火の月
「ちょっとお、狭い!」
セリスがソファーの隣りに座るアントンを腕で押す。アルシオーネさんの部屋がいくら広いといっても、わたし達とデイビス達、それにミーナ親子にサイモンまで揃えばそりゃ狭い。皆縮こまるように座り、ヘクターやデイビスは立っているのだ。わたしはミーナとアルシオーネさんに挟まれて座るハンナさんを見た。夏着のワンピース一枚でやって来たというのでローザがカーディガンを貸してやり、それを肩から掛けている姿はぼんやりとしているように見える。
「……夢を見ていました」
ハンナさんの呟く声に騒いでいたアントン達の動きが止まる。
「子供の頃の夢を。私には幼少期の記憶など無いのに」
ハンナさんの呟きは頭に浮かんだままをそのまま口に出しているような危うさがある。まだぼーっとしているようだ。しかし記憶が無いとは……。わたしがアルフレートの顔を見ると「分かってる」と言いたげな顔で眉を上げた。そしてハンナさんに質問を始める。
「幼少期、というのはニッコラ邸に引き取られる前の話しだな?」
ハンナさんは知られているとは思わなかったらしく、驚いたように顔を上げた。
「どうして……」
そう呟くがどうでもいいと思ったのか首を振る。
「そうです。ユハナとユハナの両親に出会う前の記憶が私にはありません」
「全く?この街にいたというような記憶は?」
アルフレートが聞くとハンナさんは暫し無言になった。暫しの沈黙の後、絞り出すように話し始める。
「夢で少し遠くから立派な神殿を眺めていました。この神殿のことなのかしら。だったらあれは夢では無く、私の記憶なのかもしれないわ。……今までこの街の事も名前しか知らなかったのに」
やっぱり『ミツバチの家』出身なのだろうか。そしてハンナさんの話しは少しレオンとかぶる。彼もあまり記憶が鮮明じゃないと言っていたっけ。
「……なら落書きやら手紙が届いた時は本当に意味がわからなかったんだな?」
アルフレートの質問に今度は深くはっきりと頷いた。
「ではウェリスペルトを去った日に話しを移そう。何故黙っていなくなった?」
アルフレートの言葉にアントンが「まったくだよな」と呟き、セリスがその頬をひっぱたく。
「……分からないの。ただあの男に会った時、自分には選択肢など無いように思えて。『娘が心配か?』そう声を掛けられたんです」
「あの藍色のローブの男か」
「はい」
アルフレートの問い掛けに答えるハンナさんに、セリスが身を乗り出す。
「でもさ、そーんな見るからに怪しい男によくついていったわよね」
セリスのいらついた声にサラが「セリス!」と声を上げる。ハンナさんを探し回った経緯のある彼らには色々思うところがあるのだろう。
「本当にごめんなさい。自分でもどうかしてたとしか思えないわ。買い物に出掛けた足でそのままあの男について行くだなんて」
ハンナさんは眉を寄せ、いやいやというように首を振る。なんだか痛々しい。
「あの男は他に何か言っていたか?」
再びアルフレートが質問を始める。ハンナさんは首を振った。
「私の方が話す気になれなかったというか……、ここまで来なければ、という気持ち以外はひどく無気力で。ただ首都に着いた時言われたんです。ラグディスまで行けば娘は解放されるぞ、って。その一言だけですごく安心したんです。……今考えると気味が悪いわ」
それでサムを助けに行った晩の話しに繋がる、と。わたしは正直、思った以上に少ない情報に落胆し頬を掻いた。うーん、という空気が全員に広がる。
「記憶が無い、っていうのはすごく怖いことなんです」
ハンナさんはぽつりと呟いた。
「私はそれまで何をしていたのか、何者だったのか、知らない恐怖と同時に『思い出してしまったら』という恐怖でいっぱいなんです」
