神官、再び
「それじゃ、入るわよ」
緊張を最大限含んだヴィクトリアの声に、わたしも身構える。ワニスをたっぷり含んだ扉は手入れもいいのか、音を立てずに開いていく。向こうの出方によっては即、戦闘なんてことも考えられた。
夜中のクレイトン邸の中は薄暗い。ただ昼間からこんな様子なので様変わりしたということはないが、夜を感じさせる虫の音といい沈んだ空気感といい不気味だ。ヘクター、シリルが剣柄に手を当てながら入り、他メンバーも続いて入る。
静寂を破る、とたとたという足音に全員の肩が揺れる。屋敷の奥から走ってきたのはクレイトン姉妹の末娘、五女ヒルダだった。薄く桃色に染めた頬と笑顔でこちらに来る。
「おかえいなさい!」
まだ上手とは言えない走り方と回らない口に、無意識に気がぬける。そこへ、
「こら、お行儀の悪い」
老婆の声がし、またびくりとしてしまった。先代夫人、とでもいうべきだろうか。ヴィクトリアの祖母だと名乗る老婦人がゆっくり歩いてやってくる。ヒルダはその祖母の背中に隠れると、顔を覗かせてにっこり笑った。こんな夜中に幼い子が、と考えてハッとする。彼女だって何者なんだろうという疑問は残る。無邪気な子供にしか見えないこの子も何か特別な力を持った人間なんだろうか。その彼女が身を隠す老婦人も何者なのだろう。そして自分達が疑われていることに気づいているんだろうか。
反応に困るわたし達に、一度も外遊びをしたことがなさそうな白い肌の幼女は笑う。
「マリュレーのみんなはしあわせなの」
その声を聞いた途端に、背中がぞわりと震える。
「もう、休みますから」
ヴィクトリアが二人を追い払うように声を上げ、焦る様子を階段に小走りに向かうことで表していた。
「参ったわね、あんな気味の悪い相手は初めてよ」
自室に戻り、天井を仰ぎ見ながらわたしは喘ぐ。ローザも疲れた様子でため息ついた。
「どう出るべきか判断できないわね……。いきなり喧嘩売るのもあれだし、やっぱり何が目的なのか掴まないと」
「フロロの戻りを待たなきゃいけないしね」
トントン、と迷いのないノックの音が部屋に響く。わたしはベッドに投げ出していた足を下ろし、座る。髪を梳かしていた手を止め、ローザが扉を開けると廊下にはヴィクトリアが立っていた。
「少し話したいんだけど、いいかしら」
ヴィクトリアの榛色の眼がわたしを向いている。わたし、そしてローザも頷いた。
「あたしはイルヴァの所に行ってるから」
立ち上がり部屋を出るローザに「ごめんなさい」とヴィクトリアの呟く声が聞こえた。
わたしは丸テーブルの席を使うか迷ったが、テラスに出ることにする。なんとなくの気分転換だった。軋むガラス戸を開けると、真っ黒な森が風によってざわざわと揺らめいている様子が一望できた。
「謝罪はしないわ。しても欲しくないでしょうし」
ヴィクトリアの彼女らしい言葉に、わたしは遠慮なく頷いた。言われた通り、謝罪など欲しくない。謝るという行為は相手に許すことを強要する。そんなことはして欲しくないし、許す気もない。ただ、もう既に彼女に怒りを感じていないのは確かだった。
ヴィクトリアはわたしに続いて外へ出ると、アイアン製の柵に腕を乗せて凭れ掛かる。
「でもこんなことに巻き込んだのは謝罪するわ。まさかこんな大事なんて……。伯父様も、伯父一家も探さなきゃいけない」
「それは、本当に気にしないでいいわよ」
わたしの『それは』を強調する言い方にヴィクトリアは固まる。そしてふっと笑うと再び話し始めた。
「クレイトン家のプライベート、なんて大げさな言い方したけど、笑っちゃうようなバカみたいな話なの。……伯父様と私の両親の仲が壊れたのはよくある口喧嘩からで、そこからお互い引っ込みがつかなくなってた。喧嘩の理由は、前に話したけど私の母と祖母の折り合いが悪かったのと、それで言い合いになった時に父が伯父様のことを罵ったからよ。主に伯父様の研究内容や学問も否定する言い方でね。私にはどっちが悪いのかはわからない。父と母の言い分が間違ってるとも思わない。母が不必要に冷たくされるいわれはないし、父は母を守っただけ。でも、伯父様の気持ちもよくわかる。クレイトン家の力が必要なら黙って従っていればよかったのよ。名家でないと取引できない商談なんて、きっとまともじゃないし、その調整の為に娘を使うなんてね」
ゆっくりとではあったが、つっかえなく話したヴィクトリアに、彼女はきっとこの話を誰かにしたかったのだな、と思う。
「なんていうか、大人って難しいね」
わたしの情けないほど単純な、子供じみた慰めにも効果はあったようで、ヴィクトリアの顔から緊張が消えていた。
「伯父様と手紙のやり取りだけはあったのは本当よ。私が両親のバカにする学問に従事することになったのが嬉しかったんでしょうね。でも、私にだけ優しかったのも本当。ただ村の事件を聞いて行くと言ったのはこちらからで、伯父様は反対していたけど、伯母様がバスのチケットを送ってくれたのよ。伯母様のサインと共に『これで私たちを助けに来てくれることを望みます』って一言あったから、伯母様本人からなのは間違いないと思う」
「それはいつぐらい?」
「新聞でマリュレーの事件を見て、両親が騒ぎ出してすぐだったから……2週間前かもう少し後かってところかな?」
「ってことはそのくらいまでは本物の家族が屋敷にいたってことよね」
