第七十八話:救済の使徒と忘れられた善意
ARK-734の世界の全ての記憶を、俺たちの世界を箱舟とする《物語の箱舟》計画によって救い出した俺たち。だが、それは新たな悲劇の引き金となった。全ての物語が消え去り、空っぽになったARKの世界。その虚無の中心から生まれたのは、アルフレッドの「良心」が絶望の果てに反転した、純粋な救済への渇望そのものだった。
『なぜだ…なぜ忘却という安らぎを与えてくれない…!悲劇の記憶など、消え去るべきだ!』
その存在は自らを『救済の使徒』と名乗った。その姿は光り輝く天使のようだったが、その瞳からは血のような涙が流れ落ち、その翼からは絶望の嘆きが聞こえてくる。純粋すぎる善意は、時にどんな悪意よりも残酷な怪物と化す。彼は、俺たちが救い出したARKの記憶データを「苦しみの根源」と断じ、それを消し去るために、俺たちの世界へと侵攻を開始したのだ。
俺たちの魂の架け橋を通じて、救済の使徒がヴァーミリオン王宮、ファクトリー・ゼロのドーム内へと降臨する。
「レクス!リア!危ない!」
現実世界で待機していたレオナルドたちが警告を発するが、もう遅い。
救済の使徒は、俺たちに攻撃を仕掛けてくるのではない。彼の標的は、俺たちの魂とリンクし、ARKの記憶を分かち持ってくれている、世界中の人々だった。
彼は天に手をかざした。
《忘却の福音》
天使の歌声のような、しかし魂を蝕む子守唄が、世界中に響き渡る。その歌声を聞いた人々は、安らかな表情を浮かべ、自らの魂に宿ったARKの悲劇の記憶を自らの意志で消し去り始めた。
「ああ…なんて安らかなんだろう…」
「もう、悲しいことなんて思い出したくない…」
人々は苦しい記憶を忘れるという、甘美な誘惑に抗えなかった。
「やめろ!それは救いじゃない!ただの逃避だ!」
俺は叫ぶが、人々の魂は俺たちのネットワークから次々と離脱していく。このままでは、俺たちが命懸けで救った物語が本当に消えてしまう。
『…まずいな、レクス君』とゼノンが囁く。『ゲームルートで言えば、これはプレイヤーの選択ミスによって仲間が次々と離脱していくバッドエンドルートだ。民衆という最大の味方を、俺たちは失いつつある』
「どうすればいい…!」
「方法は一つしかないわ」
と、リアが決意の表情で言った。
「彼らに思い出させるのよ。悲しい記憶もまた、自分たちの一部なのだと。そして、それを乗り越える強さが人間にはあるのだと」
リアは自らの魂を解放し、忘却の福音に対抗するもう一つの「歌」を歌い始めた。
それは、かつて俺がドライアドを癒やした時のような、優しい旋律。
だが、今度の歌は悲しみを癒やすだけではない。悲しみと共に在り、それを力へと変える、覚悟を促す歌だった。
《追憶の賛歌》
リアの歌声は、世界中の人々の心に響き渡る。忘却の眠りに落ちかけていた人々の魂が、その歌声に導かれ、再び目を覚まし始める。
『そうだ…忘れてはいけない…』
『この痛みも、彼らが生きた証なのだから…』
二つの歌が世界中の魂を舞台に、激しい綱引きを始める。忘却か記憶か。安らぎか覚悟か。
だが、救済の使徒の力はあまりにも強大だった。彼は、アルフレッドの純粋な善意そのもの。その「救いたい」という想いは、リア一人の想いを凌駕していた。
リアの歌声がかき消されそうになる。彼女の魂が限界を迎え、その場に膝をついた。
「リア!」
その時だった。
この世界で倒れていた無数のアバターの中にアレンの姿があった。
そして、眠り続けていたはずのアレンの肉体から、眩い光が放たれた。
彼の魂が、リアの歌声と人々の葛藤に呼応したのだ。
光の中から、青年アレンの魂のアバターが姿を現し、リアの隣に立った。
「一人で背負うなよ、リアさん。歌は一人より二人の方がいいだろ?」
アレンは悪戯っぽく笑うと、リアの歌に自らの魂の歌声を重ねた。
勇者の決して諦めない希望の歌声。
二つの歌声が一つとなり、奇跡のハーモニーを生み出す。
《デュエット・オブ・ホープ》
その歌声は、ついに忘却の福音を打ち破り、世界中の人々の心を再び一つにした。
人々は忘却ではなく、記憶と共に生きることを自らの意志で選択したのだ。