相反する感情のようだが、何となく気持ちはわかる。
「今も不安で仕方が無いの。私、この街にいたんでしょうか。でもそれを知るのも……嫌だわ」
ハンナさんとミーナは強く手を握り合う。この二人、きっと似てるんだわ。外見でなく境遇が、中身が。
「ユハナは詳しい事情を知っていたりしないのか?」
アルフレートの質問は駄目元という感じだ。ユハナさんが知っているならとっくに話しているだろう。案の定、ハンナさんは首を振る。
「私もユハナも、両親から『あなたは首都の孤児院から来たのよ』と言われていましたから」
そのミーナの祖父母に当たる人もあえて隠したんだろうか。それとも本当にそういう経緯でやって来たんだろうか。
「この街に見覚えは?」
この質問にもハンナさんは首を振るだけだった。
「参ったな」
アルフレートがスプーンを振りながら眉間に深い皺を作り、ぼやく。
丸いテーブルに着くのはわたし達六人、と何故かガブリエル隊長。夕飯に遅れてしまった為に食堂が空いていなかったので、わたし達は厨房のサムの所に、デイビス達には赤鬼亭に行って貰った。ミーナ達は念のためにアルシオーネさんの所で一晩過ごす。明日には帰るとはいえ、お世話になる事にハンナさんは恐縮していたが、まだ体は辛そうに見えたのが心配だ。
「しょうがないじゃない、記憶が無いっていうんだから」
ローザが肩を竦めるとガブリエル隊長も頷く。
「記憶が無い恐怖というのは分かるぞ。しかも幼少期の十年といえば、自分のルーツが丸きり分からないのと一緒だからな」
「何か経験あるんすか?」
フロロが面白そうに聞くとガブリエル隊長はぴっ、と指を三本立てた。
「三日ばかり。若い頃にジャイアントスパイダーの巣穴に落ちてな、どうにかはい出たらしいんだが記憶に無いんだ」
「ジャイアントスパイダーの巣穴ってことはかなり深い大穴に転落したってことですよね?凄いな」
ヘクターが純粋に感心している。それは……凄い体験だけど、ちょっと違うような。アルフレートが首を振る。
「ジャイアントスパイダーでもジャイアントアントでもワームでもオクトパスでもどうでもいい」
「アルフレート殿、オクトパスは海のモンスターだぞ?」
真面目に返すガブリエル隊長をアルフレートはぎろりと睨んだ。
「別に幼少期の思い出に興味は無い。ただこの数日間で何か奴らの情報でも掴んでいてくれればな、と思ったんだよ。それがただ夢遊病患者のようにくっついてきただけとは落胆したくもなるだろう?」
「冷たいエルフねえ」
ローザが溜息をついた。
「冷たい?神殿側には英雄になるかもしれない私に、か?」
アルフレートの大袈裟な身振りにわたしとローザの顔が「は?」と歪む。
「まだ分からんのか。明日が期限なんだぞ?明日は何の日なんだ」
「認定式だね」
フロロが答えながらにまにまと笑う。
「お前も言っていただろうが、日にちが重なったのは『偶然じゃない』とな」
アルフレートにびしり、と指を突き付けられ、わたしは後ろに身を引いた。
「イルヴァ、頭に蜘蛛乗ってるけど……」
ヘクターが言いにくそうにイルヴァの頭を指差す。
「あー、ほんとです。さっきかくれんぼで色々潜り込んだんで」
頭を掃うと何事も無かったかのように食事を続けるイルヴァ。それに気を取られていると、
「認定式に乱入するという事か!」
ガブリエル隊長が大声を上げ、小さな目を見開いた。
「それしか無いだろうが」
アルフレートはそう言うと舌打ちする。混沌、破壊、混乱、そんな単語が浮かんでくる。認定式に乱入し、暴れ回る獣人達を想像し、わたしは頭を振った。
「ど、どうしよう」
