第四話:北の悲鳴と南の偽善
『リース村、壊滅状態』
影蜘蛛からの報告が、脳内で冷たく反響する。悪役の仮面の下で、俺の思考は沸騰しそうなほど高速回転を始めていた。
まずい。何もかもが早すぎる。
原作において、勇者アレンの旅立ちは、彼の17歳の誕生日、星降りの夜に起きる魔物の襲撃がきっかけだった。だが、今の彼はまだ16歳。俺がこの五年間、慎重に物語の進行を監視してきたタイムラインから、一年も前倒しになっている。
原因は明白だ。俺という「イレギュラー」の存在。特に、アルテミア聖王国への「聖女狩り」という原作にない行動が、物語の強制力を大きく刺激し、帳尻を合わせるための暴走を引き起こしたのだ。俺が聖女セレスティーヌという偽りの光に干渉したせいで、世界は慌てて本物の光である勇者アレンを舞台に上げようとしている。
「どうかなさいましたか、王子様? 急に顔色が優れないようですが」
目の前で、聖女セレスティーヌが慈母のような微笑みを浮かべている。その瞳の奥には、俺の動揺を見透かしたかのような、狡猾な光が揺らめいていた。この女、俺の焦りを楽しんでいる。
俺は胸の内で燃え盛る焦燥を無理やり押し殺し、悪態をつくように言い放った。
「貴様の起こす奇跡とやらは、どうにも胡散臭くて反吐が出る。気分が悪くなっただけだ」
「まあ、ひどい。ですが、今はそれどころではございませんわ。火災は鎮めましたが、家を失い、傷ついた方々が大勢いらっしゃいます。わたくし、これから彼らの手当てをしなければ」
彼女は完璧な聖女の台詞を口にしながら、俺に背を向けた。民衆が彼女に道を開け、感謝と崇拝の言葉を捧げる。その光景は、もはや宗教的な儀式のようだった。そして、俺は気づいてしまった。
広場に集う民衆の「信仰心」が、光の粒子となって彼女に集まっているだけではない。火災で傷つき、絶望した者たちの「負の感情」――恐怖、悲しみ、苦痛――までもが、黒い霧のようなエネルギーとなって、彼女の足元の影に吸い込まれているのを。
《支配者の劇場》の感度を上げた俺の目には、その異質なエネルギーの流れがはっきりと見えた。彼女は、信仰心という「正のエネルギー」を表向きの力としながら、同時に、人々の絶望という「負のエネルギー」をも吸収し、自らの力に変換しているのだ。
(光と闇、両方の感情を喰らうのか……! なんて悪食な能力だ!)
これこそが、彼女の「奇跡」のカラクリ。民衆に信仰されることで力を得て、さらに自ら災厄を引き起こすことで生まれる絶望をも糧とする。まさに、無限に力を増幅させられる永久機関。ジンなどとは比べ物にならない、S級のイレギュラーだ。
だが、今は彼女を追及している場合ではない。一刻も早く、リース村の状況を確認し、アレンの安否を確かめなければ。最悪の事態――アレンがこの襲撃で死んでしまえば、物語は完全に終わり、この世界は管理者の手によってリセットされてしまう。
俺はセレスティーティーヌに聞こえるように、わざとらしく舌打ちした。
「ふん、偽善者の茶番はもう見飽きた。これ以上ここにいても時間の無駄だ。帰るぞ」
「あら、もうお帰りですか? ヴァーミリオンに、わたくしを連れて帰るのではなくて?」
彼女は振り返り、挑発的に小首を傾げた。
「気が変わった。貴様のような薄汚れた花は、我がヴァーミリオンの庭には相応しくない。せいぜい、この偽善に満ちた泥沼で咲き誇っているがいい」
俺は最大限の侮蔑を込めて言い捨て、踵を返した。背後で、教皇や神官たちが憤慨する声が聞こえるが、知ったことではない。一刻も早く、この街を出なければ。
聖都の門へ向かう道中、俺は影蜘蛛に小声で矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「状況は!? リース村の生存者は!?」
「……不明です。ですが、現場に急行した別働隊からの断片的な報告によれば、襲撃した魔物はゴブリンやオークといった低級のものではありません。『深淵の魔獣』と呼ばれる、通常は魔王領の深奥にしか生息しないはずの、高ランクの魔物の群れだったと……!」
深淵の魔獣。原作ゲームでも、中盤以降にしか登場しない強敵だ。そんなものが、なぜ今、辺境の村に? 明らかに異常だ。「物語の強制力」が、アレンを確実に旅立たせる(あるいは殺す)ために、戦力インフレを強引に起こしている。
「アレンの安否は!?」
「それが……襲撃の混乱の中、一人の少年が『光る石』を手に、魔物の群れに立ち向かっていくのを見た、という生存者の証言が。ですが、その後の消息は……」
(頼む、生きていてくれ……!)
