問にローザも身を乗り出してくる。
「ラグディスの時は女王と八人の『足』と呼ばれる神官、だったはずよ。ミーナやレオンまで勝手に儀式に参加させられたのを考えると、何か強制させるような呪文をかけたりがあるんだと思う。それこそ呪いのような」
ローザの言葉に反応して、クレイトン卿が動き出す。後ろを向くと本の山からまた別の本を取り出した。漆黒で艶のない表紙は触るだけで呪われそうだ。
「サイヴァの高神官になるための儀式が書いてある。真偽は定かではないが」
クレイトン卿は本をめくり、目的のページを見つけるとわたし達側に向けてくる。
「この辺りからの記述だ。……サイヴァの高神官になるには、既存の高神官の中から女王役を決め、女王から術式と術印を受ける。数日前から香を体に潜らせたりもあるようだ。邪教に似つかわしいかわからないが『お清め』というものだろう。女王から受ける術式、刻印は体の一部に描かれ、儀式が終わるまでは消えることはない。……このくらいだったはずだ」
「逆に言えば儀式が終われば消えるってことよね? だからミーナもハンナさんもレオンも、気づいた時には特に何もなかったんだ」
わたしは今更の回答に一人頷く。それにエメラルダ島に渡ったサントリナ王弟が、城に戻らなかった訳もおぼろげながら分かった気がする。彼が『足』の認定を受けてからサントリナでは降神の儀式など無い。彼は『足』のままなのだ。
「『祈り手』と『マナ提供者』の違いは、儀式を行う側でしかわからない些細なものかもしれない。かなり昔だが、十数人のサイヴァ信者が地下室で死んでいたのが発見された事件が記述に残っている。これは降神の儀の失敗だったようだ。マナ提供は人でなくてももちろんいいはずだ。現にこの事件では大量の魔晶石も転がっていたそうだから」
クレイトン卿の話にわたしは唸った。
「神官が八人って決まりがあるなら、残りは単に居合わせた信者よね。信仰と同時に『私はサイヴァに身も心も捧げますよ』って誓ってるってことなのかしら。それともやっぱり印をつけられてるのかも」
トカゲたちが熱心に手帳にペンを走らせている横、アルフレートが「忘れるなよ」と言いながら、手にしていた本を閉じる。
「今回は祈り手の八人は綺麗に揃っている。この前みたいな混乱の中、不完全な形で行われた儀式とは違う。それとマナ提供は楡の木会のメンバーで間違いないはずだ。マリクの時代の儀式では、それで村人は消え去った」
「ってなると……ジョンが心配だわ。きっと楡の木会でやってた行の中に儀式につながる何かがあったんだと思う」
わたしが言うとローザが動く。
「あたし見てくるわ」
言うや否や、テーブルに置いたフローラの中へ消えていった。わたしはまた思案に耽る。
マリクの時代と同じ、ということはつい最近読み返したばかりの本にヒントがあるはずなのだ。マリクはどうやって儀式を止めた?
