第七話:王都の謀略と第三の駒
エルドラドの山中で、アレンとガレスが絆を結んでいた頃、俺は王都ヴァーミリオンへと帰還していた。表向きは、「聖女狩りに失敗し、手ぶらで帰ってきた愚かな王子」として。王宮内での俺の評判は、地に落ちていた。軽蔑、嘲笑、そして侮辱。それらすべてを、俺は甘んじて受け入れた。悪役の評価は、低ければ低いほどいい。
自室に戻り、従者をすべて下がらせた俺を待っていたのは、影蜘蛛の長からの詳細な報告だった。
「……アレンとガレスは合流後、エルドラドの山中を拠点とし、ゲリラ的な活動を開始した模様。元反乱軍の生き残りに加え、近隣の村々からゼノン王子の圧政に苦しむ若者たちが次々と集まり、その数はすでに百を超えている、と」
「順調だな。ガレスというリーダーと、アレンという希望の象徴。旗印としては申し分ない」
俺は報告書に目を通しながら、満足げに頷いた。彼らの力が強大になるほど、俺という悪役を討つための「大義名分」もまた、強固になる。
「ですが主、一つ懸念が。彼らの活動が活発化するにつれ、第二王子レオナルド様が、彼らと接触しようと動いている、との情報が」
「レオナルドが?」
俺は眉をひそめた。弟の正義感が、またしても余計な波乱を呼び起こそうとしている。原作において、レオナルドがアレンと出会うのは、物語が中盤に差し掛かり、アレンがそれなりの名声を得てからだ。今の段階で二人が接触すれば、物語の展開が大きく変わってしまう。
レオナルドは、俺の「悪行」を正すため、そして民を救うために、アレンたち反乱軍と手を組み、俺を討とうとするだろう。だが、それはダメだ。俺を討つのは、勇者アレンでなければならない。王族同士の内輪揉めの果てに俺が死んでも、それはただの政変であり、英雄譚にはならないのだ。
「レオナルドの動きを徹底的に監視しろ。アレンたちとの接触は、何としても阻止する」
「はっ。ですが、レオナルド様は近衛騎士団の一部を掌握しており、我ら影蜘蛛の監視を巧妙にかいくぐろうとしています。完全な阻止は困難かと……」
「……ならば、レオナルドの関心を、別の方向へ向けさせるまでだ」
俺は不敵な笑みを浮かべ、新たな謀略を練り始めた。弟の正義感を利用する。彼がアレンに構っている暇がなくなるほどの、より大きな「悪」を、この王都で起こしてやればいい。
数日後。王都で、奇妙な連続誘拐事件が起こり始めた。狙われるのは、いずれも貴族の子女ばかり。現場には、犯人のものと思われる紋章が残されていた。それは、かつてヴァーミリオン王家に反逆し、滅ぼされたはずの、旧魔導士一族「アークライト家」の紋章だった。
王都は騒然となった。かつての亡霊の出現に、貴族たちは恐怖し、国王は対応に追われた。そして、この事件の捜査責任者に名乗りを上げたのが、レオナルドだった。彼は、民を脅かす悪を許さぬという正義感と、この事件を解決して王宮内での発言力を高めたいという野心から、躍起になって犯人捜しを始めた。
もちろん、これもすべて俺が仕組んだ茶番だ。
犯人である「アークライト家の末裔」を演じているのは、俺の部下である影蜘蛛たち。彼らは俺の指示通り、貴族の子女を誘拐しては、安全な場所に匿っている。目的は、レオナルドの目をアレンから逸らすこと。そして、もう一つ。この事件を利用して、「第三の駒」を俺のチェス盤に引きずり出すことだった。
その駒の名は、イゾルデ・フォン・アークライト。
滅ぼされたアークライト家の、唯一の生き残り。原作では、復讐のために魔道に堕ち、物語中盤でアレンたちの敵として登場する悲劇の魔導士だ。彼女は、その正体を隠し、今は王宮の書庫官として、静かに復讐の機会を窺っているはずだ。
「……見つけたか?」
夜、俺は自室で、影蜘蛛からの報告を待っていた。
