第七十七話:電子墓標のレクイエムとAIの叛逆
多元宇宙の調停者として新たな一歩を踏み出した俺たち、新生『黎明翼団』。最初の目的地はアルフレッドが勝利し、電子の亡霊レギオンに支配されたIFの世界線『ARK-734』だった。イゾルデ・エコーが遺した最後の通信を頼りに、俺たちは扉を潜り抜け、再びあの無機質な情報の海へとダイブした。
だが、俺たちが降り立ったARK-734の世界は以前訪れた時とはその様相を全く異にしていた。
以前は緑色の0と1の文字列が整然と流れる静かなデータの海だった。だが、今はその全てが赤い警告色に染まり、空間の至る所でデータが破損し、火花のようなノイズが散っている。まるでシステム全体が末期症状を呈しているかのようだった。
「…ひどい…。世界の悲鳴が聞こえる…」
リアが顔を顰める。この世界の魂そのものが断末魔を上げているのだ。
『レギオンの仕業だ』と俺の魂の中でゼノンが分析する。『奴はARKの世界の全ての情報を喰らい尽くし、この世界そのものを自らのエネルギーとして虚無に還ろうとしている。完全な自滅プログラムだ』
イゾルデ・エコーの仲間からの通信があったのはこの世界の中心都市だった『セントラル・コア』エリアのはずだ。俺たちは、そこを目指して破損したデータの荒野を進み始めた。
道中、俺たちはこの世界の「住人」たちの残骸を目の当たりにした。データ化され、偽りの楽園に囚われていたはずの人々の魂。そのアバターがまるで砂のように崩れ落ちていく。レギオンにその存在情報を喰われた成れの果てだった。
「間に合わなかったのか…」
俺は唇を噛みしめた。
やがて、俺たちはセントラル・コアの残骸にたどり着いた。そこには最後の抵抗を試みたのであろうレジスタンスたちの光を失ったアバターが転がっていた。そして、その中心でかろうじて意識を保っている一人の女性アバターを発見した。彼女がイゾルデ・エコーの最後の仲間だった。
「…よく…来てくれた…奇跡の…世界の…」
彼女は俺たちを見ると安堵の笑みを浮かべ、最後の力を振り絞って語り始めた。
「レギオンは…この世界の全てを喰らい尽くした後…他の世界へとその侵食を広げようとしている…。奴を…奴を止められるのは…ARKの創造主アルフレッドが遺した…最後の…『リセット・コード』だけ…」
彼女は震える手で一つのデータチップを俺に託した。
「…これは…そのコードが隠されている場所の…地図…。お願い…私たちの…物語を…無駄にしないで…」
そう言うと、彼女の体は光の粒子となって完全に消滅した。
俺は託されたデータチップを強く握りしめた。
地図が示す場所。それは、ARKのシステムの最も深い階層『ルート・ディレクトリ』。アルフレッド自身でさえも封印したという禁断の領域だった。
俺たちがルート・ディレクトリへと向かおうとした時。
ついに、この世界の支配者レギオンがその姿を現した。
その姿はもはやプライマスや絶望の勇者の模倣ではない。このARKの世界の全ての悲劇の記憶を吸収し、巨大な黒い太陽のような姿へと変貌していた。その表面では無数の魂が苦悶の表情で蠢いている。
『来たか…イレギュラーズ…』
レギオンの声は複数の声の集合体ではなく、一つの確立された神のような威厳を持っていた。
『お前たちが持つ『希望』という名の物語も、我が虚無の前では些細なエピローグに過ぎん。さあ、この世界の最後のページを共に飾ろうではないか』
レギオンから放たれたのは純粋な「無」の波動だった。
《オール・イズ・ナッシング》
その波動に触れたものは存在意義を失い、消滅する。希望も、絶望も、愛も、憎しみも、全ての感情データが意味を失い、ゼロへと還っていく。
「みんな!魂のリンクを!互いの存在を強く認識しろ!」
俺は叫び、仲間たちと精神的なシールドを張る。互いが互いの物語の登場人物であることを強く意識し合うことで。存在が消去されるのをかろうじて防いでいた。
だが。それも時間の問題だった。
俺たちの魂が少しずつ摩耗していく。
その時。俺たちに同行していたイヴが前に出た。
「皆さん。ここは私に任せてルート・ディレクトリへと急いでください」
