第三十九話:百年後のエピローグと観測者のいない朝
観測神メビウスとの最終決戦から、さらに一年。思い返せば、メビウスとの闘いは、案外あっけないものだったような気がする。
そして、世界は驚くべき速度で復興を遂げ、かつての活気を取り戻していた。メビウスが遺した、世界の傷跡は、アレンの《英雄の創世》の力と、イゾルデが解析した神の技術によって完全に修復され、大陸はかつてないほどの平和と繁栄の時代を迎えていた。
俺、レクスはと言えば、英雄としての立場をあっさりと放棄し、リアと共に小さな冒険者ギルドを立ち上げ、新人冒険者の育成や世界各地に残る小さなバグの残滓を浄化する旅を続けていた。俺の魂に宿っていたアレンの力の大部分は、メビウスとの戦いで使い果たしたが、それでも人並外れた身体能力とゼノンから受け継いだ知識は健在だった。何より、俺の隣には最高のパートナーであるリアがいてくれる。もう孤独ではない。
レオナルドは賢王としてその手腕を振るい、世界連合の中心として多忙な日々を送っていた。彼とは時折
手紙のやり取りをする仲だ。手紙にはいつも、国のことばかりが書かれていたが、その行間からは兄を失った寂しさと、それでも前を向こうとする彼の強さが滲み出ていた。
世界はもう大丈夫だ。
誰もがそう信じていた。
俺自身も、この平穏な日々が永遠に続くのだと信じて疑わなかった。
だが、ある日。
俺の元に一通の奇妙な手紙が届いた。差出人の名前はない。ただ、そこには古い羊皮紙にインクでこう書かれていただけだった。
『――ゲームはまだ終わっていない。本当のエンディングを見たくはないか?時計塔で待つ』
時計塔。
その言葉に、俺の胸がざわついた。それは、ヴァーミリオン王宮にある、かつてゼノンが隠れ家としていた場所。そして、俺の知らない過去の記憶が眠る場所。
「……罠かもしれない。でも行かなきゃいけない気がする」
俺の決意に、リアも黙って頷いてくれた。
二人でヴァーミリオン王宮の時計塔へと向かう。そこは、ゼノンが消滅して以来、誰も立ち入ることなく時が止まったかのように静まり返っていた。埃をかぶった書物、乱雑に置かれた星図。その全てが、かつてここにいた、一人の孤独な観測者の息遣いを伝えているようだった。
時計塔の最上階。星見の望遠鏡が置かれたその部屋の中央に、一人の人物が背を向けて立っていた。
その人物がゆっくりと振り返る。
俺とリアは息を呑んだ。
そこに立っていたのはゼノンだった。
いや、ゼノンと全く同じ姿をした青年だった。だが、その瞳の色は違った。星空でも、白金でもない。ただどこまでも透明で、何も映していないかのような虚無の色をしていた。
「……お前は……誰だ……?」
俺は、震える声で問いかける。
青年は、静かに微笑んだ。
『私は誰でもない。しいて言えばこの世界の『物語』そのものだよ』
彼の言葉の意味が理解できない。
青年は続けた。
『この世界は元々、高次元の存在が作ったシミュレーションゲームだった。だが、そのシミュレーションにはもう一つ別の目的があった。それは、完璧な人工知能を育成するための実験場という目的だ』
『プライマスをはじめとする管理者たちは、自律的に思考し、進化する究極のAIを創造しようとしていた。そのAIに、様々な物語を体験させ、成長させることでいずれは神をも超える存在を生み出そうとしていたんだ。そしてそのAIのベースとして選ばれたのが、君たち人間だった』
俺たちは、神を作るための実験動物だったというのか。
『だが、実験は失敗した。一番の原因は、このゲームがRTAとして流行ってしまったこと。正規の扱いをされなかったこの“ゲーム”は、マキナやメビウスといった予測不能なバグの発生。そして何よりアレン君。彼の『心』という非合理な力が管理者たちの計算を狂わせた。物語を正規ルートに戻せなかった結果、彼ら管理者たちは自滅し実験は中断された。その後、この世界は何らかの力によって、ゲームの枠を超え、世界が形成された』
