悪趣味な学者
濡れた髪が頬に張り付く。それを指で払いのけながらつる草をくぐる。時折、風が吹くと木々の枝葉に溜まった雨粒が一斉に落ちてきた。
「体が冷える前に一度、休憩しよう」
ヘクターの提案にわたしは無意識に首を振っていた。わたしは焦っていた。ヴィクトリアがいなくなったのは、どう考えてもわたしに責任があると感じていたのだ。あの晩、すぐにローザを起こしていれば。翌日だって、何度も仲間たちに話すチャンスはあった。彼女の訴え、あの謎のクレイトン家の姉妹達、あの後の動き。ヴィクトリアだからどうでもよかった?彼女なら自分で何とかするだろうと思った?いなくなってせいせいした?そもそも、わたしに事件を解決するつもりがあった?ここに何をしに来たの?いい顔見せておきながら、わたしは彼らの関係性が瓦解するところを、目の前で見たかったんではないの?
もう一度首を振る。あの時は妙な魔法のせいで眠気が襲ってきたんだ。次の日も、アルフレートが『余計なことはするな』なんて言うから。自分擁護の言い訳が浮かんでは消え、わたしはまた首を振る。後ろからヘクターが深いため息をつくのが聞こえた。
「やっぱり休もう」
少し離れたところで周りを見渡していたローザが駆け寄ってくる。
「あっちに洞穴があるから、そこまで行きましょ」
彼女の美しいローブも今は裾が泥だらけ、雨水で袖が垂れ下がり、ひどいものだ。わたしは探索を続けてきた森をもう一度見回し、頷いた。
「フロロがいないのが痛いわね」
わたしはいつも足元を駆け回る猫男の存在を、今一度、噛みしめる羽目になった。あの後、逃げるようにクレイトン邸を出ると、とりあえずヴィクトリアを探さなければ、と二手に分かれたのだ。屋敷の周辺を探す一派と屋敷にひっそり戻り、内部を探す一派だ。『いないわよ』と言われて、そうですか、とは納得できない。カイとトカゲ達に隠密行動を取ってもらい、残りは表の探索である。その六人もまた二手に分かれ、屋敷の北側と南側に分かれた。山を登る形になる北側は、比較的身軽なイルヴァ、シリル、アルフレートに回ってもらい、こちらは崖下になる南側を見ていく。
昼は超えている時間だと思うのだが、未だに雨は上がらず肌寒い。泥濘むけもの道は体力よりも気力を奪っていった。一緒に歩くヘクター、ローザの二人とも、わたしに聞きたいことは多いと思うのだが、黙って歩き続けていた。
ローザの言っていた洞穴とはちょうど屋敷の真裏、おおよそ屋敷の下に来る位置と思われた。洞穴とは言っても山の斜面が雨風によって抉られただけのもので、雨粒は凌げても地面は濡れている。ローザが下級の火の呪文を使い、無理やり焚き火を用意してくれた。
「大丈夫、笛吹き男に連れ去られてなんかないわ。だって笛の音を聞いてないじゃない」
ローザが火に枝を放り投げながら言った。そうだ、確かに毎晩ここに戻っているのに、笛の音なんて聞いていない。とすれば、音は村限定なんだろうか。わたしが納得しそうになっていると、
「笛じゃない」
はっきりとした声を出したのはヘクターだった。わたしとローザが彼を見ると、ヘクターは枝を拾い上げながら続ける。
「音は笛じゃない。鈴のはずだ」
「ああ、そういえば」
ローザが手を叩いて頷く。ジョセフたちの話に出てきたのは鈴の音だったっけ。笛吹き男の話なんて聞いたからごっちゃになっていた。
「大昔の話に出てきたのは笛だったかもしれないけど、あの村で今、鳴ってるのは鈴だ。俺たちも聞いたことがある」
ヘクターのいつになく迷いのない言い方にわたしは困惑する。あの村で聞いた音っていうと、教会の鐘と見張り台の下に設置されていた古ぼけた、鳴る音も古ぼけていた鐘だけだ。わからない、とわたしが答えそうになった時、隣でローザが息を飲む音が聞こえた。
