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第五話:黒きと王子と白き聖女のチェスゲーム

クロスロードの街を後にしてから数日。俺は、アレンに与えた地図――エルドラドへ向かう街道を見下ろせる、森の奥深くに潜んでいた。影蜘蛛の情報によれば、アレンは冒険者ギルドや賞金稼ぎたちの追跡を振り切り、俺が残した地図を頼りに、独りエルドラドへ向かっているという。


計画の第一段階は成功だ。アレンは俺への強烈な憎悪を原動力に、生きるための戦いを始めた。そして、彼の向かう先には、同じくヴァーミリオン(俺)に故郷を追われた男、ガレス・アードラーがいる。二つの憎しみが交わった時、それは単なる復讐心を超えた、巨大なうねりとなるはずだ。原作における、勇者と最初の仲間の出会い。その舞台は、俺という悪役によって完璧にセッティングされた。


「……主よ。アルテミア聖王国から、客人が」


木の影から現れた影蜘蛛が、声を潜めて報告する。俺は眉をひそめた。


「客人? 誰だ」

「聖女セレスティーヌが、単独で。我が方の監視網を、まるで意に介さず、一直線にこちらへ」


その報告が終わるか終わらないかのうちに、森の静寂を破って、鈴を転がすような声が響いた。


「そこにいらっしゃるのでしょう? ゼノン王子。少し、お話がしたくて、追いかけてきてしまいましたわ」


木々の間から、純白のローブをまとったセレスティーヌが、一人で姿を現した。その足元には土一つついておらず、まるで地面から数ミリ浮いて滑るように歩いている。彼女の周囲だけ、森の薄闇が嘘のように、柔らかな光に満ちていた。


俺は舌打ちし、隠れるのをやめて木の幹から姿を現した。

「何の用だ、偽善者。俺は今、虫の居所が悪い。早々に立ち去らねば、その美しい顔が原型を留めなくなるぞ」


「怖いこと。ですが、貴方様ほどのお方が、ただの癇癪でリース村の少年を指名手配するとは思えません。何か、深いお考えがあってのことでしょう?」


セレスティーティーヌは微笑みを崩さない。だが、その碧眼は、俺の魂の奥底まで見透かそうとするかのように、鋭く光っている。


「ほう? 俺の考えが分かると?」

「ええ、少しだけ。貴方様は、『物語』をとても大切にされている。そうではありませんか?」


物語、という単語。その言葉が出た瞬間、俺は全身の魔力を戦闘態勢へと移行させた。こいつ、どこまで知っている? 俺が転生者であることまで見抜いているのか?


「……何のことだか分からんな」

「ご冗談を。貴方様のなさることは、まるで、あるべき結末へ向けて、登場人物を導いているかのよう。傲慢な悪役を演じながら、英雄が育つための試練をお与えになっている。素晴らしい脚本ですわ。ですが……」


彼女はそこで言葉を切り、慈愛に満ちた表情から一転、氷のように冷たい無表情になった。


「その脚本、少し古臭くはありませんこと?」


空気が、変わった。

彼女を中心に、目に見えないプレッシャーが放射状に広がる。俺が展開していた《支配者の劇場》の魔力糸が、彼女の放つ異質なエネルギー――信仰と絶望を糧とする聖域サンクチュアリ――に触れて、バチバチと火花を散らして軋む。


「……本性を現したな、イレギュラー」

「イレギュラー? いいえ、わたくしは『アップデート』ですわ。古くなった物語を、より刺激的で、より感動的な、新しい物語に書き換えるための、ね」


彼女が指先を軽く振るうと、周囲の木々がにわかにざわめき、その枝や蔓が生き物のようにうねり、俺を捕らえようと襲いかかってきた。彼女の聖域は、無機物だけでなく、生命ある植物さえも操れるのか。


「《支配者の劇場・第二楽章:断絶の不協和音(ディスコード)》」


俺は即座に魔力糸を収束させ、高速で振動させることで、一種の防御フィールドを作り出した。襲い来る枝や蔓は、俺に触れる前に、不可視の壁に弾かれては千切れていく。


「まあ、見事な魔力制御。ですが、それでわたくしの『声』から逃れられますかしら?」


セレスティーヌは、歌うように口を開いた。

それは、特定の言語ではない。だが、聞いた者の精神に直接働きかける、催眠効果を持った音階。

聖唱・第一番(セイクリッドコーラス)魂の揺り籠(ソウル・クレイドル)


