第四十八話:電子の海の悪夢と書き換えられた英雄
《魂の架け橋》を抜けた先。そこは、俺たちの知る物理法則が一切通用しないサイバー空間『Project: ARK』の世界だった。俺とリアの魂はデータ化され、この電子の海を自由に移動できるアバターとしての姿を得ていた。周囲には、緑色の0と1の文字列が滝のように流れ落ち、時折破損したデータが赤いノイズとなって空間を切り裂く。
「……ここがイゾルデ・エコーの世界……。なんて静かで冷たい場所なの……」
リアが呟く。彼女の言う通りだ。ここには、生命の息吹が感じられない。ただ膨大な情報だけが死んだように漂っている。アルフレッドが夢見た、苦痛のない永遠の楽園。その成れの果てが、この無機質な情報の墓場だった。
『気をつけろレクス。この世界はアルフレッドの精神そのものだ。彼のルールがすべてを支配している』
俺の魂の中でゼノンが警告を発する。彼の観測者としての力は、このデータ世界でも健在だった。いや、むしろ水を得た魚のようにその能力を最大限に発揮している。
『この空間はいくつかの階層に分かれているようだ。最深部にあるメインサーバーに、ARKのシャットダウンコードが存在する。そこを目指すぞ』
俺たちはゼノンのナビゲートに従い、データの海を泳ぐように進み始めた。だが、平穏は長くは続かなかった。俺たちの侵入を感知したARKの防衛システムが牙を剥いたのだ。
データの海から無数の幾何学的な形をしたプログラム――『ガーディアン』が出現し、俺たちに襲いかかってきた。彼らはアンチウイルスプログラムだ。俺たちをウイルスとみなし駆除しようとしてくる。
「こいつら!」
俺は聖剣を構え、ガーディアンの一体に斬りかかる。だが、俺の剣は空を切るだけだった。ガーディアンは実体を持たないデータの塊。物理攻撃は通用しない。
「レクス!ダメよ!この世界ではこの世界のルールで戦わないと!」
リアが叫ぶ。彼女は二本の短剣を構えると、それをプログラムコードのような緑色の光の鞭へと変化させた。
《コード・ウィップ》
リアの鞭がガーディアンに命中すると、その幾何学的な体がノイズを発して崩壊していく。
「この世界の敵はデータなの。だから、こちらもデータで攻撃しないと。あなたの魂の力を具現化して!」
魂の力をデータとして具現化する。俺は、ゼノンの知識とアレンの魂の輝きを融合させ、自らの武器を再構築した。俺の手の中に現れたのは物理的な剣ではない。眩い光でできた二対の翼――『光の翼』だった。
《データ・ドレイン・ウィング》
俺は、この翼でガーディアンのプログラムに触れ、そのデータを吸収し、自らの力へと変換する。敵の力を奪い取るハッキングのような攻撃方法だ。俺とリアは互いに背中を預けながら、次々と現れるガーディアンの群れを撃退していく。
『……順調だな。だが、これはただの前座に過ぎん。本命が来るぞ』
ゼノンの警告と同時に、空間の奥からこれまでとは比較にならないほど巨大なガーディアンが現れた。その姿は、かつて俺たちが戦った神々の王プライマスと酷似していた。
「プライマスのデータ……!アルフレッドはあれさえも解析していたのか!」
『いや違う!あれはプライマスそのものではない!あれは……!』
ゼノンが言葉を失う。
巨大なガーディアン――『プライマス・ゴースト』がその腕を振りかざすと、その手には一本の禍々しい聖剣が握られていた。黒く錆びつき絶望のオーラを放つその剣。
「あの剣は……絶望の勇者の……!」
そうだ。このプライマス・ゴーストはアルフレッドが作り出したものではない。彼が倒された後、ARKのゴミデータ溜まりに蓄積された負の感情の集合体――電子の亡霊が絶望の勇者の戦闘データを吸収し、自らの姿として作り変えたものだったのだ。
『我が名はレギオン。我らは忘れられた者。捨てられた者。お前たちのハッピーエンドの礎となった全てのバッドエンドの記憶、そのものだ』
プライマス・ゴースト――レギオンが複数の声が重なったような不協和音で語りかける。
『この偽りの楽園を破壊し、全ての物語を絶望の無に還す。それが我らの目的だ』
レギオンが絶望の聖剣を振るう。その斬撃は空間を歪ませ、俺たちが立つ足場であるデータ地盤を根こそぎ消去していく。
「まずい!このままじゃ俺たちの存在も消される!」
俺は、光の翼で空へと退避する。リアもコード・ウィップを壁に引っ掛け難を逃れた。
『……レクス。あれはただのデータじゃない。あれは「物語」そのものだ。俺が切り捨ててきた無数のRTAの失敗ルートそのものなんだ……』
ゼノンの声が震えていた。彼が初めて見せる動揺だった。
『俺がもっと上手くやっていれば生まれるはずのなかった悲劇。その全てが今、俺に復讐しに来ているんだ』
「ゼノン……」
『……だが、感傷に浸っている場合じゃない。あれを倒す方法は一つしかない。物語には物語をぶつけるんだ。レクス君。もう一度あの力を使うぞ』
俺たちは再び《物語の具現化》を発動させた。
この電子の世界で、俺たちの想像力は無限だ。
俺は、俺たちの世界の英雄譚――アレンが仲間と共に神々を打ち倒した、あの輝かしい物語をこのデータ世界に再現した。
