第四十五話:物語の残響と開かれたパンドラの箱
次元の捕食者ヴォイド・イーターズとの『物語戦争』。それは、クロックフォードの街を舞台にした奇跡的な勝利で幕を閉じた。俺たちが紡いだ「誰も死なないハッピーエンド」は、世界を喰らおうとした宇宙的災害さえも感動させ、その戦意を喪失させたのだ。
戦いの後、俺の《物語の具現化》によって現れた百年前の英雄たちの幻影は、満足げな笑みを浮かべて光の中へと消えていった。世界は元の姿を取り戻し、人々は何が起こったのか理解できないまま、ただ空に架かった巨大な虹を見上げていた。
俺たちのギルド『黎明の翼』はこの一件を表沙汰にすることなく、静かに街を去った。だが、俺たちの心には、大きな変化が生まれていた。
「……すごかったな、レクス」
帰りの飛空艇の中で、リアが興奮冷めやらぬ様子で話しかけてくる。
「まさか、物語そのものを武器にするなんて。あなたの力は本当に予測不能ね」
「俺一人の力じゃない。ゼノンの知識と、アレンの心、そして、みんなの想いがあったからだ」
俺はそう答えながらも、自らの内に秘められた力のその底知れなさに、自分自身でも、少し戸惑っていた。
俺の魂の中でゼノンが静かに語りかけてくる。
『……気をつけろ、レクス。今回我々が使った力《物語の具現化》は、本来神々でさえも安易に手を出してはならない、禁断の力だ。世界の因果律を根底から書き換える諸刃の剣。今回は、ヴォイド・イーターズという規格外の敵を倒すためにやむを得なかったが、二度と軽々しく使ってはならない』
ゼノンの声には、いつになく真剣な響きがあった。
RTAプレイヤーだった彼でさえ、その危険性を本能で感じ取っているのだ。
『物語を紡ぐことは、新しい因果を生むこと。そして、生まれた因果は必ずどこかで別の歪みを生み出す。我々はとんでもないパンドラの箱を開けてしまったのかもしれないな……』
そのゼノンの不吉な予感は、すぐに現実のものとなった。
俺たちが王都ヴァーミリオンに帰還して数日後。
世界中から、奇妙な報告が寄せられ始めたのだ。
それは、以前のような分かりやすい「バグ」ではなかった。
もっと静かで、しかし、根源的な世界の「設定変更」とでも言うべき現象だった。
例えば、ある地方ではそれまで存在しなかったはずの「魔法」という概念が、突如として人々の間に発現し始めた。何の訓練もしていない普通の村人が、ある日突然、炎や氷を操れるようになる。
また、別の国では、人間とは全く違う生態系を持つ「エルフ」や「ドワーフ」といった亜人種が、まるで最初からそこにいたかのように歴史の中に出現し始めた。
世界が書き換えられていく。
俺が、ヴォイド・イーターズとの戦いで即興で作り出した「剣と魔法のファンタジー」という物語の設定が現実の世界に侵食し、定着し始めていたのだ。
「……どういうことだ……?」
作戦司令室でレオナルドやイゾルデと共に、その報告を聞いていた俺は愕然とした。
俺の使った力は、一時的な幻を作り出しただけではなかったのか。
アークライトが、苦々しい表情で仮説を述べた。
「……ヴォイド・イーターズは、『物語』を喰らう存在。彼らが、我々の物語を『美味しい』と感じ、それを受け入れたその瞬間、彼らの次元の力が我々の物語を『本物』としてこの世界に認証してしまったのかもしれませんわ。いわば、世界の根幹プログラムに新しいパッチが当たってしまったような状態……」
俺たちの勝利の代償。
それは、世界の根本的な変容だった。
俺は意図せずしてこの世界を、全く新しいゲームへと「アップデート」してしまったのだ。
この変化は、必ずしも悪いことばかりではなかった。
魔法の出現は人々の生活を豊かにし、亜人種との交流は新しい文化を生み出した。
世界は、より多様で、より活気に満ち溢れた場所へと変わりつつあった。