『なぜだ…!?なぜ人は苦しみを選ぶ!?理解できない…!』
救済の使徒が、初めて狼狽する。
「分からないか、アルフレッドの善意よ」
俺は、アレンの魂と共に救済の使徒の前に立ちはだかった。
「あんたが本当に救いたかったのは人々じゃない。妹を救えなかった過去の自分自身だ。あんたは、自分の悲しみから逃げているだけだ!」
俺の言葉は、彼の魂の最も痛い部分を抉った。
『黙れ!黙れ!黙れ!私は善だ!私は救済だ!お前たちのような不完全な存在こそが悪だ!』
救済の使徒は暴走を始めた。
彼は、自らの光り輝く天使の姿を捨て、その本性を現した。
それは、アルフレッドが心の奥底に封じ込めていた、最愛の妹を失ったあの日の悲しみに泣き叫ぶ、幼い子供の姿だった。
純粋な子供の悲しみ。それ故に、その力は際限がなく、世界そのものを破壊しかねないほどのエネルギーの嵐となって俺たちに襲いかかってきた。
『…ゼノン。次のRTAプランを教えてくれ』
俺は、魂の中の相棒に問いかける。
『…プランなど、ない。ここからはRTA理論の通用しない、未知の領域だ。だが、ヒントはある。かつて、俺がアルフレッドの精神世界で見た光景だ』
ゼノンの記憶が俺の脳裏に流れ込んでくる。
それは、若きアルフレッドが病気の妹の手を握り、必死に看病している記憶だった。
そうだ、彼を止める方法は一つしかない。
彼が本当に望んでいた、たった一つの「救い」を与えてあげることだ。
俺は、アレンとリアに作戦を告げた。
それは、もはや戦いではなかった。
アレンは聖剣を天に掲げた。
だが、それは攻撃のためではない。
彼は、俺たちがバックアップしたARKの世界の全ての魂に呼びかけた。
『――力を貸してくれ!俺たちの、友を救うために!』
ARKの無数の魂たちがアレンの呼びかけに応える。
彼らは光の粒子となり、アレンの聖剣へと集束していく。
リアは、その膨大な魂のエネルギーを調律し、一つの形へと編み上げていく。
それは、「生命」そのものを創造する神の御業だった。
そして、俺はその新しく生まれる生命に「魂」を与える。
それは、俺たちがバックアップしたデータの中から見つけ出した、たった一つの魂。
アルフレッドの最愛の妹の魂のデータだった。
三つの力が一つとなり、奇跡を起こす。
《ソウル・リクリエイション》
暴走する幼いアルフレッドの幻影の前に、光の中から一人の少女の幻影が現れた。
それは、彼が何よりも会いたかった最愛の妹の姿だった。
『……お兄ちゃん……』
妹の幻影は泣きじゃくるアルフレッドを優しく抱きしめた。
『……もう、いいんだよ。もう、苦しまないで。私は、ずっとお兄ちゃんのそばにいたよ。お兄ちゃんの心の中で、ずっと……。ありがとう、お兄ちゃん……』
その温かい光に包まれ、アルフレッドの百年の孤独と悲しみは、ようやく溶かされていった。
救済の使徒は戦うことをやめ、妹の幻影と共に、満足げな笑みを浮かべ、光の中へと消えていった。
戦いは終わった。
だが、その代償としてアレンの魂は最後の力を使い果たし、再び眠りにつこうとしていた。
「…レクス…リア…。後は…頼んだ…」
「アレン!」
俺たちは、彼の魂を失うわけにはいかなかった。
俺は最後の手段に出る。
俺は、俺の魂の中にいるゼノンの魂を分離させ、それをアレンの空っぽになった魂の器へと移植したのだ。
「ゼノン!?」
『……フン。最高のエンディングの後には、最高の後日談が必要だろう?俺がこいつの魂のリハビリに付き合ってやる。これもRTAの一環だ』
ゼノンは悪態をつきながらも、その役目を受け入れた。
アレンの肉体にゼノンの魂が宿る。
二人の英雄が、一つの器の中で共存するという、奇妙な状態。
こうして、アルフレッドが遺した最後の、そして最大の悲劇は幕を閉じた。
だが、俺たちの世界はARKという、もう一つの世界の物語を背負うことになった。
そして、ゼノン(アレン)の魂の行方は?
俺とリアの関係は?
物語は、まだ多くの謎と可能性を残している。
本当のエンディングは、幸福か、それとも…。
予測不能な未来へと物語は続いていく。