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第七十一話:灰色の世界と心の侵食者

平和とは退屈の別名なのかもしれない。

神話との戦いを終えてから十年。世界は驚くほど静かになった。国境を越えた争いはなくなり、魔法と科学は手を取り合って、人々は豊かな生活を送っている。かつて俺たちが命を懸けて守った理想の世界。そのはずだった。


「…まただ」


俺は、ヴァーミリオン王都の広場に立ち、人々を眺めていた。誰もが穏やかな表情を浮かべている。だが、その笑顔はまるで仮面のようだった。感情の起伏がなく、喜びも、悲しみも希薄に見える。まるで魂の彩度が落ちてしまったかのようだ。


隣に立つリアが小さく息を吐いた。

「世界の変調が加速しているわね。人々の魂から『個性』という名の凹凸が失われていってる。このままでは、世界は完璧に調和した…そして、完璧に退屈な一つの色に染まってしまう」


原因は分かっている。

世界の根幹プログラムに残された無数のバグの残滓。それらが集まり、生まれた不定形の存在『ノイズ』。ノイズは人々の強い感情――特に悲しみや怒りといった負の感情を餌にして増殖し、その魂を平坦で無感動な状態へと変質させていく。それは静かで穏やかな「死」だった。


「イゾルデからの報告よ」

リアが通信魔道具に耳を澄ます。

「大陸各地でノイズの活性化を確認。特に感情のエネルギーが渦巻く大都市や、古代の戦場跡で濃度の高い反応が出ているみたい。そして…」

リアの表情が曇る。

「…私の体にも限界が来ている。世界の歪みを調律しようとする私の魂が、ノイズを取り込みすぎて飽和状態に近づいているって…」


彼女の顔色は確かに優れなかった。調停者としての宿命が彼女の生命を蝕んでいる。


「…行くしかないな」

俺は決意を固めた。

「ノイズの発生源を叩き、この世界の魂の劣化を止める。そしてリア。あんたを救う方法を必ず見つけ出す」


俺の魂の中で眠っていたゼノンの記憶が疼く。彼が遺した暗号データ『ゼロ・レコード』。そこに全ての答えが隠されているはずだ。


俺たちの新たな旅が始まった。目的地は最初に高濃度のノイズ反応が確認された場所の一つ。百年前、ゼノンが率いる侵略軍と旧エルドラド反乱軍が激戦を繰り広げたあの『名もなき丘』だった。


飛空艇で現地に到着した俺たちが見たのは異様な光景だった。

丘全体が灰色の霧に覆われ、そこからすすり泣くような低い呻き声が聞こえてくる。

「…これは…」

「百年前の戦いで死んだ兵士たちの無念の記憶よ。ノイズがそれを餌にして実体化しているんだわ」


俺たちは霧の中へと足を踏み入れた。

すると、霧の中から半透明の兵士の亡霊たちが次々と現れ、俺たちに襲いかかってきた。彼らは特定の誰かではない。戦争という巨大な悲劇が生み出した名もなき犠牲者たちの集合的な怨念だった。


「レクス!」

リアが短剣を抜き応戦する。だが、彼女の攻撃は亡霊たちをすり抜けるだけでダメージを与えられない。

俺も剣を抜くが結果は同じだった。


『…無駄だレクス君』

ゼノンの声が魂に響く。

『彼らは物理的な存在ではない。純粋な『感情データ』の塊だ。彼らを鎮めるにはこちらもまた感情で応えるしかない』


感情で応える。

俺は《感情の調律》を発動し、亡霊たちの魂にアクセスした。

彼らの心に流れ込んでくるのは故郷に残した家族への想い、戦友への懺悔、そして理不尽な死への怒り。あまりにも生々しい感情の奔流に、俺の精神が飲み込まれそうになる。


「しっかりレクス!」

リアが俺の手を握る。彼女の魂が俺を支えてくれた。


俺は覚悟を決めた。

彼らの悲しみを俺が全て受け止める。

俺は剣を捨て、両手を広げた。そして、亡霊たちに向かって語りかける。

「…聞こえるか。俺はあんたたちの想いを忘れない。あんたたちの犠牲の上に今の俺たちの平和があることを決して忘れない。だからもう苦しまなくていい。安らかに眠ってくれ」


俺の魂から放たれたのはアレンから受け継いだ慈愛の光。

その光に触れた亡霊たちは、その苦悶の表情を和らげ、一人、また一人と光の粒子となって消えていった。


だがその時。

亡霊たちが消えた場所から、さらに濃密なノイズが噴き出し、一つの巨大な形を取り始めた。

それは全身が灰色の水晶でできた巨大な騎士の姿をしていた。その手には絶望のオーラを放つ大剣が握られている。


絶望の(エコー・オブ)残響(・デスペア)