全くもって今更だが、焦りからわたしはアルフレート、そしてローザの顔を見る。
「どうしようって言われてもあたしにはどうする事も……」
ローザは困ったように眉を下げた。隣でガブリエル隊長も落ち着きが無くなったように指を動かす。
「法王に進言すべきか……。いやはやまったく、火蜥蜴の月に火の番の男がいなくなったりと、やっぱりサラマンダーの月は騒がしいな」
火の番の男とはサムの事だ。獣人達がそんな変な呼び方したんだっけ。サラマンダーの月が特別悪い事が起きると言われているわけでは無いが、火の精霊の性質上『落ち着いた行動を取りましょう』なんて事をよく言われる。
「今、何と?」
アルフレートがガブリエル隊長を見る。アルフレートの様子に隊長は目をぱちぱちさせると焦ったように口ごもる。
「えっとどれの事だ?法王に進言すべきか……」
「その後だ」
「えー、サムがいなくなって、それが火蜥蜴の月とは『火の番の男』と掛けてあるのかな?なんちゃって……」
がたん!とアルフレートが立ち上がる。ガブリエル隊長がおちゃらけたのが気に食わなかったか?と思ったら、彼はわたしとローザの腕を勢いよく引っ張る。
「来い」
「え、ちょっと!」
わたしは食べかけのグラタンが遠ざかることに焦りながら、アルフレートの後を追うはめになった。
「何なのよー!もう!」
わたしと同じくアルフレートに腕を引っ張られるローザが非難の声を上げた。
廊下をすれ違う僧侶が不思議そうにこちらを見ている。当のアルフレートはずかずかと歩き続けながら、
「まったくこの歳になると暦の概念が頭から抜け落ちて困る」
などとぶつぶつ呟いているだけだ。
「何?他の皆はいいの!?」
わたしが尋ねるとアルフレートは廊下の先を真っ直ぐ見ながら答える。
「学術書をかろうじてすらすら読めるのが、お前らだけなんだから仕方ないだろう」
が、学術書?わたしは何だか嫌な予感に顔を強張らせた。引きずられながら進む先、覚えのある道順だ。確かこの先は……。
「書庫に向かってる?でも時間が時間だから……」
ローザが言い終わるより早く、向こうから歩いてくる人物に三人の動きが止まる。口笛を吹きながら鍵の束らしき物を振り回す男性は、確か書庫にいた書記官だ。向こうもこちらに気がつくとぎくりと肩を震わせた。
「あ、何です?もう書庫は閉め……」
「貸せ」
アルフレートが素早い動きで鍵を奪う。男性が呆気に取られる間にもずんずんと進んでいき、書庫の入り口の扉に手を掛けた。 「ち、ちょっと困りますよ!」
男性は躊躇なく鍵を開ける仕種をするアルフレートの肩を掴んだ。
「困る?規則を守れないからか?夕餉にありつけないからか?早いとこベッドに入れないからか?」
アルフレートは扉を開け放ちつつ「だったら」と男性の顔を覗き込む。
「もっと困る事態を引き起こしてやろうか?」
アルフレートの極悪顔にビビったのか、男性は床にぺたん、と座り込んだ。可哀相、ひたすら可哀相。
「……何かあったらアルシオーネの許可がある、って事にしておいてちょうだい」
ローザがそう言って男性を立ち上がらせた。
「もう、知りませんよ!」
半泣き顔で起き上がる男性は、帰るのかと思いきや書庫に入ると明かりをつける。ぶつくさ言いながらもランプを燈していく彼は真面目な性格なんだろう。
「よし、お前ら『サイヴァの心臓』の記述を探せ」
偉そうに言い放つアルフレートはずらりと並ぶ書棚の一角、昼間も見ていた神殿記が入った箇所を指差した。
「これ、全部探すの?」
ローザが頬を引き攣らせる。当たり前だ。だって皮張りの大きく分厚い本が何十冊に、古い物なのか巻物状態の物まで大量にあるんだもの。
