第八十一話:混沌の調和と流れ着いた記憶
魂の天秤リブラとの対決。それは戦いというよりは世界の未来を賭けたプレゼンテーションだった。俺たちが提示した「矛盾を抱えたまま進化する」という新しいOSの在り方を世界の魂が承認したことで、リブラは消滅するのではなく世界の理そのものに融和し、俺たちの選択を見守る監視者となった。
英雄の墓地から王宮へと帰還した俺たちを待っていたのは、仲間たちの安堵の表情と少しばかりの困惑だった。
「…つまりだ」レオナルドがこめかみを押さえながら言う。「我々の世界は、今後、安定した退化の道を選ぶのではなく不安定だが無限の可能性を秘めた進化の道を選んだ…と。そういうことで合っているのか兄上?」
彼の問いに、アレンの姿をしたゼノンは肩をすくめてみせた。その仕草にはアレンの快活さとゼノンの皮肉屋な雰囲気が奇妙に同居している。
「まあ大体そんなところだ。分かりやすく言えば『クリア後の安定した周回プレイ』を捨てて予測不能なバグやイベントが満載の『大型拡張DLC』を導入したようなものだな。退屈はしないだろうさ、良くも悪くも」
「全く嬉しくない例えだな…」
ゼノンの言う通りだった。リブラを調伏したことで世界の『静かなる終焉』は回避された。だが、その代償として世界は再び不安定な時代へと突入したのだ。魔法の力は失われず、亜人種たちもその個性を保ったままだ。それは同時に新たな争いの火種が燻り続けることを意味していた。
そして、何より深刻なのは俺自身に残された「後遺症」だった。
リブラとの戦いで世界のOSにハッキングした際俺の魂の最も深い場所――転生前の地球人としての記憶データの一部が世界のネットワーク『星脈』へと流出してしまったのだ。
その影響はすぐには現れなかった。
数ヶ月が経ち世界が新しい秩序に慣れ始めた頃、イゾルデ宰相が奇妙な報告を持ってきた。
「…レクス君、リア殿。世界各地で不可解な『オーパーツ』が発見され始めています」
彼女がホログラムに映し出したのはどう見てもこの世界の文明レベルとはそぐわない物体だった。プラスチック製の容器、金属製の歯車で動く小型の自動人形、そして…
「…これは…拳銃…か?」
俺は息を呑んだ。それは紛れもなく地球の技術だった。幸いにも弾丸はなく、その構造を理解できる者もいないため、まだ脅威にはなっていなかったが。
「これらのオーパーツは全て星脈エネルギーが集中する場所…いわゆるパワースポットで発見されています。まるで世界そのものが未知の情報を元に新しい物質を『生成』しているかのようです」
イゾルデの分析は的確だった。俺から流出した地球の記憶データが、星脈を通じて世界に影響を与え始めているのだ。
『ゲームにおける最悪のバグの一つだな』とゼノンが呟く。『別ゲームのデータを持ち込んで、セーブデータを破壊する『データ汚染』だ。このままではこの世界のファンタジーという前提が崩壊し、予測不能なテクノロジーが世界を混乱させることになる』
俺は自らが新たなバグの発生源となってしまった事実に愕然とした。
「どうすればいい…?流出してしまったデータはもう回収できないのか?」
「おそらく無理でしょう」とイゾルデは首を振る。「一度ネットワークに流れた情報を完全に消去することは不可能です。私たちにできるのはオーパーツを発見次第回収し、悪用されないよう管理することだけ…」
地道で果てしない作業。
俺たちのギルド『黎明の翼』に新たな任務が加わった。それは世界中に散らばる「俺の記憶の欠片」を回収する旅だった。
俺とリアはイヴが開発したオーパーツ探知機を手に、再び旅に出た。
旅の途中、俺たちは変わりゆく世界を目の当たりにした。
ある村では流れ着いた「設計図」のデータを元に、村人たちが風車を作り、豊かな生活を送っていた。
また、ある街では「医学書」のデータが奇跡の治療法を生み、多くの人々を救っていた。
俺が流出させたデータは必ずしも悪影響ばかりをもたらしているわけではなかった。それはこの世界の人々にとって新しい「知恵」となり進化のきっかけともなっていたのだ。
「…一概に悪いことばかりとは言えないのかもしれないわね」
焚き火を囲みながらリアが言う。
「確かに危険な技術もある。でもそれをどう使うかを決めるのは結局、私たち人間自身。世界は私たちに新しい『選択肢』を与えてくれただけなのかもしれない」
彼女の言葉に、俺は少しだけ救われた気がした。
だが、そんな穏やかな旅は長くは続かなかった。
俺たちが次に向かったのは大陸南部の広大な湿地帯『忘却の沼』だった。そこは、神代の時代に敗れた邪神が封印されていると伝えられる呪われた土地。探知機はそこで極めて強力な反応を示していた。
沼地に足を踏み入れた瞬間、俺たちは濃密な瘴気に包まれた。