「そうね……」
ヴィクトリアは口元に手を当て考え込む。一際大きな風が吹き、二人して髪を抑える。湿って冷え込む風だ。明日も雨に違いない。わたしは空からヴィクトリアに視線を戻すと問いかける。
「何でわたしにそんな話を?」
正直な質問に対し、ヴィクトリアは少し考えた後、首を振る。
「わからない。ただ、リジアが一番話しやすいって勝手に思っただけ。同じクラスだし」
ため息まじりの答えに、わたしは苦笑した。わたしは不思議な気持ちだった。ずっと話すことのなかった元友達と、こんなにしゃべることになるなんて。照れくさくないと言ったら嘘になる。ただ、話しておくべきなんだと思う。彼女もそんな気持ちなんだろうか、と隣を見る。するとヴィクトリアの目が潤んでいるのに気づいた。
「私、ふられたのね」
呟くような声だった。
「気持ちを知られた時点でもう、諦めなきゃいけないんだわ。だって対象外の人間なんだもん。もう終わりにしなきゃ」
わたしには返す言葉がわからない。かわいそうだとも思う。でも彼女の言う通りだとも思う。でも、わたしが同じ立場だとして「はい、ここまで」と切り替えられるだろうか。ヘクターがもし、ローザちゃんみたいなタイプの人間で……ってちょっと想像つかないな。ヘクターが実は男の人が好き、とか。オカマとゲイとどっちが希望持てるかしら。ああ、だめだ。何考えてるんだろう。ヴィクトリアは別に同情してほしいわけじゃないだろうに。
わたしが勝手に頭から煙を出して考え込んでいると、いきなりヴィクトリアに腕を下に引っ張られる。しゃがみこむ姿勢になったわたしは何事か、と聞きそうになり、その口をまた押さえつけられた。
(シー!シー!下!下!)
囁くヴィクトリアの声と必死な指差しにテラスの柵ごしに下を見る。屋敷の裏手に立つ人物が見えた。角度から見えにくいことこの上ないが、見つからないように注意しながら目を凝らす。
(ウェンディ?)
口ぱくで尋ねると、ヴィクトリアは頷いた。やや大柄な背格好と長い髪を一つに縛った姿は長女ウェンディだ。すでに黒竜の時は過ぎる時刻だと思うのだが、何をやっているんだろう。森の方角を見ているようだ。そのウェンディをわたしとヴィクトリアがひっそり見る、という状況がしばらく続く。足の裏が疲れてきた時だった。森の方から現れる影がある。全身像が見えると二人揃って息を飲む。
(あれって……)
ヴィクトリアが呻く。白のローブのずんぐりとしたシルエットを指差した。わたしも頷く。何の特徴もないローブなので断定はできないものの、楡の木会の白いローブと見ていいだろう。その白いローブに視線を戻した時、わたしは腰を抜かす。
(だ、大丈夫?)
ひっくり返ったわたしにヴィクトリアが手を伸ばす。わたしは頷きつつも血の気が引いていた。白いローブの人物がウェンディの前に来て、フードをとった瞬間、現れた顔は見間違えようもないあの男のものだったのだ。
最悪の状況だ。そう頭に警報が鳴らされる。フードの下から現れたのは、あのフォルフ神官のものだった。
わたしは嫌な汗で頭、背中がびっしょりだった。目線の先にはすでにウェンディ、フォルフ共にいない。
「何してたのかしら……。何か受け取ってたわよね?」
ヴィクトリアの小声に何とか頷く。わたしの様子に彼女も不安げな様子を濃くした。ウェンディは森から現れたフォルフから、何か生成りの布袋を受け取っていた。他には特に話す様子もなく解散してしまっていたが、そんな様子を観察できる余裕などわたしにはなかった。あの男が出てきた。ハーネルが出てきた時から覚悟はしていたものの、実際目にするとあの時の恐怖がよみがえる。
ヴィクトリアの青い顔に申し訳なくなり、中で説明しようと立ち上がる。震える手でガラス戸の取っ手を掴んだ時だった。
「リジア・ファウラーか?」
暗闇からの声にまた腰が抜ける。恐怖を通り越して悲鳴が声にならなかった。あうあう、となるわたしの前に小さな影が飛び出してきた。
「なんだよ、あんた、ビビりすぎだろ」
音もなくテラスに舞い降りたのは知らないモロロ族だった。子供のような顔に猫の耳と尻尾、盗賊らしい身のこなしだがフロロとは髪色が違って真っ黒だ。
「あんたか目付きの悪いエルフ、どっちかに伝言頼むって言われてきたんだ。あんたでいいや」
「いいや、って……まあいいわ、誰からよ?」
なんとなく読めたもののわたしは尋ねる。すると案の定の答えが返ってきた。
「フロロだよ。あのイケメン野郎さ。あいつ何やってんのかと思えば、今あんたらと組んでるんだな。まあその辺の話は置いといて、伝言だよ。『戻るの遅れる。なんとか頑張って。俺はキラキラ学園長の駒になる』だとよ」
「は、はああ?」
思わず大きめの声が出て、わたしは慌てて口を押さえる。ヴィクトリアが「シー!シー!」とうるさい。
「おいらを睨んだって知らねえよ。伝言頼まれただけだもんね」
ひょいと肩をすくめる名も知らないモロロ族は、そう言うとテラスの柵に軽く飛び乗った。
「じゃあな」
その一言とともに、再び闇に消えていく。その後は静寂が戻るのみで、行ってしまったようだった。
「戻るの遅れるって言ってたわね」
呆然とするヴィクトリアの声に、わたしは我に返った。
「何考えてんのよ、このクソ忙しい時にぃ!」
わたしの歯ぎしり混じりの声は、お世辞にも可愛いと言えるものではなかったに違いない。