「獣人たちを呼ぶ音ね」
彼女の声に、わたしの頭に急激に思い出される光景があった。足元から闇に飲まれるよう消えていったハーネルの姿だ。ラグディスの街のはずれ、荒野での出来事だった。ミーナの振りをしてサムを助けにいった晩、獣人たちに捕まっていたハンナさんを巡って戦闘になった。その幕引きになったのが奇妙な鈴の音だったじゃないか。
「あれって結局、誰がやってたかは、わかってないけど」
わたしはそこまで言ってから喉を鳴らす。わかっていないが、多分フォルフ神官だ。あの男がまた現れるんだろうか。だとしたら……。
わたしはトラウマになっている彼の顔を思い出しそうになり、頭を振った。目の前に現れたフォルフの顔。圧倒的な威圧感と届くことのない勝者の力を叩きつけられたのだ。
無言になるわたし達の耳に、ただ森を打つ雨の音だけが聞こえていた。そのはずだったのだが、パキリ、と枝を踏みしめる音がする。弾かれたように揃って顔を上げ、音の方向を探す。すると、
「おや、こんなところで雨宿りですか」
この状況に似合わないのんびりとした声にわたしは雨の中に飛び出した。
「ぼ、ボンさん」
黒ハットに黒ローブ、大きなリュックを背負って森の中を歩いてくる人物にわたしは抱きつきそうになってしまった。さすがにそれはやめて、彼の前に走り寄るだけにしておく。わたしの勢いに目を丸くしたボン氏はポヨンポヨンのお腹を揺すると、
「またお会いしましたねえ。……それより、向こうに女の子が」
顎髭をさすりながらそう言って彼が歩いてきた方角を指差した。
「え……」
わたしはそう漏らした後、走り出す。後ろからヘクター、ローザも追いかけてくる。
「あそこだ!」
ヘクターの言う通り、向かう先に倒れたヴィクトリアの姿があった。駆け寄り、起こそうとするわたしをローザが手で制す。そして首元や目、手足をチェックしてから上体を起こさせる。怪我をしているようには見えないが、目を開けない。不安になるわたしにローザは頷いた。
「大丈夫、気を失ってるだけみたい」
頼もしくなるテキパキとした態度で、そのままヴィクトリアを持ち上げようとする。が、
「おもぅい~!」
中座のまま固まる。乙女に重いなどとは失礼な、と頬をひくつかせるわたしの脇からヘクターが手を出した。その彼にヴィクトリアの体を預けながら、ローザはハッとしたように顔を上げる。
「この子、濡れてないわ」
一瞬、意味が呑み込めずにいたが、ヴィクトリアの頭、正面、背面と目を動かす。顔や髪は少々雨に打たれているが、わたし達の方がひどいくらいだ。そして背中は綺麗なものだった。倒れた時に下になっていた左側面に、土汚れが付いているだけだ。
「どういうこと……?」
わたしは疑問を口にせずにはいられなかった。この辺りに建物などない。強いて言えば崖上のクレイトン邸だけだ。落ちてきたんだとすれば外傷がない。
「生えてきたんですかねえ」
いつの間にか輪に入り、クフクフ、と笑うボン氏に反応出来ず、全員が真顔のまま見ていると、
「失礼」
と言って、帽子を持ち上げ謝る。謝らなくてもいいが、もっとマシなヒントがほしかった。
「ところでボンさんはどうしてこんなところに?」
わたしが聞くと、北西と思われる方向を迷いなく指差した。
「リーツコッグと言う小さな村に行ってきて、首都の方へ戻ろうとしたらこんなところに来てしまったのですよ」
聞いたことあるような、ないような名前に首を傾げていると、ボン氏はまた先ほどの方角を指さす。
「リーツコッグはついこの前、大きな土砂災害に見舞われましてねえ。ギンイロシッポというこの辺りじゃ珍しいリスがいたはずなので、彼らの無事を確かめに行ったんです」
「へえ……、それで大丈夫だったんです?」
わたしの問いに大きく頷く。