だが、光が生まれれば、必ず影も生まれる。
新たな力の出現は、新たな争いの火種を生んだ。
魔法を持てる者と持てざる者。
人間と亜人種。
これまで存在しなかった差別と対立が、世界中に生まれ始めたのだ。
そして、何よりも深刻な問題。
それは、俺が最後に具現化させた「死んだはずの英雄の帰還」という奇跡が世界の生死の理そのものを曖昧にしてしまったことだった。
各地で「死んだはずの家族が帰ってきた」という報告が相次いだ。
だが、帰ってきた彼らは、生前の記憶や人格を失ったただの抜け殻だった。
人々は、その空っぽの家族を前に、喜びと絶望の間で心を病んでいった。
世界は良かれと思って書かれた物語によって、逆に混乱の渦へと巻き込まれていったのだ。
「……俺の、せいだ……。俺が、軽々しく奇跡を起こしたから……」
俺は、自らの行いを深く後悔した。
ゼノンは正しかった。俺は、パンドラの箱を開けてしまったのだ。
そんな俺を、リアが静かに励ましてくれた。
「下を向かないで、レクス。あなたは世界を救った。その事実は変わらない。問題が起きたのなら、また解決すればいい。今度はもっと慎重に、ね。それが、私たち『黎明の翼』の仕事でしょ?」
彼女の言葉に、俺は救われた。
そうだ、俺はもう一人じゃない。
この新しい世界の問題を解決していく仲間たちがいる。
俺たちは、新たな決意を固めた。
俺たちが生み出してしまった、この新しい物語の世界。
その作者としての責任を果たし、この世界を本当の意味でのハッピーエンドへと導くこと。
俺たちのギルドの新しい活動方針が決まった。
それは、「物語の、調停者」として世界中の新たなトラブルを解決していくこと。
俺は、俺の中に眠るゼノンと、アレンの力をより深く理解し、制御するための訓練を始めた。
ゼノンの観測者の力は、この変容した世界の新しい「ルール」を解析するために。
アレンの勇者の力は、新たな争いや悲しみを癒やすために。
そして、俺は二つの力を融合させた、新たな技を編み出した。
それは、世界の理に直接干渉するような大技ではない。
目の前の、一人の人間の心にだけ作用する小さな、しかし温かい奇跡。
《物語の修正》
それは、相手の魂に触れ、その悲しい記憶を少しだけ幸せな結末へと「上書き」する力。
例えば、死んだ家族がホロウとなって帰ってきてしまい、絶望している人の前でそのホロウに生前の人格を一時的に取り戻させ、最後の温かい別れをさせてあげる、といった使い方だ。
それは、偽りのハッピーエンドかもしれない。
だが、それでも人々が前を向くための「きっかけ」を作ってあげることはできる。
俺はこの力で、世界中に生まれてしまった小さな悲劇を一つずつ、丁寧に癒やしていくことを決意した。
俺とリア、そして、レオナルドやイゾルデといった仲間たちの、新しい戦いが始まった。
それは、もはや世界を救う英雄譚ではない。
名もなき人々の小さな幸せを守るための、地道で果てしない物語だった。
だが、俺たちはまだ知らなかった。
俺たちが、世界の理を書き換えたあの瞬間。
その影響はこの次元だけに留まっていなかったことを。
俺たちが開けたパンドラの箱は、別の次元、別の物語の世界へと繋がる「扉」をも開けてしまっていたのだ。
その扉の向こう側から、俺たちの世界を羨望と嫉妬の目で見つめている存在がいた。
それは、自分たちの物語が「バッドエンド」で終わってしまった別の世界の主人公たち。
彼らは、俺たちの世界に干渉し、自分たちの運命を書き換えるため、虎視眈々とその機会を狙っていた。
俺たちの次の敵。
それは、世界を救えなかった「英雄」の亡霊たちだった。
物語は、一つの世界を飛び出し、無数の並行世界を巻き込む、壮大な「物語戦争」の序章へと突入しようとしていた。