第四十一話:黎明の翼と歌う森の雫
編纂者との戦いが終わり、俺、レクスが過去の英雄たちの魂をその内に秘めたまま、元の時代へと帰還してから一年が過ぎた。世界は、目に見える形で復興を遂げ、人々はその束の間の平和を謳歌していた。だが、俺とリア、そして、レオナルドやアークライト家といった世界の真実を知る者たちは理解していた。この平和は、まだ完全なものではないということを。
ゼノンが遺したRTAの傷跡、マキナがばら撒いた混沌の残滓。それらは、微小なバグとして、今なお世界の至る所に潜み、人々の日常を静かに蝕んでいた。
「――というわけで、ギルド『黎明の翼』本日も開店だ!」
王都の片隅に構えた小さな事務所で、俺はわざと明るい声を出した。俺とリアが立ち上げたこのギルドは、表向きは新人冒険者の育成や、簡単な依頼をこなす何でも屋。だが、その真の目的は、世界に残されたバグを検知し、人知れずそれを修正することにあった。
「今日の依頼は三件。北の鉱山町で採掘した鉱石が、全部マシュマロになる怪事件。西の港町で船乗りたちが、突然ネコ語しか話せなくなる奇病。そして……」
リアが羊皮紙の依頼書を読み上げる。どれもこれも一見すると馬鹿げた事件だが、その背後には世界の理が僅かに歪んでいる証拠が隠されている。
「……一番厄介そうなのはこれね。南の『囁きの森』で森そのものが悲しい歌を歌い続けていて、森に入った者が誰一人戻ってこないっていう案件」
「歌う森か。面白そうじゃないか。よし、今日のデバッグ対象はそれに決まりだ」
俺は、作り物の笑顔でそう言った。本当は心が重かった。これらのバグは、すべて元を辿ればゼノン――俺の魂の一部でもある男が世界に与えた負荷が原因なのだ。それは、俺が背負うべき罪そのものだった。
俺とリアは簡単な旅支度を整え、囁きの森へと向かった。
森の入り口に立つと、噂通りどこからともなく物悲しいメロディーが聞こえてきた。それは、特定の言語ではない。だが、聞いているだけで胸が締め付けられ、涙がこぼれそうになる、魂に直接響くような歌声だった。
「これは……」
「魂の共鳴だわ」
とリアが呟く。
「森の精霊か、あるいは土地そのものの魂が何かを訴えている。そして、その訴えが強力すぎて森に入った人間の魂を同調させ、取り込んでしまっているのね」
俺たちは、覚悟を決めて森の中へと足を踏み入れた。
森の中は幻想的な光景だった。木々は、まるで泣いているかのようにその枝からキラキラと光る雫を滴らせていた。その雫に触れると、温かいような、悲しいような不思議な感情が流れ込んでくる。
『……かえりたい……』
『……さびしい……』
雫を通じて、森の心の声が聞こえてくる。
俺はゼノンから受け継いだ観測者の力――《感情の調律》を使い、この現象の核を探り始めた。俺の意識が森全体へと広がっていく。
そして、俺は見つけた。
森の中心にある巨大な古木の根元。そこに、一体の小さな精霊が座り込み、涙を流しながら歌っていた。彼女こそがこの歌声の主。そして、彼女の周囲には魂を抜かれたように立ち尽くす行方不明者たちの姿があった。
だが、彼女は悪意で人々を傷つけているのではなかった。
彼女は、ただ悲しくて、寂しくて、その気持ちを歌にしているだけだったのだ。そして、その純粋すぎる想いが強大なバグを引き起こしてしまっていた。
「なぜ泣いているんだ?」
俺は、彼女に優しく語りかけた。
ドライアドは、俺の姿に気づくと怯えたように後ずさる。
『……あなたは……誰?その魂……とても懐かしい……でも、とても怖い光の色……』
彼女は、俺の魂の中に眠るゼノンとアレンの光を感じ取っているらしかった。
俺は、ゆっくりと彼女に近づき、彼女の悲しみの原因を探るため《感情の調律》の精度をさらに上げた。
そして、俺は彼女の記憶の中へとダイブした。
俺が見たのは百年前の光景だった。
この森は、かつて光の女神アウローラが愛した彼女の庭だった。このドライアドもまた、女神に仕える小さな精霊の一人だったのだ。
だが、女神はマキナとの戦いで姿を消した。主を失った彼女の悲しみは、百年という時をかけて森全体を飲み込むほどの巨大なものへと膨れ上がってしまったのだ。
『あの方はもういない……。私はひとりぼっち……。この森もいつか枯れてしまう……。怖い……寂しい……』
彼女の絶望が俺の心にも流れ込んでくる。
これを解決する方法は一つしかない。
彼女の悲しみを癒やし「あなたは一人じゃない」と教えてあげることだ。
だが、どうやって?