今晩、寝られるんだろうか……。わたしはすでに真っ暗になっている表の様子をちらりと見遣った。その間にもアルフレートは本を出しては机に置く作業を進めている。椅子に座る彼にわたしは尋ねる。
「ガブリエル隊長の話しが何だったの?」
「……火の月だよ」
アルフレートは呟いた。
「火?今月はサラマンダーの月だっけ。早いわねー。ここじゃ寒いから忘れてたわ」
ローザが溜息混じりに答える。
「生物の身体の中で核となる心臓は、一番『火』のエレメンツと関わりが深い。勿論、神の物であろうとそれは同じだ。もっとも神の出来損ないが他の生き物なんだがな」
アルフレートの淡々とした台詞にわたしとローザは動きが止まる。何だかどきどきしてきた。
「そして明日は第一火曜日。この辺りでは最も火のエレメンツが活発になる日になる。昔の人は偉大だね。全ての暦にはちゃんと意味がある」
「どういう意味……?」
掠れた声を出すわたしにアルフレートはちょいちょいと椅子を指差した。座れ、と言っているのだ。
「認定式がずれ込むと分かってから、ずっと考えていた事がある」
席についたわたし達を見てアルフレートは話し出す。
「何故、日にちに『こだわり』を見せたのか。憎き聖教徒の認定式を潰したいだけなら初めから二日前を予定にしていればいい。だが法王の帰還を遅らせる、という余計な手段をとってまで奴らは日にちにこだわった」
「火のエレメンツが活発になれば、そのメイヨーク山に眠ってるとかいう心臓が動き出したりするの?」
ローザは眉を寄せる。アルフレートは首を振った。
「神の心臓は今も動き続けているさ。ただ、何かのきっかけさえあれば元気よく暴れだすんだろうな」
「ようするに封印が解けるってことね?」
わたしは既に神殿記に目を通し始めたアルフレートに尋ねる。
「……まあそういう事だな。心臓をサイヴァへ返す、そんな所じゃないか?」
「邪神が降臨するってこと!?」
青ざめるローザには手を振るアルフレート。
「いやそうじゃない。暴れるだろうが、本人は来ないだろ」
曖昧な答えにわたしとローザは顔を見合わせる。暴れる、って心臓が?何だかよく分からないが、とにかく阻止するべきことなんだろう。
「おーい、何事なんだよ」
部屋の入り口からした声にわたし達は振り返る。こちらに駆けてくるフロロにヘクター、イルヴァも一緒だ。
「ちょうどいい、フロロ、アルシオーネの所へ行って質問してこい」
アルフレートがフロロを指差す。いきなりの命令にフロロは顔をしかめた。
「そうよ、アルシオーネさんに聞けば何か知っているじゃない?」
わたしが言うもアルフレートの表情はあまり動かない。
「正直望み薄、だろ。サイヴァの心臓の伝説を知っていたら、日程がずれた時点でもっと慎重になっているはずだ」
「じゃあ俺は何しに行くんだよ」
フロロは腕を組み、アルフレートを見た。
「法王と共にしていた奴らの名簿だ。中に必ず『足』がいる」
「……なるほどね、じゃあちょっくら行ってくる」
音も無くフロロが部屋を出ていくと、ローザが本を手に取りながら溜息をついた。
「アルシオーネが知らないのにここに文献があるのかしら……」
「それを探すんだよ」
アルフレートの言葉は『必ずある』と言っている。単なる伝説、と言っていたのに。
「俺達は何をすればいい?アルフレート」
尋ねるヘクターをちらりと見ると、アルフレートは表を見るような仕種をする。
「赤鬼亭に行った奴らを連れ戻してくれ。あいつらの中にも魔術師がいたからな」
「わかった」
扉に向かうヘクターをわたしが眺めていると、イルヴァが呟く。
「イルヴァは何しましょうか?」
「……そこに座って応援してなさい」
アルフレートに言われた指示に、不服なのかイルヴァは少し口を尖らせた。