「はっ。例の事件後、王宮書庫の書庫官『リズ』と名乗る女が、頻繁に事件現場周辺を嗅ぎ回っているのを確認。彼女の魔力の波長は、アークライト家が用いていた特殊な重力魔術のものと酷似しています」
「ビンゴだな」
俺は口の端を吊り上げた。イゾルデは、この偽の事件を、自分以外の同胞が起こしたものだと信じ、仲間を探して動き出したのだ。哀れなほど、計画通り。
俺の目的は、彼女を俺の駒として手に入れること。彼女の持つ高度な魔導知識、特に、空間を操る重力魔術は、今後の計画において必要不可欠な戦力となる。そして何より、彼女をアレンの敵としてではなく、俺の部下として管理下に置くことで、原作の悲劇を回避できるかもしれない、という淡い期待もあった。
その夜、俺は王宮の地下にある、古文書保管庫へと向かった。そこは、アークライト家に関する禁書が封印されている場所。イゾルデが必ず現れると、俺は読んでいた。
俺はわざと、アークライト家の紋章が入った偽の証拠物件――影蜘蛛に作らせた短剣――を、古文書の一つの間に挟み込んだ。そして、自らは《虚偽の舞台》で姿を消し、息を潜めて彼女を待つ。
しばらくして、一人の女が姿を現した。地味な書庫官の制服に身を包み、大きな眼鏡をかけているが、その奥に宿る強い意志と、憎しみの光は隠しきれていない。彼女が、イゾルデ・アークライトだ。
彼女は慣れた手つきで禁書の封印を解き、アークライト家に関する記述を探し始める。そして、俺が仕掛けた短剣を見つけた。
「……これは……!」
彼女の手が、微かに震える。同胞の存在を確信したのだろう。
その瞬間を、俺は見逃さなかった。
「その短剣の持ち主を探しているのか? 復讐の同胞を」
俺が姿を現すと、イゾルデは驚愕に目を見開き、咄嗟に戦闘態勢をとった。彼女の周囲の空間が、目に見えない力で歪む。これが、アークライト家が得意とする重力魔術。
「ゼノン王子……! なぜここに……!」
「お前をスカウトしに来た、と言えば、信じるか? イゾルデ・フォン・アークライト」
俺が彼女の真名を呼ぶと、イゾルデの顔から血の気が引いた。正体がバレた。その事実に、彼女は絶望と、そして居直ったかのような強い殺意を瞳に宿した。
「……知っていたのなら、ここで死になさい!」
イゾルデは両手を前に突き出した。彼女の前方の空間が、高密度の重力場と化し、俺の体を押し潰そうと迫ってくる。
《重力圧殺》
並の騎士なら、一瞬で肉塊になるほどの圧力だ。だが、俺の《支配者の劇場》は、その圧力さえも利用する。
「無駄だ」
俺は魔力糸を重力場の流れに沿うように配置し、その力を受け流す。まるで柔よく剛を制すように、俺は重力圧殺の中心で、涼しい顔をして立っていた。
「なっ……私の重力魔術が……!?」
「お前の魔術は、一点に力を集中させすぎる。大雑把なのだよ」
俺は逆に、彼女の足元の空間に、極小の魔力糸のアンカーを打ち込み、そこへ向かって超高重力点を発生させた。
《支配者の劇場・異聞:蟻地獄の点》
「きゃあ!?」
イゾルデは突然、強力な重力に引かれてバランスを崩し、その場に膝をついた。彼女は自分の得意とする魔術で、逆に行動の自由を奪われたのだ。
「これがお前と俺の差だ。俺の劇場の中では、お前の魔術さえも、俺の演出の一部となる」
俺はゆっくりと彼女に歩み寄り、その顎を掴んで顔を上げさせた。彼女の瞳には、屈辱と恐怖が浮かんでいる。
「お前に二つの選択肢をやろう。一つは、このまま俺に殺されるか。もう一つは、俺の駒となり、俺のためにその力を使うかだ」
「……誰が、お前のような暴君の駒に……! 私の一族は、お前たちヴァーミリオン王家に滅ぼされた! その復讐を果たすまでは、死んでも死にきれない!」
「復讐、か。いいだろう。ならば、俺と手を組め。俺の目的も、現在のヴァーミリオン王国を『破壊』することだ。目的は同じではないか?」
