The young boy becomes an adult.
「天使といれば幸せになれるんじゃなかったのかい?」
今日から小学校が始まった。それなのに僕は、教室の外でバケツを持ってふて腐れている。
「寝坊したあなたも悪いわよ」
隣に立っていたセリアに呆れた口調でそういわれた。
「だってセリアだって一緒に寝てたじゃないか!」すかさず僕は言い返す。
「入学して一日目に遅刻なんて、ヒーロー失格だよ」
「だから、それは私も悪かったって……」
まあ、私も寝てたけど、と呟きながら、セリアが言った。
「けど、夜中まで起きてるから寝坊なんてするのよ」
「だって楽しみで寝られなかったんだもん」
その言葉で僕は、昨日の夜のことを思い出した。確かに興奮して寝られなくて、夜中にセリアに来てもらったのを覚えている。
「おともだちできるかなとか、どんな事するのかなとか、いっぱいいっぱい考えたんだ」
僕はバケツをおろして顔を上げた。そして、手のひらを握って決心する。
「明日はちゃんと起きるんだ!」
セリアはそんな僕を見つめていた。ときどき、セリアはママみたいな変な顔で僕を見る。こんな時ってなに考えてるのかさっぱりだ。
こんなときは必ず少しだけ黙って、その後に絶対笑って、僕の頭を撫でるんだ。
「おっきくなったのねぇ、あなたも」
その手はいつも温かい。僕は安心すると口元をほころばした。
「……明日からセリアが起こしてね」
そう言うと、セリアは頭を撫でるのをやめてこう言うんだ。
「自分で起きなさい!」
*
ルークと私は、いつも一緒だった。
春にルークが巣から落ちた小鳥を木に登ってかえそうとするときも、夏の暑い日に学校の帰りでこっそりアイスを買う時も、森にいちごを摘みにいって迷子になる時も、冬が来て雪だるまを作った時も。
沢山の季節を一緒に過ごした。
どんどん体が大きくなるルーク。それでも、その笑顔はずっと愛らしいままだった。その愛らしい顔で、ルークは成長しても何回も何回も私の名前を呼んだ。
笑う時も、振り返る時も、内緒の話をして口元に人差し指を当てる時も、泣きながら話をする時も、照れて吃る時も。
けど、そんな君を不安に思う時もあった。
どんどん声が低くなる君は、だんだん悩みを打ち明けることが少なくなった。身長が私を超えた頃には、眉間にしわを寄せることが多くなった。
そんな時には、ルークは必ずお母さんと喧嘩している。
「待ちなさい、ルーク!」
またお母さんの怒鳴り声が聞こえてきた。きっと年頃なのだろう。反抗期なのだ。
「ルーク!」
お母さんが呼んでいるのに、フイっと顔を背けた君は部屋に閉じこもることが多くなった。
「ねえ」
部屋に入り、私はルークの背中に声をかけた。反応は無い。
「どうしたの またママとケンカ?」
また反応がなかった。 諦めずに私は話しかける。 また元気な笑顔が見たいと思いながら。
けど……。
「元気だしてよ、いつものことじゃない? ママだって、あなたのこと心配して……」
「セリア」
私の言葉は、ルークには届かない。
「ちょっと、黙っててくれるかい?」
私がいま浮かべている表情にも、ルークは気にかけてくれることはない。
急に、無口になった。
ルークは激しく怒鳴り、暴言を吐きながら更に、眉間を強く寄せた。誰かを睨みつけて頭を抱えながら何かを叫ぶ。
なんでだろう
どうしたんだろう
この子の周りにあった光が
見えなくなった
*
「ねぇ、ルーク」
私は、今日も机にうつ伏せているルークを励まそうと声をかける。
「お母さんやお父さんだって、あなたが嫌いで言ってるわけじゃないのよ」
相変わらず、君は無言を通す。
「落ち込むことなんてないわよ」
この頃、いつも泣きたくなる気持ちを抑える回数が増えた。
「うまくいかないことだってある」
隙間から見える彼の表情から、なにも読みとる事ができない。
私は諦めずに続けた。
「あなたはスーパーマンのようなヒーローなんでしょ? ヒーローだったらなんでも出来るって、昔からあなた言ってたでしょ?」
ルークの手がピクリと動いた。
「春になったら、また川向こうの花でも見に行きましょうよ。 しばらく行ってないから、妖精達もきっと喜ぶ……」
私は言葉を切った。 初めてだった。 泣きたくなる気持ちが、次第に苛立へと変わっていく。
「……返事ぐらいしなさいよ」
いままで座っていた私は立ち上がった。
「ねえ、聞こえてるんでしょルーク!」