俺は祈るような気持ちで、馬を走らせた。聖都を出ると、俺は外交団の部隊から離れ、影蜘蛛数名だけを連れて最短ルートで北を目指した。目的地はリース村ではない。村から最も近い、商業都市「クロスロード」。原作で、故郷を失ったアレンが最初に立ち寄る街だ。もし彼が生きていれば、必ずそこへ向かうはず。
道中、俺は思考を巡らせる。
この事態は、セレスティーヌのせいだけではない。俺自身の責任だ。俺が悪役として行動すればするほど、世界の歪みは大きくなる。その歪みを正そうとして、物語の強制力は暴走する。まるで、俺の行動すべてが、破滅へのカウントダウンを早めているかのようだ。
ならば、どうする? 計画を修正しなければならない。
アレンを影から支援するだけでは足りない。彼がこの過酷な運命を乗り越え、真の勇者として覚醒するためには、より強固な「導き」が必要だ。
そして、そのためには、俺はさらに深い「悪」に染まる必要がある。
「……影蜘蛛」
「はっ」
「クロスロードのギルドに、極秘の依頼を出せ。依頼内容は、『リース村の唯一の生存者、アレンと名乗る少年を捕縛せよ』。依頼主は、ヴァーミリオン王国第一王子、ゼノン。報酬は金貨一万枚だ」
「なっ……!? 主、それは……!」
驚愕する影蜘蛛に、俺は冷徹な声で告げた。
「アレンは今、故郷と家族を失い、絶望の淵にいる。そこへ、故郷を滅ぼした(と彼が思い込むであろう)魔物と、俺という『人間の悪意』が同時に襲いかかる。彼は、生きるために戦うしかない状況に追い込まれる。彼の才能を無理矢理開花させるには、これくらい荒療治が必要だ」
故郷を失った少年を、国家権力を使って指名手配し、賞金首にする。これ以上ないほどの外道な行いだ。だが、これがアレンに「戦う理由」と「最初の目標」を与える、最も効果的な方法だった。中途半端な同情や救いの手は、彼の成長を阻害するだけだ。
「……承知いたしました。ですが、主。本当にそれで……?」
「黙ってやれ。これは、俺にしかできない『仕事』だ」
俺の覚悟を感じ取ったのか、影蜘蛛はそれ以上何も言わず、仲間に指示を飛ばすために姿を消した。
三日後。不眠不休で馬を飛ばし続けた俺たちは、商業都市クロスロードに到着した。活気ある街だが、どこか不穏な空気が漂っている。リース村の悲劇の噂が、すでに広まっているのだ。
俺はフードで顔を隠し、街の情報屋と接触した。金の力を使えば、情報はすぐに手に入る。
「へえ、旦那。リース村の生き残りのガキに興味があるって? 悪いことは言わねえ、関わらない方が身のためだぜ。なんでも、あのゼノン王子が直々に、破格の賞金を懸けてそのガキの首を狙ってるって話だ」
情報屋は下卑た笑みを浮かべる。計画通り、噂は広まっているようだ。
「その少年は、今どこに?」
「それが分かれば、俺がとっくに捕まえてるさ。なんでも、ギルドに登録しようとしたところを、他の冒険者たちに囲まれて、大立ち回りの末に逃げ出したらしい。まだガキのくせに、とんでもねえ腕っぷしだったとか。今じゃ、街中の冒険者やゴロツキが、血眼になってそいつを探してるよ」
(……よし、生きている!)