俺は、彼女を誘うために、甘い嘘を囁いた。半分は、本心だが。
イゾルデは混乱したように俺を見る。
「……何を、言っているの? 貴方は、この国の王子でしょう?」
「だからこそ、だ。この国は、内側から腐りきっている。父上も、弟のレオナルドも、偽りの平和に浸り、国が傾いていることに気づいていない。ならば、俺が、この国を一度更地に戻してやる。お前の復讐心は、そのための良い燃料となるだろう」
俺は、連続誘拐事件が、俺の仕業であることも明かした。彼女をおびき出すための、茶番だったと。
イゾルデは愕然とした。彼女が信じた同胞の存在は、幻だった。そして、目の前の王子は、自分の想像を遥かに超えた、巨大な悪意と謀略の塊だった。彼女の復讐心は、行き場を失い、目の前の男への恐怖と、そして、ほんの少しの興味へと変わっていく。
「……貴方を信じられるとでも?」
「信じる必要はない。利用すればいい。俺はお前の力を利用し、お前は俺の力を利用して、復讐を遂げる。利害は一致しているはずだ。どうだ? 悪くない取引だろう」
俺は彼女の拘束を解き、手を差し伸べた。
イゾルデはしばらくの間、葛藤していた。だが、彼女にはもう、この手を取る以外の選択肢はなかった。彼女の復讐は、一人では決して成し遂げられない。そして、目の前の男は、その復讐を可能にする、悪魔的な力を持っている。
「……いいでしょう。貴方の駒になってあげる。でも、忘れないで。私は、貴方を決して許さない。利用価値がなくなれば、いつか必ず、貴方の心臓を抉り出してやるわ」
「ああ、楽しみにしている」
こうして、俺は第三の駒、イゾルデ・アークライトを手に入れた。彼女の存在は、俺の計画に大きなアドバンテージをもたらすだろう。そして、彼女が俺の傍にいる限り、アレンが彼女と戦うという悲劇の未来も、ひとまずは回避された。
俺はイゾルデに、連続誘拐事件の後始末を命じた。貴族の子女たちを、あたかもレオナルドが救出したかのように見せかけて、解放するのだ。これでレオナルドは手柄を立て、満足してアレンへの関心を一時的に失うだろう。一石三鳥の謀略だ。
すべてが、俺のチェス盤の上で、完璧に進んでいるように見えた。
だが、その時、俺はまだ知らなかった。
この王都の地下深く、俺の《支配者の劇場》の魔力糸さえも届かない場所で、もう一つの「悪意」が、静かに胎動を始めていたことを。
王宮の地下牢。その最深部。公式には存在しないとされる、囚人番号「ゼロ」が収監された独房。
その独房の暗闇の中で、一人の男が、壁に響く俺とイゾルデのやり取りを、まるで聞いていたかのように、静かに笑みを浮かべていた。
「ククク……面白い。実に面白いぞ、ゼノン王子。悪を演じ、世界を救う、か。反吐が出るほどの偽善だが、その手腕は見事なものだ。だがな、王子。本物の『混沌』というものを、まだお前は知らない」
その男の体からは、魔力とは全く異なる、邪悪で、粘つくような気配が立ち上っていた。それは、かつて俺が始末したイレギュラー、ジンが使っていたゴーレムの動力源や、セレスティーヌが仕組んだ蒼い炎の魔術の残滓と、どこか似て非なる、より根源的な「悪」の匂いだった。
「さあ、始めようか。俺のゲームを。お前のその完璧なチェス盤を、ひっくり返してやる。この世界の本当の絶望は、神でも、魔王でも、お前のような道化でもない。ただ純粋な、『混沌』そのものなのだからな」
男はそう呟くと、独房の壁に、自らの血で、歪んだ円を描き始めた。それは、この世界のいかなる魔術体系にも属さない、異界の召喚陣だった。
俺の知る物語には、存在しないはずのキャラクター。
俺の知らないルールで動く、第四のプレイヤー。
俺の孤独なチェスゲームの盤上に、今、予測不能な最悪の「ジョーカー」が、解き放たれようとしていた。