「確か……魔女が祈りを捧げてた物を叩きこわしたのよね。魔女八人が囲んでた物……松明の炎、篝火、……黒水晶! でもそんなもの村になかったし」
ぶつくさ言うわたしの肩をアルフレートが叩いてくる。
「とにかく村に戻るぞ」
それに頷き返した時だった。
「あのー」
遠慮がちな声が響く。見るとヘクターが小さく挙手をしていた。
「村に行く前に、そろそろヴィクトリアたちの救出に向かった方がいいと思うんだけど」
わたしとアルフレートは顔を見合わせた。
「わ、忘れてたわけじゃないわよ。アルフレートがせかせか動こうとするから」
「私こそ覚えていたぞ。私は自分の知識欲に忠実に動いているだけだ」
そこへフロロが「はいはい」と割って入る。
「似た者同士の喧嘩はいいから、じゃあ地下室だっけ? 移動しようぜ」
「似た者同士!? 嘘でしょ!? やめてよ!」
わたしの悲鳴が小さな部屋の中にこだました。
「ヴィクトリアはクレイトン家の中で、一番私に似ていた。幼少期しか顔は合わせてなかったが、学問にのめり込む気質といい、どこか諦めるような目をしていたり、ネガティブな面も手紙を見るだけでよくわかった」
本館に戻り、東側にある地下への階段を降りながらクレイトン卿は話し出した。そして思い出したように燕尾服を脱ぐ。
「ここ最近の彼女の父、私の弟の相談に乗れなかったのは、昔の確執ももちろんあるが、単純に私が興味を失ってしまったからだ。こんな恵まれた身分で言うと敵を作りそうだが、金に興味がない。ただでさえ父親から継いだ地区議員の座が重苦しいのに、口を開けば商売の話をしてくる弟夫婦が心底嫌になっていたんだ。……だからこそ似てない姪は可愛かったんだがなあ」
「さすがレイノルズ氏と懇意にするだけある両親像だなあ」
ポツリ呟くアルフレートにフロロが足を蹴る。わたしの脳裏にも蘇るあのビール腹。あのおっさんのことはもういいわよ。
「こっちだな?」
フロロが卿に確認すると、廊下を先に行く。地下なだけあってろうそくが無ければ真っ暗だ。灰色の切石が並ぶ壁、床の雰囲気はダンジョンのようだ。
フロロが針金を突っ込んでいるのは朽ち果てる寸前の木の扉。鉄格子がはまっていたりと物騒な代物だった。
「牢屋みたいだ」
ヘクターが驚くような声を上げると、クレイトン卿が振り返る。
「領主時代には入り用だったようだ。今は地下自体、手前にある貯蔵庫以外は使っていない」
その会話の間にも鍵は外れ、扉が開く。ウィスプが先導して中に入っていくと、照らされたのはみすぼらしい藁に寝かされたヴィクトリア、シリルのかわいそうな姿だった。駆け寄ろうとしたわたしを止めたのは学園長。一人、先に入ると二人の首元、手首などを調べる。
「またランフィネの効果が入ってるな……。飲食したとは考えにくいから、お香や吸引でも強力な効果があるものが存在するのかもしれない」
冷静な声でそう告げると、また浄化の呪文も唱え出す。その間に、わたしの肩に停まったフローラちゃんから、ローザ、ジョン、ヤン神父が現れた。
「わかったかもしれないわ」
そう言った後、ローザは学園長の姿を見て口をとめる。ちょうど呪文が完成し、ヴィクトリアたちの瞼が動き出したからだ。一緒に出てきたジョンが不安そうな顔で両手を擦り合わせ、そんなジョンを神父が宥めていた。
「う……」
ヴィクトリアが呻き、シリルが光源のウィスプに目を細める。二人はのっそりと起き、我に返った後は素早く立ち上がる。
「みんな! 無事だったんだ、私……」
ヴィクトリアの動きが止まる。燕尾服を脱いだ卿が口元に手をやると、立派なヒゲを剥ぎ取ったからだ。そしてモノクルを外すと、撫で付けた髪を手ぐしでほぐす。固まっていたヴィクトリアの表情が見る見るうちに曇り、そして後ずさった。
「嘘よ、なんで……」
「まあ気づかなかったアンタも大概なんだから、少しは大目にね」
フロロが言うもヴィクトリアの顔は青ざめたり、怒りに赤くなったりと忙しい。
「に、似てるとは思ってたのよ。でも小さい頃に数度しか会ってないし、堂々と使用人面されて疑えると思う?」
震える声には様々な感情が混ざっていた。もちろん無事が分かって嬉しい、という気持ちもあったのだと思う。しかし抑えきれないものに押しつぶされたのか、彼女の頬に涙が伝った。
「すまない、ヴィクトリア。本当に……」
そう弱々しい声で呟いた後、クレイトン卿は俯いたままになってしまった。