第六十五話:祭りの後の静けさと新たな胎動
外部監査役による『最終評価』。その神々の試練を乗り越え、俺たちの世界は完全な独立を勝ち取った。サーバー削除の脅威は去り世界は真の意味で人間たちの手に委ねられたのだ。
その報せはレオナルド王によって世界中に布告され、人々は熱狂した。長きに渡る戦乱と不安の時代の終わり。そして、本当の平和の時代の幕開け。大陸中で何日も何日も盛大な祝祭が催された。
ヴァーミリオンの王都もまた、祝賀ムード一色だった。人々は英雄たちの名を呼び、俺レクス、リア、レオナルド、イゾルデ、デューク、そして今は亡き勇者アレンと守護者ゼノンの功績を称えた。
俺は、そんな喧騒を少し離れた場所から眺めていた。時計塔の最上階。かつてゼノンが孤独に世界を観測していたこの場所が、今は俺の落ち着く場所になっていた。
「ここにいたのねレクス」
リアがワインのボトルと二つのグラスを持ってやってきた。
「たまには英雄らしく祝われたらどう?」
「柄じゃないさ。それに、本当の英雄は俺じゃない。最後まで戦い抜いたみんなだ」
俺たちはグラスを傾けながら、眼下に広がる平和な夜景を見下ろす。無数の灯りがまるで地上の星空のように瞬いていた。
「……終わったのね。本当に」
リアがぽつりと呟いた。その声には安堵と、ほんの少しの寂しさが混じっているようだった。
「ああ。終わったんだ」
俺の魂の中で囁き続けていたゼノンの声も、もう聞こえない。最終評価の際に、俺が彼の物語を肯定し、描ききったことで彼の魂は完全に浄化され、この世界の理の中へと還っていったのだ。俺の中に残っているのは、ただ温かい記憶の残響だけ。
俺は、もう特別な力を持たない。デバッグモードも観測者の視点も使えない。ただの青年レクスに戻ったのだ。
それでよかった。それが、俺の望んだ結末だった。
「これからどうするの?」
リアが俺の顔を覗き込む。
「そうだな……。世界を旅するのもいいかもしれないな。俺たちの知らない世界をこの目で見てみたい」
「いいわね。私も一緒に行く」
彼女は当たり前のようにそう言った。その言葉が俺の心を温かくする。
俺たちの未来は、白紙の地図のように無限の可能性に満ちていた。
だが、物語の神は、俺たちにそう簡単なハッピーエンドを用意してはくれていなかったらしい。
祭りの後の静けさが訪れた数週間後。
世界に、再び異変の兆しが現れ始めた。
それは以前のような世界の理を歪める派手なバグではない。もっと静かで本質的な「変化」だった。
最初に報告されたのは『魔法の沈黙』だった。
世界中から魔法の力が急速に失われ始めたのだ。昨日まで使えていた魔法が今日は使えない。イゾルデのような大魔導師でさえ、その力の衰えをはっきりと感じていた。
次に起こったのは『亜人種の変容』だった。
エルフの尖った耳が丸くなり、ドワーフの屈強な体が華奢になっていく。彼らは徐々に人間と変わらない姿へと「退化」し始めていた。
そして、最後に訪れたのは『記憶の忘却』。
人々は百年前の大戦の記憶、神々との戦いの記憶を急速に失い始めていた。まるで、世界そのものがファンタジーという名の夢から覚め、平凡な現実へと戻ろうとしているかのように。
「……どういうことだ……。ゼロ・リセットの影響か?」
王宮の緊急会議でレオナルドが苦悩の声を上げる。
イゾルデがいくつもの仮説を立て、検証していく。そして、彼女は一つの恐るべき結論にたどり着いた。
「……原因は私たち自身です。いいえ、レクス君あなたです」
彼女は俺をまっすぐに見据えた。
「最終評価の時、あなたは全ての物語を受け入れ、調和させることで世界を救いました。それは素晴らしい偉業です。しかしその結果、この世界の『特異性』が失われてしまったのです」