最悪の事態は避けられた。安堵と同時に、俺は次の行動に移る。アレンは今、街の下水路か、廃墟にでも隠れているだろう。冒険者たちに追われ、人間不信に陥っているはずだ。
「礼だ」
俺は情報屋に金貨を数枚投げ渡し、その場を去った。
夜。俺はクロスロードの街を見下ろせる、教会の鐘楼の上にいた。
《支配者の劇場》の魔力糸を、蜘蛛の巣のように街全体に張り巡らせ、アレンの居場所を探る。俺の糸は、魔力を持つ存在に特に敏感に反応する。アレンは「勇者の原石」の力で覚醒しかけている。その魔力反応は、他の人間とは明らかに違うはずだ。
雨が降り始める。エルドラドの時と同じ、血の匂いを予感させる冷たい雨だ。
糸に、反応があった。
南区画の、廃倉庫街。そこに、小さくだが、他の何者とも違う、清冽で力強い魔力の輝きを感じる。間違いない、アレンだ。
だが同時に、その場所に向かって、数十の濁った魔力反応――賞金稼ぎの冒険者たちが集結しつつあるのも分かった。誰かが、彼のアジトを突き止めたのだ。
「……ショーの始まりか」
俺は鐘楼から飛び降り、音もなく屋根の上を走り始めた。これから始まるのは、アレンにとっての最初の試練。俺は、その試練が彼の心を砕いてしまわないよう、見届ける義務がある。そして、必要とあらば、「悪役」として介入し、彼の憎悪を一身に引き受ける。
廃倉庫に到着すると、すでに戦闘は始まっていた。
「ヒャッハー! 見つけたぜ、賞金首!」
「一万ゴールドは俺たちのモンだ!」
下品な怒号と共に、十数人の冒険者たちが、一人の少年に襲いかかっていた。
ボロ布を纏い、泥と傷にまみれた少年。歳は十六ほど。だが、その瞳に宿る光は、絶望の中にあっても消えていなかった。彼が、勇者アレン。
彼は、その手に握りしめた、鈍く光る石――「勇者の原石」から力を引き出し、驚異的な身体能力で戦っていた。素人同然の剣捌き。だが、その一振り一振りには、天賦の才が宿っている。
「邪魔だ!」
アレンが叫ぶと、彼の手にした剣が淡い光を放ち、振るわれた軌跡に光の刃が生まれる。オリジナル技ではない。勇者の一族に伝わる聖剣技の、最も初歩的な型だ。
《ライト・スラッシュ》
光の刃が、冒険者の一人の鎧を切り裂く。だが、多勢に無勢。アレンはすぐに取り囲まれ、背中に棍棒の一撃を食らってしまう。
「ぐっ……!」
「終わりだ、ガキ!」
冒険者の一人が、アレンにとどめを刺そうと、大斧を振り上げた。
その瞬間。
俺は物陰から、一本の魔力糸を弾いた。
《音響弾》。不可視の糸を高速振動させて衝撃波を生み出し、目標に撃ち込む技だ。
「ぎゃん!」
大斧を振り上げた男が、奇妙な悲鳴を上げて倒れた。彼の耳から、少量の血が流れている。鼓膜を破ったのだ。死にはしないが、戦闘は続行不可能。
「な、なんだ!?」
「今、何か……」
混乱する冒険者たち。俺は次々と、死角から《音響弾》を放ち、彼らの戦意を削いでいく。ある者は武器を持つ手を痺れさせられ、ある者は足を撃たれて転倒する。誰からも見えない攻撃に、冒険者たちは次第に恐怖し始めた。
「ば、化け物だ!」「このガキ、何か変な仲間を連れてやがる!」
彼らはそう叫びながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