脳が直接揺さぶられるような感覚。思考が鈍り、まぶたが重くなる。悪役を演じるための緊張感が、強制的に弛緩させられていく。これが彼女の力の真髄か。物理的な攻撃ではなく、精神そのものを支配する力。


「くっ……!」


俺は自らの舌を強く噛み、痛みで意識を覚醒させる。口の中に鉄の味が広がる。


「あらあら、痛そうですわ。無理なさらなくてもよろしいのに。さあ、すべてをわたくしに委ねなさい。貴方様のその重荷、わたくしが引き受けて差し上げます」


彼女の甘い声が、さらに精神の深層へと侵食してくる。俺という存在の根幹――「物語を守る」という固い決意さえも、解きほぐそうとしてくる。


(まずい……! このままでは、俺の秘密も、計画も、すべて引きずり出される……!)


魔力糸による物理防御は、彼女の精神攻撃の前ではほとんど意味をなさない。ならば、こちらも同じ土俵で戦うまで。


俺は瞳を閉じ、意識を集中させた。俺の力は、魔力糸で外部を支配するだけではない。その応用で、俺自身の精神世界に、鉄壁の要塞を築くこともできる。


《支配者の劇場・最終楽章:沈黙の独房(サイレント・プリズン)


俺は自らの精神の表層に、何重にも魔力糸の壁を張り巡らせた。セレスティーティーヌの《聖唱》は、その壁に阻まれ、内部に侵入することができない。まるで、完全防音の独房に閉じこもるように、俺は自分の心を外界からシャットアウトした。


「……まあ。わたくしの歌が、届かない? 貴方、自分の心に鍵をかけたのね。なんて可哀想な方」


セレスティーヌは初めて、驚いたような表情を見せた。


「お喋りはそこまでだ。お前の目的は何だ? 俺の計画を邪魔して、この世界をどうするつもりだ」


俺は精神防御を維持しながら、反撃に転じる。張り巡らせた魔力糸の一部を、極細の針のように収束させ、セレスティーティーヌの聖域の隙間を縫って、彼女自身に撃ち込んだ。これは物理攻撃ではない。相手の魔力やエネルギーの流れを直接乱すための、ハッキングのような技だ。


千本の棘(サウザントソーン)


「きゃっ……!?」


セレスティーヌの体が僅かに揺らぎ、彼女の周囲に満ちていた光が、一瞬だけ不規則に点滅した。彼女のエネルギー制御が、俺の攻撃で僅かに乱れた証拠だ。


「……ふふ。ふふふ、あはははは!」


だが、彼女は怯むどころか、心底楽しそうに笑い出した。


「素晴らしいわ、ゼノン王子! 本当に素晴らしい! 貴方のような方こそ、わたくしの『騎士』に相応しい!」

「寝言は寝て言え」

「いいえ、本気ですわ。考えてもみて? 貴方とわたくしが手を組めば、この退屈な物語を、根底から覆すことができる」


彼女はうっとりとした表情で、自らの計画を語り始めた。


「勇者が魔王を倒すなんて、使い古された筋書きはもう飽きたでしょう? わたくしが提案する新しい物語の主役は、民衆そのもの。わたくしは聖女として民衆を導き、彼らの信仰と絶望を力に変え、この大陸のすべての国を、神の名の下に統一する。争いも、飢えもない、完全なる管理社会。素晴らしいユートピアだと思いませんこと?」


それは、一見すると理想郷のように聞こえる。だが、実態は、個人の意志や感情をすべて奪い、セレスティーヌという一個人のためにエネルギーを供給し続ける、家畜の楽園だ。


「そして貴方には、その世界の『絶対悪』になっていただくのです。民衆が堕落しないよう、常に緊張感を与えるための、必要悪。人々はわたくしという光を崇め、貴方という闇を恐れることで、物語は永遠に活性化し続ける。これぞ、完璧なエンターテイメントよ!」


狂っている。こいつは、この世界そのものを、自分のための巨大な舞台装置としか見ていない。俺とは違う意味で、この世界の「外側」にいる存在。


「断る。俺の守りたい物語は、そんな歪んだものではない」


俺が即答すると、セレスティーティーヌは心底残念そうに肩をすくめた。

「残念ですわ。分かり合えると思ったのに。……まあ、いいでしょう。貴方様がその古臭い脚本に固執するのなら、わたくしは力尽くで、新しいページを書き加えるまで」


彼女はそう言うと、ふっと姿を消した。転移魔法か? いや、違う。俺の魔力糸は、彼女がその場から一歩も動いていないことを示している。これは、光の屈折を利用した、高度な幻術。


直後、森のあらゆる方向から、無数のセレスティーヌの幻影が現れ、一斉に《聖唱》を放ってきた。精神攻撃の波状攻撃。俺の《沈黙の独房》が、飽和攻撃によって軋み始める。


(まずい、このままではジリ貧だ……!)