彼女の解説はこうだった。
この世界が魔法や亜人種といったファンタジー要素を維持できていたのは、ゼノンやアレン、そして俺という『イレギュラー』な魂が世界の核として存在し、その特異なエネルギーで世界の理を支えていたから。いわば俺たちは、この世界のOSをカスタマイズする特殊なパッチのようなものだった。
だが、最終評価で俺が全ての物語を調和させ、自らもまた特別な力を失い「普通」の存在になったことでそのパッチが外れてしまった。
その結果、世界は本来あるべき姿――魔法も亜人種もいないごく平凡な『地球』に近い低ファンタジーの世界へと初期化されようとしているのだという。
「そんな……!」
俺は絶句した。俺が世界を救った行動が、逆にこの世界の個性を奪い去ろうとしているというのか。
「このままでは魔法は完全に消え、亜人種たちはそのアイデンティティを失い、そして、人々は英雄たちの戦いの記憶さえも忘れてしまうでしょう。それは平和かもしれませんが、同時にとても色彩に乏しい灰色の世界です」
イゾルデの言葉は重くのしかかった。
俺たちが守りたかったのはこんな世界だったのか?
その夜、俺は一人時計塔で悩んでいた。
俺にできることはもう何もないのか。
このまま世界の色彩が失われていくのをただ見ているしかないのか。
その時だった。
時計塔の床に置かれていた一つの箱が独りでに開いた。
それは、イゾルデが俺にくれた『魂の同調器』が入っていた箱。
だが、中身は空のはずだった。
箱の中から現れたのは、一枚の古びたカードだった。
カードにはチェスのキングの駒が描かれている。
そして、その裏にはゼノンの筆跡でこう書かれていた。
『――チェックメイトの後にもう一手あるのが嗜みってものだろう?』
「……ゼノン……!」
これは、彼が遺した最後のメッセージ。最後の伏線。
俺はカードを手に取った。その瞬間、カードが眩い光を放ち、俺の脳内に最後のプランが流れ込んできた。
それは『世界の再定義』計画。
失われゆく魔法や亜人種の存在といったこの世界の『個性』を人々の魂の中に『物語』として植え付け、定着させるという壮大な計画だった。
たとえ物理的な力が失われても、人々の心の中に物語がある限り、その世界は決して色褪せない。
だが、それを行うには膨大なエネルギーが必要となる。
そのエネルギー源としてゼノンが指し示した場所。
それは、かつてアルフレッドが遺した狂気の遺産『Project: ARK』のサーバー跡地だった。
『ARKの動力炉には、まだ膨大なエネルギーが眠っている。だが、それは危険な賭けだ。下手をすればアルフレッドの亡霊を再び呼び覚ますことになるかもしれない。それでもやるか?レクス君。君がこの世界の本当の『作者』になる覚悟があるのならな』
俺は迷わなかった。
俺はリアや仲間たちにゼノンの最後の計画を打ち明けた。
誰も反対する者はいなかった。
皆、この色鮮やかな世界を愛していたからだ。
俺たちは再び集結した。
目的地はクロックフォードの地下深く、今も封印されているファクトリー・ゼロ。
俺たちのこれからの仕事。
それは、科学の亡霊が遺した負の遺産を希望の灯火へと変えること。
そして、俺たちはまだ知らない。
ARKのサーバーを再起動させることが、この世界だけでなく、切り離されたはずのIFの世界線にも影響を及ぼし、あの絶望の勇者やイゾルデ・エコーといった者たちとの邂逅に繋がっていくということを。
物語はまだ終わらない。
本当のハッピーエンドはまだその先に待っている。
俺は、ゼノンが遺したキングのカードを強く握りしめた。
さあ、始めようか。
俺たちの手で紡ぐゼロからの創世記を。