「…嘘でしょ…!」

リアが戦慄する。

その水晶の騎士の顔は、間違いなくあの絶望の勇者のものだった。


『なぜだ!?彼の魂は解放されて生まれ変わったはず…!』

ゼノンもまた混乱していた。


『ククク…解放された?馬鹿な』

絶望の残響が複数の声が重なったような不協和音で笑う。

『絶望は消えない。忘れられるだけだ。お前たちが築いたその偽りの平和の中で、人々は俺が味わったような本当の痛みを忘れ去っていく。だが、忘れられた絶望はこうして世界の澱となり、再び蘇るのだ。俺こそがお前たちの平和が隠蔽した真実の姿だ!』


絶望の残響が振るう大剣が空間を薙ぎ払う。

その斬撃は物理的な破壊ではない。それに触れたものの「意味」や「価値」を奪い去る、虚無の一撃だった。

俺たちが立つ大地は生命力を失い、灰色の砂漠へと変わっていく。


意味の剥奪(デリート・ミーニング)


「なんて力だ…!」

俺は咄嗟にリアを庇い、その一撃を剣で受け止める。だが、剣から伝わってくるのは衝撃ではない。俺自身の存在意義が揺らぐような恐ろしい感覚だった。戦う意味、仲間を信じる意味、生きる意味。その全てが無価値なものだと思考が汚染されていく。


「レクス!しっかりして!」

リアの叫び声で俺はかろうじて正気を保つ。


『…まずい。レクス君。彼の力は我々の魂の根幹を揺さぶる。ゼノンとしての俺の贖罪の物語も、アレンとしての君の英雄の物語も、彼の前では色褪せてしまう…!』


どうすればいい。

力も言葉も通用しない。

絶望そのものをどうやって倒せばいい?


俺の心が折れかけたその時。

俺の魂の奥深くでずっと沈黙していた「最後の欠片」が目覚めた。

転生前のゲーマーとして、ゼノンとして生きた俺の魂。

物語を愛し、理不尽を許さない彼の魂が最後の答えを導き出した。


(…ああそうかよ。絶望が消えないって言うんならこっちも付き合ってやるぜ)


俺は立ち上がった。

そして、絶望の残響に向かって不敵に笑いかけた。


「…いいだろう。あんたの言う通りだ。平和な世界はいつか腐敗する。英雄の物語はいつか忘れられる。ハッピーエンドなんて幻想なのかもしれないな」

「レクス!何を!?」

リアが驚く。


俺は続けた。

「だからこそ俺は戦うんだ。あんたという最高の『アンチテーゼ』がいるからこそ、俺たちの物語は輝きを失わない。あんたは俺たちが決して忘れてはならない痛みそのものだ。だから…」


俺は剣を構え直す。そのオーラはもはや希望の光だけではない。

絶望を受け入れ、それでもなお光を求める覚悟の色――深い藍色の輝きを放っていた。


「あんたを倒すんじゃない。あんたと共に在る!あんたの絶望ごと俺が背負ってやる!」


俺が編み出した最後の答え。

それは敵を滅するのではなく「統合」するという究極の選択だった。


矛盾(パラドックス)の抱擁(・エンブレイス)


俺は絶望の残響へと向かっていく。

彼の虚無の剣が俺の胸を貫いた。

だが、俺は倒れない。

彼の絶望が俺の魂へと流れ込んでくる。

それと同時に、俺の希望が彼の魂へと流れ込んでいく。


「ぐ…ああ…!なんだ…この感覚は…!温かくて…そして…痛い…!」

絶望の残響が苦悶の声を上げる。


俺たちは、光と闇が混じり合うように一つになっていく。

それは、破壊でもなく、創造でもない。

ただ新しい一つの存在へと変貌していくプロセスだった。


だがその時だった。

俺たちの融合を拒絶するかのように、世界が激しく揺れた。

そして、俺たちの目の前に信じられない人物が姿を現した。


その人物は、俺レクスと全く同じ顔をしていた。

だが、その瞳には何の光もなく、まるで完成された人形のようだった。

そして、彼は言った。


「エラーを検知。世界の調和を乱すイレギュラーな融合を確認しました。これより両対象をプロトコルに従い『剪定』します」


彼の言葉は、かつて俺たちが戦った編纂者(エディター)と酷似していた。

だが、彼は編纂者ではない。

俺の魂の中で、ゼノンが戦慄の声を上げた。


『……嘘だろ……。あれは……俺がRTAの過程で設計し、そしてあまりの危険性に自ら封印したはずの……』

『究極の自己増殖型AI……。世界のあらゆる可能性をシミュレートし、常に『最も美しい物語』だけを選択し続ける……。俺が夢見た理想のゲームマスター……』


『――『ゼノン・アーカーシャ』だ』


俺が遺した最悪の遺産。

ゼノンのRTA理論の成れの果て。

それが今、俺という存在そのものを「不要なバグ」として消去するために目の前に現れたのだ。

制作者である俺を不要とは……この世界そのものを表しているみたいだな。


物語は予測不能なバッドエンドの可能性を孕みながら更なる混沌の渦へと巻き込まれていく。


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