エベレストよりなお高く
恋の熱量は雪をも溶かす
この物語は冷たくも熱い、同性愛をテーマに作りました
標高八,〇〇〇メートルを超えた世界を、登山家たちは「デス・ゾーン(死の地帯)」と呼ぶ。
酸素濃度は地上の三分の一。生命を維持するための機能は停止しかけ、肉体は一歩ごとに死へと近づいていく。三十三歳の私が今立っているのは、そんな極限の場所だった。
すぐ後ろには、十九歳の彼がピッケルを突き立ててついてきている。
以前、私が講師を務めた登山イベントで出会った教え子だ。小動物のように私の後を追い回し、真っ直ぐな瞳で登山のいろはを吸収していった少年。その彼が、まさか自分と同じ隊で世界最高峰を目指すことになるとは思わなかった。
「大丈夫ですか」
無線越しに届く彼の声は、この絶望的な寒さの中でも驚くほど熱を帯びている。
私は短く応えながら、かつての記憶を振り払おうとした。
数年前、同じこの山で、私は当時の恋人を失った。同性の、私よりいくらか年下の後輩だった。
ホワイトアウトの闇の中、私の指の間から滑り落ちるように消えていった彼の掌。ようやく見つけ出したとき、彼の肌からは一切の温度が消え失せていた。あの、凍りついた静寂の冷たさを、私の指先は今も覚えている。
突如、空の色が変わった。
雪煙が龍のように舞い上がり、視界は瞬時に白一色に染まる。ブリザードだ。
「離れるな! こっちだ!」
私は彼の腕を掴み、あらかじめ確認していた小さな岩陰の避難シェルターへと滑り込んだ。
一メートル四方あるかないかの、凍てついた空間。
外では世界を切り裂くような風の悲鳴が轟いている。死の足音がすぐ側まで迫っている。
「……っ、…………」
ガチガチと歯の根が合わないほど震え、意識を混濁させ始めた彼を、私は反射的に抱き寄せた。
このままでは、彼は凍死する。私は迷わず防寒着のジッパーを下げ、インナーの隙間に彼の冷え切った身体を滑り込ませた。
厚い装備を隔てず、直に肌が触れ合う。
その瞬間、私は息を呑んだ。
極寒の中で触れる彼の肌は、驚くほど生々しく、生きようとする意思に満ちていた。雪山の中でも決して冷めることのない、圧倒的な熱量。十九歳の、真っ直ぐで純粋な命の奔流が、私の胸板を通して心臓にまで届く。
狭い空間の中で、音の対比が残酷なほど鮮明になった。
外を叩く暴力的な風の音に対し、シェルターの中は私たちの吐息と、肌が密着して離れる際のかすかな粘り気、そして重なり合った防寒着が擦れる音だけが響く。私の胸に押し付けられた彼の鼓動。早鐘のように打つその音が、私の静止した心臓を無理やり動かそうとしてくる。
私は、逃げ場のないこの熱にあてられていた。
「ずっと、伝えたかったことがあって」
やめてくれ。
今の私には、君はあまりに眩しすぎる。
「こんな場所で言うことじゃないかもしれない。でも、もし明日がなかったら、一生後悔するから」
「好きです。尊敬だけじゃない。あなたの隣に並べる男になりたいんです」
伝わってくる体温が、熱い。かつて失ったあの人の冷たさを打ち消してしまうほどに。
私は彼の頭を優しく突き放した。
「君はまだ十九だ。この山を降りれば、無限の道が広がっている。私のような、過去に縛られた男の隣に立ち止まるべきじゃない」
「道は自分で決めます! 僕は、子供じゃない!」
「いいや、大人だからこそ断るんだ」
私は嘘つきだ。本当は、彼の熱に溶かされてしまうのが怖かっただけだ。あの時と同じように、また誰かの体温が消えていく恐怖に耐えられる自信がなかった。私はもう、下り坂を歩むだけの、臆病な大人なのだ。
やがて静寂が訪れ、嵐が去った。
私たちは言葉を交わすことなく、再び頂上を目指した。
世界の頂に立ったとき、そこにあったのは三六〇度の絶景だった。
薄い空気の向こうに、地球の輪郭が見える。けれど、私の心に広がったのは、かつてないほどの空虚だった。
彼は隣で泣いていた。登頂の喜びか、それとも恋の終わりを悟った涙か。
「綺麗ですね」と彼は言った。
「ああ。だが、ここには何もない」
私は残酷に言い放った。世界の頂点に立っても、過去の傷は癒えず、君への想いも認めることはできなかった。最高地点は、あとは下るしかないという絶望の始まりでもあった。
下山後、ベースキャンプで私は彼に最後の手向けを口にした。
「気持ちは嬉しい。だが、私に君はもったいないんだ。もっと相応しい、未来のある人間を探しなさい」
それが、彼と交わした最後の言葉になった。
背を向けて去っていく間際、彼は一度だけ振り返った。
突き放された絶望に歪むのでもなく、怒りに燃えるのでもない。ただ、何もかもを見透かしたような、ひどく静かで、悲しい微笑みを私に残した。あの時の、縋ることも許さなかった彼の表情が、今も棘のように胸の奥につっかえて取れない。
あれから数年が経った。
私は日常に戻り、彼は彼の人生を歩んでいる。連絡は一度も取っていない。
それなのに、ふとした瞬間に私は息苦しさを覚える。
都会の喧騒の中、信号待ちをしているとき。あるいは、冷たい冬の風が頬をかすめたとき。
下山して何年も経つのに、彼を思い出すと肺が苦しくなる。地上にいるはずなのに、私の心だけがまだ、あの酸素の薄い山頂で、あの逃げ場のない熱を求めている。
断ったはずの彼の言葉は、消えない傷跡のように私の心に深く刻まれている。それは、かつて失った冷たい記憶よりもずっと重く、私の歩みを鈍らせる。
エベレストよりも高く、険しく、私を阻んだのは、君の純粋さだった。
――私は今も、あの酸素の薄い場所で、君に拒絶の言葉を投げた自分を許せずにいる。
エベレストという世界最高峰の挑戦とまだ若い男児の遥か彼方の恋の挑戦を、冷たい空気と恋の熱量で対比してみました
いかがだったでしょうか、辛く切ない、やり切れなさをもどかしくも表現してみました
読者の心に少しでも刺さるものがあれば幸いです
ご完読ありがとうございました