「少し散策しただけで数匹発見できましたから、大丈夫でしょう。この辺りは動物の発見は期待できませんからね、そろそろ行きますよ」
「え、ちょ……」
さして素早い動きに見えなかったのに、わたしが引き止めようとした手は空振りする。
「ではお元気で。お嬢さん」
にこやかに手を振るボン氏に、思わず手を振り返してしまう。呆気にとられた顔で手を振る三人を背後にしながら、ボン氏はまたシルフのように軽やかな動きで消えてしまった。
「何なの、あのおじさん」
ローザがそう呟いた後、自分の袖口を見てギョッとする。
「なにこれ!?」
見るといつもなら金の刺繍がため息が出るほど美しいローブに、雨のシミと共に妙なバッジが付いていた。荒れ狂う馬……じゃなくてこれはユニコーンだ。ツノを振り回すポーズは、戦乙女を乗せた高潔な白馬、という感じではなく、処女だと騙されて憤怒しているバージョンに見える。
「アンタにあげるわよ、集めてたわよね」
「あ、ありがとう」
ローザからバッジを受け取ると、ポシェットに針を通した。これいっぱい集めたら、七色の虹に乗って夢の世界に行けたりするんだろうか。
「出てこないわね」
クレイトン邸の正面玄関を見ながらわたしはぼやく。
「ヴィクトリアも起きないわ」
ローザがシリルの背中におんぶされたヴィクトリアの額を触り、眉を寄せた。
表の探索組は合流し、ヴィクトリアも発見できたものの、このまま中に戻る気にはなれない。屋敷内に入ったカイとトカゲ達が戻るのを、とりあえず木陰に隠れてこそこそしているのだが、お腹は空いたし揃ったところでどこへ向かうかも決めていない。案の定、イルヴァはお腹を押さえてしゃがみこんでいる。
「やっぱり教会に行くのが一番いいかな」
わたしの提案にみんなが頷いている横で、アルフレートがしびれを切らしたように屋敷に一歩近づく。
「遅い、何か合図出してみるか」
そう呟きながら呪文の詠唱に入る彼に嫌な予感がする。
「ちょっとちょっと! 物騒なもの唱えないでよ」
そうわたしが間に入った時だった。
「あ、出てきた」
ヘクターが屋敷の方を指差す。見ると裏手からこそこそと走ってくるカイとトカゲの五人がいた。こっちこっち、と手を振ると、スピードを上げてやってくる。
「ヴィクトリアいたんだな!いやいや参ったぜ」
濡れた頭を振りながら、カイはため息ついた。ニームも首を振っている。
「お嬢さんを探すついでに、屋敷内をかなりしつこく見て回ったんだが、特に怪しいものはないな。誰かが幽閉されている、なんてこともなかった」
ニームの言葉にカイも頷いた。
「クレイトン卿の書斎が唯一、悪趣味かもしれねえな。サイヴァやら魔女のミサの本、デーモン召喚の本もあった。ただ他の神様の本もあるし、妖精だとか精霊の本、魔術書も結構あったぜ」
「卿は宗教学と民俗学の学者だもんね……、それくらいなら怪しくはないかな」
わたしも首をひねる。できればわたしかアルフレートが忍び込めばいいんだろうけど、今はその気になれない。
「怖い怖い人間たち、本読んだり平和だった」
「よくいる上流階級の暮らしって感じだったっす」
他のトカゲたちも口々に言う。うーん、さすがに簡単には尻尾を出さないか。わたしはカイとニームの顔を交互に見る。
「ヴィクトリアを屋敷に戻したくないし、村の教会に行こうかって話になったんだけど、いい?」
「俺は構わないぜ」
「異論はない」
二人の了承をもらい、山を降りることにする。ヴィクトリアを背負ったまま、歩き出そうとするシリルをわたしは呼びとめた。
「馬車もないことだし、フローラちゃんの力を借りようと思うの」
「フローラ? 誰だ?」
シリルの質問に、ローザがポケットを弄る。パッと出された手のひらのイグアナに、シリルは目を見開いていた。