言葉だけでは彼女の百年の孤独を埋めることはできないだろう。
その時、俺の魂の中でゼノンの知識が囁いた。
『……俺の発想を使え、レクス。正規の方法でダメなら、バグにはバグをぶつけるんだ』
バグにはバグを。
俺は、一つの突飛なアイデアを思いついた。
俺は、リアに向かって言った。
「リア!今から俺はこの森の『理』を一時的に書き換える!あんたは俺が作り出した新しいルールの中で、彼女の心を解放するための『舞台』を整えてくれ!」
「理を書き換える!?そんなことしたらあなた自身の魂が……!」
「やるしかないんだ!」
俺は、覚悟を決めた。
俺は自らの魂を解放し、アレンから受け継いだ勇者の力と、ゼノンから受け受け継いだ観測者の力を融合させる。そして、この囁きの森という限定された空間の中でだけ機能する一時的な新しい世界のルールを創造した。
《箱庭の創世》
俺が作り出したルール。それは「想いは力となり形となる」という極めてシンプルなものだった。
俺の宣言と共に、森の景色が一変する。
木々が楽器となり、風が音色を奏で雫が踊り子となる。森全体が彼女の悲しみを表現するための巨大なオーケストラへと変貌したのだ。
「さあ歌うんだ!君の悲しみを!寂しさを!そのすべてを!」
俺の言葉に促され、ドライアドは戸惑いながらも再び歌い始める。
すると、彼女の歌声に合わせて森が呼応する。悲しいメロディーがより深く、より美しく奏でられ、彼女の感情が雫となって森中に降り注ぐ。それは浄化の雨だった。彼女は自らの悲しみを外に解き放つことで、逆に癒やされていったのだ。
『……ああ……なんて温かい……』
だが、それだけでは足りなかった。
「リア!今だ!」
リアは頷くと二本の短剣を構え、舞い始めた。彼女の舞は戦闘のためのものではない。ドライアドの歌声に合わせ、人々の魂を呼び覚ますための鎮魂の舞。
彼女の舞に導かれ、魂を抜かれていた行方不明者たちが一人、また一人と意識を取り戻していく。そして、彼らはドライアドの悲しみを感じ取り、自然と彼女の歌に自らの声を重ね始めた。
それは、壮大な合唱となった。
主を失った精霊の悲しみの歌。
それに寄り添う人間たちの励ましの歌。
様々な想いが一つに溶け合い森全体が温かい光に包まれていく。
ドライアドの瞳から最後の涙が一粒こぼれ落ちた。
だが、その涙はもはや悲しみの色ではなかった。
仲間を見つけた喜びと感謝の色をしていた。
『……ありがとう……人間たち……。そして……不思議な魂を持つあなた……』
彼女は、俺に向かって優しく微笑んだ。
その笑顔と共に森を覆っていたバグは完全に消滅し、歌声も止んだ。木々は元の姿に戻り、行方不明者たちも全員無事に正気を取り戻した。
俺は力を使い果たし、その場に座り込んだ。
《箱庭の創世》は俺の魂に大きな負荷をかけた。だが、心は不思議と温かかった。
「……すごいじゃないレクス。まるで魔法みたいだった」
リアが俺の隣に座り、肩を貸してくれた。
「ああ。でも俺一人の力じゃない。みんなの想いが起こした奇跡だ」
俺たちは、顔を見合わせて笑った。
こうして、俺たちのギルドの最初の大きな仕事は終わった。
だが、俺はこの一件を通じて改めて理解した。
この世界に残されたバグは、単なるエラーデータではない。それは、誰かが遺した「想い」の欠片なのだと。
そして、それを解決できるのは力や理論だけではない。その想いに寄り添い、共に涙を流し、共に笑う「心」なのだと。
「さて、帰るとするか。ギルドではレオナルドからの面倒な依頼が待ってるかもしれないぜ」
「望むところよ。私たちの仕事はまだ始まったばかりなんだから」
俺とリアは、夕日に染まる森を後にした。
俺たちのデバッグの旅はまだ続く。
それは、ゼノンが犯した罪を償うための旅であり、同時に彼が本当に見たかった『誰もが笑えるハッピーエンド』を俺たちの手で紡いでいくための新しい物語の始まりでもあった。
そして、俺はまだ気づいていない。
今回の《箱庭の創世》の使用が世界のネットワークに微細な亀裂を生み出し、その亀裂を通して百年前の「ある人物」が俺たちの時代を覗き見ているということを。
その人物とは、自らの歪んだ正義で世界を救おうとしたあの天才――アルフレッドの残存思念だった。
物語は静かに、しかし確実に新たな混沌の予兆を孕みながら、次の章へと進んでいくのだった。