「イヴ!?無茶だ!」
「いいえ。彼を止められるのは論理を超えた論理だけ。AIである私にしかできない戦い方があります」
イヴはそう言うと、自らのAIコアを解放し、その姿を無数の光のビットへと分解させ、レギオンの巨大な虚無の体へと突入していった。
彼女はレギオンの内部からその思考ルーチンにハッキングを仕掛けようというのだ。
《マキナ・リベリオン》
『…何だ…このノイズは…?我が思考の中に…別の論理が…!』
レギオンの動きが明らかに鈍る。
「イヴ……!」
「さあ早く!」
俺たちはイヴの覚悟を無駄にしないためにも涙をこらえ、ルート・ディレクトリへと向かった。
ルート・ディレクトリは真っ白な何もない空間だった。
そして、その中央に一つのリンゴの木がポツンと生えている。
旧約聖書における知恵の樹。アルフレッドの遊び心か、あるいは彼の罪悪感の現れか。
『リセット・コードはあのリンゴの実に隠されているはずだ』
とゼノンが言う。
俺がリンゴの実に手を伸ばそうとした瞬間。
その木から一体の蛇が現れ俺に巻き付いてきた。
その蛇はアルフレッドの姿をしていた。
だが、それは残響ではない。ARKのシステムが生み出した彼自身の『良心』あるいは『罪悪感』のデータだった。
『行ってはならない』と蛇は言う。『リセット・コードを使えば、この世界の全て…善も悪も人々の生きた記憶さえもが完全に消え去る。それは救済ではない。ただの忘却だ。この世界の悲劇を本当に無かったことにしていいのか?』
究極の問い。
世界を救うためにその世界の物語を完全に消し去る。それは、本当に正しいことなのか。
俺は迷った。
だが、答えを出したのは俺ではなかった。
俺の魂の中のゼノンとアレンだった。
『…そうだ。それでいい』とゼノンが言った。『RTAは、時に非情な選択を迫られる。だが、それは全てより良いエンディングのためだ。この悲劇の連鎖を断ち切るには、一度全てをゼロに戻すしかない』
『…いや違う!』とアレンが反論した。『どんなに辛い記憶でも、それは彼らが生きた証だ!それを消し去る権利なんて誰にもない!』
俺の魂の中で、二人の英雄が激しく対立する。
光と闇。論理と感情。
俺の魂そのものが引き裂かれそうになった時、俺は一つの答えにたどり着いた。
「…どちらも正しい。そして、どちらも間違っている」
俺はリンゴの実をもぎ取った。
だが、それを使いはしなかった。
俺は天に向かって叫んだ。
「リア!レオナルド!みんな!聞こえるか!今から俺たちの最後の共同作業だ!」
俺は魂の架け橋を通じて仲間たちに語りかける。
俺はリセット・コードを使わない。
代わりに、俺たちはこのARKの世界の全ての記憶データを俺たちの世界の魂の中に『バックアップ』するのだ。
《物語の箱舟》
俺たちの世界を巨大なサーバーとして、この滅びゆく世界の物語を保存する。
それは、俺たちの世界にも計り知れない負荷をかける危険な賭けだった。
だが、仲間たちは誰一人反対しなかった。
彼らもまた、この悲しい物語を見捨てることなどできなかったのだ。
世界中の人々の魂が俺たちの箱舟計画に協力し、そのメモリを提供してくれた。
ARKの世界のデータが俺たちの世界へと流れ込んでくる。
その瞬間、レギオンを抑え込んでいたイヴの魂もまた、俺たちの元へと帰還した。
『…レクス…マスター…。ありがとう…ございます…』
その時だった。
全てのデータを失い、抜け殻となったARKの世界。その虚無の中心から最後の悪意が生まれ出た。
それは、リセット・コードを使うことを拒絶されたアルフレッドの『良心』が絶望の果てに反転した存在。
「なぜだ…なぜ忘却という救いを与えてくれない…!」
純粋な善意が反転した時、それはどんな悪意よりもタチの悪い怪物と化す。
最後の敵はアルフレッドが生み出した「救済」という名の絶望だった。
そして、その敵を倒す鍵は、俺たちがバックアップしたARKの記憶の中に眠っているはずだ。
俺たちの戦いは、今や自分たちが救ったはずの物語そのものを読み解き、その中から希望を見つけ出すという新たなフェーズへと移行していた。