黄金の鎧をまとった勇者アレン。
不屈の盾を持つ戦士ガレス。
光の女神の微笑みを浮かべる聖女セレスティーヌ。
百年前の英雄たちの幻影が俺たちの隣に並び立つ。
「行こうみんな!もう一度世界を救うぞ!」
俺は、英雄たちの先頭に立ち絶望の集合体レギオンへと突撃した。
希望の物語と絶望の物語。
二つの相反する概念がARKの世界で激突する。
アレンの聖剣がレギオンの絶望の剣とぶつかり合い、凄まじい光と闇の火花を散らす。ガレスの盾が仲間たちを絶望の波動から守り、セレスティーヌの癒やしの光が傷ついたデータを修復していく。
戦いは互角。
いや、むしろ絶望のエネルギーを無限に吸い上げるレギオンの方がわずかに優勢だった。
『……ダメだ……!俺たちの知るハッピーエンドだけでは奴の絶望の深さには勝てない……!もっと強い物語が必要だ……!』
ゼノンが呻く。
その時だった。
俺たちの背後から声が聞こえた。
「――ならば、私たちの物語も使ってもらえるかしら」
振り返ると、そこに立っていたのはイゾルデ・エコーだった。彼女だけではない。彼女の後ろには、このARKの世界に囚われていた全ての人々の魂が光のアバターとなって集結していたのだ。彼らは、俺たちの戦いを見て、自らの意志で立ち上がることを決意したのだ。
イゾルデ・エコーは続ける。
「私たちの世界は確かにバッドエンドだった。アルフレッドの夢は破れ、私たちは偽りの楽園で緩やかな死を待つだけだった。でも、それでも私たちは生きていた!絶望の中で愛する人を想い、小さな希望を見つけようと足掻いていた!その想いは決して無価値なんかじゃない!」
彼女たちの魂から、無数の小さな光が放たれ俺たちの物語へと流れ込んでくる。
それはハッピーエンドでもバッドエンドでもない。
ただひたすらに「生きたい」と願う無数の名もなき人々の物語だった。
俺たちの英雄譚に、彼らの物語が加わった時、奇跡が起こった。
光と闇が混じり合い、希望と絶望が溶け合い、俺たちの物語は全く新しい次元へと進化を遂げた。
それは完璧なハッピーエンドではない。
不完全で矛盾だらけでそれでも愛おしい「現実」という名の物語。
《現実創世》
俺たちの体から放たれるオーラは、もはやどんな色でもなかった。それはあらゆる可能性を内包した透明な輝き。
レギオンがその輝きを前にして、初めて怯んだ。
『……なんだ……その光は……。希望でも絶望でもない……。理解できない……!』
「当たり前だ。お前は、ただの過去のデータだからな。でも、俺たちは今を生きている。そして未来を作っていく!」
俺は、進化した物語の力を一本の矢へと変えそれを光の翼で天へと放った。
その矢は、レギオンを討つためのものではない。
このARKの世界そのものを救うための矢だった。
矢は天高く舞い上がり、そして無数の光の雨となってこの電子の世界全体に降り注いだ。
光の雨に触れたガーディアンは、その敵意を解かれ、元の静かなプログラムへと戻っていく。
囚われていた人々の魂は解放され、現実世界への帰還を始める。
そして、絶望の集合体であったレギオンもまた、その光の中でゆっくりとその姿を溶かしていった。
『……そうか……。俺たちは……ただ……誰かに……見ていて欲しかっただけなのかもしれないな……。俺たちの物語も……無駄じゃなかったんだと……』
レギオンは、最後にそんな言葉を残して完全に消滅した。
こうしてARKの世界は救われた。
イゾルデ・エコーと彼女の世界の人々は、俺たちに深々と頭を下げた。彼らは、これから自分たちの手で新しい世界を再創造していくのだという。
俺とリアは魂の架け橋を渡り、現実世界へと帰還した。
ミッションは完了した。
だが、俺の心には一つの大きな「謎」が残っていた。
レギオンは言った。自分たちはゼノンが切り捨てた失敗ルートの記憶だと。
だが、なぜ彼らは絶望の勇者の姿をしていた?
なぜ彼らは絶望の勇者の記憶を持っていた?
絶望の勇者は別のパラレルワールドの存在のはず。ゼノンのRTAのセーブデータとは直接関係ないはずだ。
その時、ゼノンが震える声で呟いた。
『……まさか……。ありえない……。だが、もしそうだとすれば……』
ゼノンはある恐ろしい可能性に気づいてしまった。
彼がRTAの過程で利用していた「セーブ&ロード」機能。
それは、単に時間を巻き戻すだけの機能ではなかったのかもしれない。
セーブデータをロードするたびに、彼は無意識のうちにほんの僅かに違う「パラレルワールド」へと跳躍していたのではないか?
そして、彼が切り捨ててきた無数のセーブデータは無数のバッドエンドの世界線そのものを生み出す原因となっていたのではないか?
絶望の勇者もイゾルデ・エコーも、元はと言えば全て自分が生み出した存在だったとしたら?
俺たちの戦いはまだ終わっていなかった。
俺たちは今や自分たちが蒔いた種を刈り取らなければならないのだ。
無数に存在する絶望の世界。そのうちの一つの世界を救っただけに過ぎない。
それら全てを救済するという果てしない旅が今、始まろうとしていた。