第四十六話:色褪せた英雄と鏡写しの絶望
俺たちが《物語の具現化》という禁断の力を使って世界をアップデートしてから三年。世界は、魔法や亜人種といった新しい日常を受け入れ、良くも悪くも活気に満ち溢れていた。俺たちのギルド『黎明の翼』は物語の調停者として各地で起こる小さなトラブルを解決する日々を送っていた。俺の《物語の修正》の力は、多くの人々の心の傷を癒やし、リアの調停者としての知恵は人間と亜人種との間に起こる軋轢を幾度となく解決に導いた。
平和だ。
だがそれは、まるで薄氷の上を歩くような危うい平和だった。俺の魂の中でゼノンが時折警告を発していた。
『……世界の因果律が不安定になっている。レクス。お前が使った力は、世界の壁を薄くしてしまった。まるで開け放たれた窓のように、他の世界からの風が吹き込んできている』
その不吉な予感が現実のものとなったのは、ヴァーミリオンの王都で開かれた第一回『世界融和会議』の最中だった。
レオナルド王の呼びかけで、大陸中の国の王や亜人種の代表者たちが一堂に会し、新しい世界のルールを決めようという歴史的な会議。その会場である王宮の大広間に、突如として巨大な黒い『鏡』が出現したのだ。
「何だあれは!?」
警備にあたっていた黒騎士団が剣を抜く。
鏡の表面が水面のように揺らめき、そこから一人の男がゆっくりと歩み出てきた。
その男の姿を見て、俺とレオナルドは息を呑んだ。
男は、アレンと瓜二つの顔をしていた。
だが、その雰囲気は全く違う。アレンの持つ太陽のような温かさはなく、その瞳には深い絶望と凍てつくような憎しみの色が宿っていた。そして、彼が纏う黄金の鎧は、所々が黒く錆びつき、聖剣もまたその輝きを失い禍々しいオーラを放っていた。
「……勇者アレン……なのか?」
レオナルドが信じられない、という顔で問いかける。
男はゆっくりと首を振った。
「……アレン?ああ、その名はとうに捨てた。俺は『絶望の勇者』。世界に裏切られ、仲間を全て失い、物語をバッドエンドで終えたただの亡霊さ」
彼の言葉に会場がどよめく。
彼は、別の世界の『アレン』だった。俺たちの世界とは違う結末を迎えた並行世界からの来訪者。
『やはり来たか……!』
ゼノンの声が、俺の頭の中で響く。
『開かれたパンドラの箱が呼び寄せた、最初の客だ!』
絶望の勇者は続けた。
「……この世界は光に満ちているな。眩しくて反吐が出る。俺たちの世界とは大違いだ。俺たちの世界では、ゼノンは最後まで悪役を演じきり、俺はその手管に踊らされ、仲間たちを疑い、自らの手で殺めてしまった。そして最後は、管理者プライマスに敗れ、世界はリセットされた。俺だけがその記憶を持ったままバグとして虚無の次元を彷徨っていたのさ」
彼の語る物語は、俺たちの世界が辿ったかもしれない一つのIFの結末。ゼノンのRTAがほんの少しでも違った方向に進んでいれば、俺たちの世界もそうなっていたかもしれない。
「なぜここへ来た!目的は何だ!」
黒騎士団が剣を構え問い詰める。
絶望の勇者は、ゆっくりと俺たちを見回し、そして俺――レクスを指差した。
「目的は一つ。この世界の『物語』を奪いに来た。お前たちのハッピーエンドを上書きし、俺たちのバッドエンドを正史とするために。そして、そのための鍵はお前だ。アレンとゼノン、二つの魂を宿すイレギュラー。お前の魂を奪い、その力を使えば俺は俺の物語をやり直せる」
彼は、この世界の物語を乗っ取り、自らの悲劇をなかったことにしようとしているのだ。
「ふざけるな!あんたの悲劇は同情する!でも、だからといって俺たちの世界を壊していい理由にはならない!」
俺は、聖剣と星辰の剣を構え、彼の前に立ちはだかった。
「……そうか。ならば力ずくで奪うまでだ。俺が経験してきた絶望の深さをその身に教えてやる」
絶望の勇者との戦いが始まった。
彼の剣技は、俺の知るアレンのそれと全く同じだった。だが、その一振り一振りに込められた感情が違う。アレンの剣が希望と絆を力とするなら、彼の剣は憎しみと後悔を力とする闇の聖剣技だった。
《絶望剣・万物喪失》
彼が剣を振るうたびに黒い斬撃が放たれ、それに触れたものが存在意義を失い、崩れ落ちていく。床も壁も柱も、まるで最初からそこになかったかのように消滅していく。
俺は、アレンとゼノンの力を融合させた《黎明の魂》で対抗する。
光と闇。希望と絶望。鏡写しの二人の勇者が玉座の間で激しく火花を散らした。
「なぜだ!なぜ貴様はそんなに強い!仲間も世界も、何もかも失ったはずのお前が!」