だが、この状況は、同時に好機でもあった。幻影は無数にあれど、本体は必ずどこかにいる。そして、これだけの幻影と精神攻撃を維持するには、莫大なエネルギーを消費しているはずだ。彼女の聖域にも、必ず僅かな「穴」が生まれる。


俺は《支配者の劇場》の全神経を、その「穴」を探すことだけに集中させる。

あった。東の方角。一瞬だけ、彼女のエネルギーフィールドの密度が薄くなったポイントがある。そこが本体の場所だ!


「そこだ!」


俺は防御に使っていた魔力糸の大部分を解き放ち、一本の巨大な槍へと収束させる。そして、その槍に、俺が持つ最大火力の技を込めた。原子レベルで対象を断ち切る《断罪の糸切り鋏》の、貫通力を極限まで高めた派生技。


貫く神意の針(ロンギニス・ニードル)


黒い魔力の槍が、音速を超えて空間を疾走し、俺が見定めた聖域の「穴」へと吸い込まれていく。


「――ッ!?」


短い悲鳴と共に、すべての幻影が霧散し、森の木々の間に、左腕から血を流す本物のセレスティーヌが姿を現した。俺の攻撃は、彼女の聖域を貫通し、その腕を掠めたのだ。


彼女は信じられないという目で、血の流れる自らの腕と、俺を交互に見た。


「……わたくしに、傷を……この、わたくしに……!」


その表情から、初めて聖女の仮面が完全に剥がれ落ち、純粋な驚愕と、そして屈辱の色が浮かんでいた。


「言ったはずだ。俺は今、虫の居所が悪い、と」


俺は追撃はせず、ただ冷たく彼女を見据える。ここで彼女を殺すこともできるかもしれない。だが、それは得策ではない。彼女を殺せば、彼女の信者たちが暴走し、世界は大混乱に陥る。それは、アレンの物語にとって、致命的なノイズにしかならない。


今は、牽制に留めておくべきだ。


セレスティーティーヌは数秒間、呆然としていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、流れる血を舐め取ると、恍惚とした笑みを浮かべた。


「……最高だわ。最高よ、ゼノン王子。痛み……屈辱……この感覚! これこそが、わたくしの物語に足りなかったスパイス!」


彼女の瞳は、もはや狂信者のそれだった。


「決めたわ。貴方を殺すのは、やめる。貴方は、わたくしの物語の、最高のライバル役にしてあげる。この世界を舞台にした、わたくしと貴方のチェスゲーム。どちらが、己の望む『エンドロール』を迎えられるか、競いましょう?」


彼女はそう宣言すると、白い光に包まれて、今度こそ本当に姿を消した。転移だ。俺の攻撃で負傷し、これ以上の戦闘は不利と判断したのだろう。


後に残されたのは、不気味な静寂と、俺の荒い呼吸だけだった。

とんでもない敵だ。だが、同時に、大きな情報を得た。彼女は「物語」という概念を知り、それを書き換えようとしている。そして、彼女の力は万能ではなく、俺の力で傷つけられる。


俺と彼女は、この世界というチェス盤の上で、駒を動かし合うプレイヤー。

俺の駒は、勇者アレンとその仲間たち。俺は彼らが正しく成長し、原作通りの結末を迎えられるよう、悪役として導く。

彼女の駒は、狂信的な民衆。彼女は彼らを扇動し、自らが神となる、新たな物語を創造しようとしている。


戦いの構図は、より複雑になった。

だが、俺のやるべきことは変わらない。


俺はアレンが向かったエルドラドの方向を見据える。

「さあ、アレン。最初の試練だ。俺という悪意と、ガレスという仲間を得て、お前は英雄への第一歩を踏み出す。お前の物語は、まだ始まったばかりなのだから」


俺の孤独な戦いは、偽りの聖女という新たなプレイヤーの参戦によって、さらに先の見えない混迷の渦へと巻き込まれていくのだった。

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