一人残された倉庫で、アレンは荒い息をつきながら、警戒を解かずに周囲を睨んでいる。
「……誰だ? そこにいるんだろ! 出てこい!」
俺はゆっくりと、影の中から姿を現した。フードは被ったままだが、俺の纏う異様な雰囲気は、彼に伝わっただろう。
「……お前が、助けてくれたのか?」
アレンは戸惑いながらも、問いかけてくる。純粋な瞳だ。だが、その瞳は、すぐに絶望に染まることになる。
俺はゆっくりとフードを外し、自分の顔を晒した。
ヴァーミリオン王家の紋章が入った、豪奢な衣服。そして、血のように赤い瞳。
アレンの顔が、驚愕と、憎悪に変わっていくのが分かった。
「お、お前は……! ヴァーミリオンの王子、ゼノン……!」
彼の脳裏に、俺の名前と、故郷を襲った魔獣、そして冒険者たちが口にしていた「賞金首」の話が結びついたのだろう。
「なぜ……なぜ俺の村を! なぜ俺を狙う!?」
「理由か? そんなものはない」
俺は、エルドラドでガレスに見せたのと同じ、冷酷で傲慢な笑みを浮かべた。
「お前の村が滅んだのは、運が悪かっただけだ。そして、お前を狙うのは、お前という存在が、ただ気に食わない。それだけだよ」
理不尽な、悪意の塊。
アレンの全身から、怒りの魔力が炎のように立ち上った。彼の手にした「勇者の原石」が、その怒りに呼応するように、眩い光を放ち始める。
「ふざけるな……ふざけるなああああ!!」
アレンは絶叫と共に、俺に斬りかかってきた。その剣技は、先ほどとは比べ物にならないほど鋭く、速い。憎しみが、彼の才能をさらに引き出している。
だが、遅い。
彼の剣は、俺の喉元で、またしても見えない壁に阻まれて停止した。
《支配者の劇場》の前では、彼の怒りも無力だ。
「な……!?」
「これが、現実だ。勇者の卵よ。お前のその程度の力では、この世界の理不尽の前では、何も守れないし、何も変えられない」
俺は魔力糸で彼の体を締め上げ、宙吊りにした。
「くっ……離せ!」
「お前の瞳、気に入った。そうだ、もっとだ。もっと俺を憎め。その憎しみが、絶望が、いつかお前を本当の『英雄』にするかもしれないからな」
俺は彼にしか聞こえない声で囁き、一つの「伏線」を仕込む。
「だが、覚えておけ。お前の本当の敵は、目の前の分かりやすい『悪』だけではない。世界は、お前が思うより、ずっと複雑で、悪意に満ちている」
意味が分からず、混乱するアレン。それでいい。いつか、この言葉の意味を知る時が来る。
「さて、今日のところはこれくらいにしておこう。また遊んでやる、アレン」
俺は彼を解放し、地面に叩き落とした。そして、彼の目の前に、小さな革袋を投げ捨てる。中には、数枚の金貨と、ヴァーミリオン王国の地図が入っている。地図には、エルドラドの山中に、一つの印がつけられていた。
「……なんだ、これは」
「生き延びるためのものだ、くれてやる。せいぜい、犬のように逃げ回るがいい」
俺は彼に背を向け、闇に消える。
憎しみを糧にしろ、アレン。そして、生き延びろ。その地図が示す先に、お前の最初の仲間がいる。俺が用意した、歪んだ運命の道標だ。
俺の背中に、アレンの憎悪に満ちた叫び声が突き刺さる。
それでいい。それで、いいんだ。
俺は道化だ。物語を正しく進めるためなら、どんな悪意も、どんな憎しみも、喜んで引き受けよう。
北の空に、明けの明星が光り始めていた。