俺は、彼の圧倒的な力に押されながら叫んだ。彼はただ絶望しているだけではない。その絶望を燃料にして、信じられないほどの力を引き出していた。
絶望の勇者は虚ろな目で答える。
「……強さ?これは強さなどではない。ただの『痛み』だ。俺は、あの日からずっと死んでいる。この体も魂も仲間たちの断末魔の叫びと俺への呪詛だけで、かろうじて繋ぎ止められているに過ぎない。俺のこの力は、俺が殺した仲間たちの魂の悲鳴なのだよ」
彼の言葉に俺は戦慄した。彼は、仲間を失った悲しみを乗り越えるのではなく、その悲しみそのものと一体化することで力を得ていたのだ。これほど悲しい戦い方があるか。
「……なら、俺がその呪いを断ち切ってやる!」
俺は、最後の力を振り絞り、最大の技を放とうとする。
だが、その瞬間俺の動きが止まった。
絶望の勇者が隠していた最後の切り札。それは俺の魂に直接作用する精神攻撃だった。
《共鳴・地獄》
彼の絶望的な記憶が、俺の脳内に直接流れ込んでくる。
仲間たちを疑い、傷つけ殺めてしまう光景。
世界がリセットされ、自分だけが取り残される永遠の孤独。
その地獄のような記憶が俺の魂を蝕み、戦意を奪っていく。
「……ぐ……ああ……っ!」
俺は、その場に膝をついた。
「終わりだ。お前のその甘っちょろい希望も俺の絶望の前では無力だ」
絶望の勇者が俺にとどめを刺そうと錆びついた聖剣を振り上げた。
その時だった。
「――待ちなさい」
凛とした声が響いた。
声の主はリアだった。彼女は俺の前に立ちはだかり、絶望の勇者を静かに見据えていた。
「調停者か。お前もこの男に味方するか。ならば、お前から先に消すまでだ」
「いいえ、私は戦わない。ただ、あなたに一つの『真実』を見せるだけ」
リアはそう言うと、自らの胸に手を当てた。
「私の力《理の崩壊》の本質は『無効化』じゃない。『調律』よ。そして、私が調律できるのは世界の理だけじゃない。人の『記憶』もまた、世界の理の一部……」
彼女は、自らの記憶の一部を具現化し、絶望の勇者に見せた。
それは俺たちの世界の物語。
ゼノンが孤独に戦い、アレンが仲間を信じ抜き、そして、俺レクスがそのすべてを受け継いで世界を救った物語。
《真実の観測》
「……なんだ……これは……。同じはずの世界……同じはずの俺……。なのに……なぜこんなにも違う……?」
絶望の勇者は、自らの世界とは全く違う結末を迎えた俺たちの物語を見て激しく動揺する。
彼の心を支えていた「世界は絶望しかない」という前提が崩れ始めたのだ。
リアは続けた。
「あなたの悲劇はあなたのせいじゃない。運命の歯車がほんの少し掛け違っただけ。でも、どんなに絶望的な物語でも、希望の結末を迎える可能性はあった。あなたが仲間を信じる心を最後まで失わなければ……」
「……黙れ……黙れ黙れ黙れッ!」
絶望の勇者は頭を抱えて叫ぶ。
彼の足元から黒い鏡が再び現れ、彼はその中へと逃げるように姿を消した。
「……待て!」
俺は追いかけようとしたがもう遅かった。
後に残されたのは静まり返った玉座の間と、そして「物語は一つではない」という恐ろしい真実を知ってしまった俺たちだけだった。
「……リア。あんた一体何者なんだ……?」
俺は彼女に問いかける。記憶を具現化するなど、ただの調停者にできることではない。
リアは少し悲しそうに微笑んだ。
「……言ったでしょ。私はシステムの番人。そして、私の魂はね……かつてゼノンがRTAの過程で利用し、そして消去した一つの『セーブデータ』から生まれた存在なのよ」
彼女は、ゼノンがより良いタイムを出すために試行錯誤の過程で切り捨てた無数の「IFの物語」の記憶の集合体だったのだ。バグを引き起こして正規のルートから外れた物語、そのセーブデータが具現化したものこそがリアだという。だからこそ彼女は、あらゆる可能性を知り、物語に干渉することができた。
俺たちの戦いは、新たな次元に突入した。
敵は、もはや世界の内のバグではない。
世界の「外」からやってくる無数の「IFの物語」そのもの。
そして、俺たちは自分たちのこのハッピーエンドが、数え切れないほどのバッドエンドの犠牲の上に成り立っているという罪を背負いながら戦い続けなければならないのだ。
俺は天を仰いだ。
ゼノン。あんたが本当に見たかったのはこんな未来だったのか?
答えは返ってこなかった。
ただ、俺の魂の中で彼の遺した観測者の力が静かに次の脅威の到来を告げているだけだった。