第102話「地図にない来訪者」
朝は、変わらない。
「おはようございます」
ミナが扉を開ける。
いつもの空気が流れ込む。
でも、その日は最初から少しだけ違っていた。
診察室の隅。
見慣れない“何か”がいた。
「……先生」
ミナが小さく呼ぶ。
「うん」
サクラギ先生は、すでに気づいている。
それは、小さな動物だった。
丸い体に、透けるような皮膚。
ゆっくりと呼吸するたびに、体の中で光が揺れる。
目はあるようで、ない。
でも――
(……ここ、どこ)
声は、確かにあった。
「初めて見るね」
ミナがしゃがみ込む。
「図鑑にもなさそうです」
「うん」
サクラギ先生は静かに近づく。
「ここは、動物病院だよ」
(……びょういん)
「困ってることがあって来たんだよね」
少し間。
光が弱く揺れる。
(……かえれない)
短い言葉。
でも、重さがある。
「どこから来たの?」
(……わからない)
ミナが顔を上げる。
「迷子、ですか?」
「たぶん」
サクラギ先生は、その体をそっと観察する。
触れない。
ただ、距離を保つ。
「この子、“場所”で生きてる」
「場所?」
「環境そのものに依存してるタイプだね」
窓の外を一瞬だけ見る。
「ここは、この子のいるべき場所じゃない」
(……ちがう)
光が不安定に揺れる。
部屋の空気も、ほんの少し歪む。
「どうやって来たんだろう」
ミナがつぶやく。
「たぶん、“つながった”んだね」
「つながった?」
「どこか別の場所と」
静かな声。
当たり前のように言う。
「……昨日とかですか」
「ありえるね」
100回目。
積み重なり。
その先。
ほんの少しだけ、境界が緩んだのかもしれない。
(……ここ、やさしい)
その生き物が言う。
光が少し安定する。
「でも、ここにいると消えちゃうよ」
(……うん)
理解している。
でも、動けない。
「帰り方、探そうか」
サクラギ先生が言う。
ミナが頷く。
「どうやって?」
「来た道を、もう一度作る」
診察室の窓を少し開ける。
風が入る。
光が変わる。
部屋の“輪郭”が、ほんの少しだけ曖昧になる。
「ここじゃない“どこか”を思い出して」
(……ひかりが、ちがう)
「そう、それでいい」
光が揺れる。
空間が、わずかに歪む。
見えない“向こう側”が、かすかに触れる。
(……あった)
その瞬間。
小さな光の体が、ふっと軽くなる。
(……ありがとう)
「気をつけて」
サクラギ先生が言う。
音もなく、
その存在は消えた。
元の、静かな診察室に戻る。
ミナがゆっくり息を吐く。
「……なんだったんですか、あれ」
「たぶん、“別の生態系”の生き物」
「そんなの来るんですか」
「来るみたいだね」
少しだけ笑う。
「ここには」
ミナも、つられて笑う。
「どこまで広がるんですかね、この場所」
「さあ」
サクラギ先生は窓を閉める。
「でも、来たら診るよ」
それだけは変わらない。
昼が来て、
午後が来て、
いつもの動物たちもやってくる。
犬も、鳥も、ハムスターも。
そして――
もしかしたら、また。
どこか“地図にない場所”から。
夕方。
最後の患者を見送る。
扉が閉まる。
静寂。
ミナがぽつりと言う。
「……ちょっとだけ、世界広がりましたね」
「うん」
「でも、やることは同じですね」
「うん」
短い会話。
それで十分だった。
窓の外は夕焼け。
知らない場所とも、
確かにつながっている光。
この診察室は、
少しずつ世界を広げながら、
それでも変わらず、
ここに在り続ける。
静かに、
少しだけ新しい一日が終わった。