私はこのとき、初めてルークに怒鳴り声をあげた……なのに。
ルークは顔すらあげようとしない。
「顔ぐらいあげなさい! 気分が落ち込むばっかりでしょ」
私は反応のないルークの腕を掴もうとした。
……つかめない。
「……え?」
手にあったのは、『確かに触れているのに』スイッとすり抜ける感覚だけ。
「ルーク」
悪い予感だけが胸をよぎる。
「無視しないでよ、冗談でしょ?」
一瞬の無言。それが、今の私には永遠に感じられた。
「黙ってないでよ、私がこんなに……」
口の中がカラカラだった。
「話しているんだから、あなたも何か言ってよ」
今の私は、苛立もなにも感じていない。
信じるのが怖かった。ただ、あなたが返事をしてくれるのを期待していた。
「何か言ってよ!」
私が両手を握りしめて怒鳴った、まさにその直後だった。
いや、同時かもしれない。
ルークが私の方を見た。その目の下には薄らと隈があった。
「な……なんだ」
いきなりのことで、私は緊張と、微かな安心を感じていた。
そうだ、なにかの勘違いだったんだ。
まるで聞こえていないかのように反応しない素振りも、私の手が君の体をすり抜けたことも。
「ちゃんと聞こえてるじゃな……」
けれど私の言葉は、ガタッと勢い良く君が引いた椅子の音に消された。
そして、ツカツカと私に迫って来た。怒っているのだろうか。私は顔の筋肉を強ばらせる。
けれど、違った。
ルークは、私をすり抜けた。
私の顔は青ざめる。彼の目線は私などに向いていなかったのだ。
勘違いじゃなかった。
ゆっくりと彼を目で追う。ルークはその足でベットに行くと、バサッと布団を頭からかぶり、それから動かなくなった。
動かなくなった彼を見ながら、私は呆然と立ち尽くしていた。
「ルーク……、あなた…」
消え入るような声で呟く。この声が届かないことをまだ信じたくなかった。
「私の事、見えてないの?」
ルークは……ずっと無言だった。
それなら怒って、うるさいと怒鳴ってくれたほうが、ずっと……ずっとよかった。
*
「ねぇ、シェリア」
ふと、ずっとずっと昔のことを思い出した。
「シェリアはどうしてずっとこっちにいるの?」
あの、お花畑での会話だった。
「お空に帰らなくていいの?」
幼いルークの純粋な、一途な質問に、私は解答を困っていた。
「……いや、本当は戻らなきゃ行けないんだけどね」
ルークのなんの曇りのない瞳に圧倒された。
「人間に幸せを運んだり、守っているうちはいいの」
私はあえて遠くを見ながら話しだす。
「でも、もうずいぶん長く戻ってないから、そのうち神様に連れ戻されるかもしれない」
こんなこと、言いたくなかった。ルークと離されるかもしれないと思うと、涙が出そうになってくる。
「じゃあ、ずっとぼくといっしょにいたらいいんじゃないか!」
突然、ルークが力強く立ち上がった。
「……え?」
戸惑う私に、ルークが言った。
「シェリアといるとたのしいしうれしいし、ぼくはすっごくしあわせだから、かみさまはおこったりしないよ」
そういうルークは何故かむきになっていて、口をへの字にして私を見つめていた。
「うーん…そうよね?」
「ホントだよ! スーパーマンになるぼくが言うんだからぜったいだよ!」
実際のところ、ルークのいうことは無謀だった。
それなのに、表情を一変させて、
「だいしょうぶ!」
と笑う顔を見たら、この世に不可能なことはないんじゃ無いかって思った。
「ぼくがおとなになってつよいヒーローになったら、ぼくがかみさまからシェ(セ)リアを守ってあげるからね」
そう無邪気に笑う君。いつしか、それが私の心の支えとなっていた。
それは、
全てが叶うと信じていたころの
君の夢
*
わたしは、この愛らしい笑顔に、幸せをもらってばかりだった。
もう、駄目なのかな?
もう、いい加減に帰らなきゃ……
いけないのかな?
頬に熱いものが伝うのを感じた。
私は、人に幸せを運ぶ『だけ』が使命の『天使』だ。……なのに。
天使も涙を流すことを、
この時はじめて知った。
*
ぱた。
何か一滴、温かいものが落ちてきた気がして、僕は目を覚ます。
もぞもぞと動いて、布団を頭からかぶったまま部屋を見渡した。
なのに……。いままでいた人の、気配が感じられなかった。
立ち上がろうとして床に足をおろすと、真っ白い羽が落ちているのが目に入った。
その羽は、濡れていた。
「………セリア?」