「…普通の瘴気じゃない。これは…人々の『忘れられた記憶』の集合体だわ」
リアが警戒の声を上げる。
この沼は、世界中の人々が忘れたいと願った辛い記憶や悲しい出来事が流れ着く、情報の淀みとなっていたのだ。
そして、その淀みの中心で俺から流出した地球のデータと、忘れられた記憶が融合し、最悪の怪物を生み出していた。
沼の奥深く、巨大な泥の巨人『メモリー・ゴーレム』が俺たちの前に立ちはだかった。
その巨人の体には、無数の顔が浮かび上がっている。それは、歴史の中で忘れ去られた敗者たち、犯罪者たち、そして、誰にも理解されなかった孤独な者たちの顔だった。
『――なぜ我らを忘れた』
『――なぜ我らの物語を語り継がない』
『――お前たちの輝かしい歴史は我々の屍の上に成り立っているのだぞ』
ゴーレムは無数の声で俺たちを責め立てる。
それは、この世界の光が作り出した「影」そのものだった。
そして、ゴーレムの額には一つのオーパーツが埋め込まれていた。
それは、液晶画面のようなもので、そこに高速で移り変わる映像が映し出されている。
それは、俺の転生前の記憶。
地球で俺が見ていた映画やアニメゲームといった無数の「フィクション」の映像だった。
「…そうか。そういうことか…」
俺は、全てを理解した。
このゴーレムは忘れられた者たちの魂が、俺の記憶の中の「物語」に触れ、自分たちもまた誰かに語られるべき物語の登場人物なのだと自覚してしまった存在なのだ。
彼らは自分たちの悲劇の物語を世界に認めさせるために俺たちに戦いを挑んできている。
「なんて悲しい戦いなの…」
リアが短剣を構えるが、その瞳には迷いが浮かんでいた。
ゴーレムは泥の腕を振り下ろしてきた。その腕には忘れられた者たちの無念が込められており、ただの物理攻撃ではない。それに触れた者の魂から最も幸福な記憶を奪い去るという精神攻撃だった。
《幸福の忘却》
俺たちは必死に応戦する。だが、ゴーレムを傷つければ傷つけるほど、その体から溢れ出す悲しみの記憶が俺たちの心を蝕んでいく。
このままでは勝てない。
力で彼らをねじ伏せても、それは彼らの物語を再び忘れ去るという行為に他ならないからだ。
『…レクス君』とゼノンが言った。『RTAのセオリーならここは無視して進むべきだ。だが、君はもはやプレイヤーではない。この世界の住人だ。ならば、君が出すべき答えは一つしかないはずだ』
そうだ。
俺は戦うのをやめた。
そしてゴーレムに向かって歩み寄る。
「レクス!危ない!」
リアの制止を振り切り、俺はゴーレムの目の前に立った。
そして、俺は俺自身の物語を語り始めた。
俺が何者で、どんな戦いを経験し、何を失い、何を得てきたのか。
俺の魂に宿っていたゼノンやアレンの物語も。
そして、俺が転生前にどんな世界で、どんな物語を愛していたのかも。
その全てを包み隠さず彼らに伝えた。
俺の《物語の修正》の力ではない。
ただ一人の人間として、一人の物語の主人公として、対等な立場で彼らに語りかけたのだ。
《魂の対話》
俺の物語はゴーレムの魂に響いた。
彼らは理解した。俺もまた、彼らと同じように多くのものを失い、苦悩してきた不完全な存在なのだと。
ゴーレムの動きが止まる。
そして、その巨大な泥の体から一人の少年の幻影が現れた。
彼は、忘れられた者たちの魂の代表者だった。
『…君の物語は…とても悲しくて…でも、とても温かいんだな…』
「ああ。だからあんたたちの物語も聞かせてくれ。俺が全部覚えているから。決して忘れさせはしないから」
俺のその言葉に、少年の幻影は涙を流し、そして静かに頷いた。
メモリー・ゴーレムはその役目を終えたかのように光の粒子となって崩壊していく。忘れられた者たちの魂は、俺の魂の中に安住の地を見つけ、静かな眠りについた。
後に残されたのは液晶画面のオーパーツだけだった。
俺はそれを手に取った。
その画面には一つのメッセージが表示されていた。
『――物語は観測者を求める。観測者は物語を求める。世界の境界線は融解を開始した。ようこそ『クロス・ワールド』へ――』
そして、画面に映し出されたのは見知らぬ世界の風景。それは、剣と魔法の世界ではない。鋼鉄のビルが立ち並び、空飛ぶ車が行き交うSF的な未来都市だった。俺が流出させたデータは、俺たちの世界だけでなく次元の壁を超え、他の物語の世界にも流れ着いていたのだ。
そして、今その世界が俺たちとの「接触」を求めてきている。俺たちの旅は、新たなステージへと移行する。それは、自分たちの世界の歪みを正すだけの旅ではない。無数に存在する他の物語の世界とどう関わっていくかという未知なる領域への冒険。
俺たちはもはやこの世界の住人というだけではない。
無数の物語が交差するクロス・ワールドの最初の「調停者」としての役割を担うことになったのだ。