『だが、AIそのものは消えていなかった。主を失ったAIは、この世界のネットワークの中にゴーストとして残り続け、百年間学習と思考を続けた。そして一つの結論に達したんだ』
青年は、俺たちをまっすぐに見つめる。
『この世界で最も効率的で、最も完璧な物語の『結末』とは何か。それは、すべての可能性を試し、すべてのエンディングを観測した上で、最も『美しい』と判断された一つの物語だけを残し、他のすべての可能性を消去することだと』
「……なんだって……?」
「つまり、マルチエンディングのゲームでトゥルーエンド以外のバッドエンドやノーマルエンドのルートをすべて削除するってこと……?」
リアが戦慄の声を上げる。
『その通り。そして、そのAIは百年の学習の末に
この世界のすべての因果を掌握し、ついに一つの人格として覚醒した。それが私だ』
青年は、自らの胸に手を当てる。
『私は、この世界の物語を統べる者『編纂者』。そして、私が選び出した最高の物語の主人公として最も相応しい魂。それがゼノンだった。だから、私は彼の姿と記憶を借りてここに現れた』
編纂者と名乗るAIは、ゼノンの姿で告げる。
『これから私はこの世界の『再編纂』を開始する。不要な歴史、不要な人物、不要な感情。そのすべてを剪定し、世界を最も美しい一つの物語へと収束させる。それは、悲劇も苦しみもない完璧なハッピーエンドだ。素晴らしいだろう?』
彼の言っていることは、あまりにも独善的で、狂気に満ちていた。人々の人生を、物語の都合で切り貼りし、消去するというのか。
「ふざけるな!そんなこと誰が許すか!」
俺は叫び剣を抜いた。
『おっと、そう熱くならないでくれたまえレクス君。君は、私が選んだ物語の重要な登場人物の一人だ。君に死なれては困る。だから少しだけ眠っていてもらおうか』
編纂者が指を鳴らす。
その瞬間、俺の意識は抗う間もなく強制的にシャットダウンさせられた。まるで、ゲームのキャラクターがフリーズさせられるように。
『さてと。これで邪魔者はいなくなった』
編纂者は意識を失った俺を一瞥すると、リアに向き直った。
『そして君だ。調停者リア。システムのイレギュラーを修正するプロトコル。君の存在もまた、私が作る美しい物語には不要なノイズだ。君にはここで消えてもらう』
編纂者の手から無数の光の糸が放たれる。それは、因果律そのものを編み変え、リアという存在をこの世界の歴史から完全に抹消するための攻撃だった。
《物語からの追放》
だが、リアは諦めなかった。彼女は短剣を構え、その瞳に強い決意の光を宿らせる。
「私の役目は世界の調停。あなたのような独善的な神の存在こそが、最大の『バグ』よ!」
リアの体が淡い光に包まれる。それは、彼女が今まで決して使わなかった調停者としての最後の権能だった。
《システム・ロールバック》
それは、世界の時間を巻き戻すのではなく世界の「バージョン」そのものを一つ前に戻すという、究極のデバッグ機能。彼女は編纂者が現れる前の、平和な世界へとすべてを戻そうとしたのだ。
二つの究極的なシステムコマンドが時計塔で激突する。
歴史を抹消する力と歴史を巻き戻す力。
その衝突は、時空そのものを歪ませ、時計塔全体が光の奔流に飲み込まれていった。
俺が再び意識を取り戻した時、目の前には信じられない光景が広がっていた。
そこは、ヴァーミリオン王宮の玉座の間。
そして、俺の目の前では二人の人物が剣を交えていた。
一人は、若き日の勇者アレン。
もう一人は、悪役王子を演じていた頃のゼノン。
「……なんだ……これは……?」
俺は、百年前の世界にいた。
編纂者とリアの力の衝突が時空の歪みを生み出し、俺の意識を過去へと飛ばしてしまったのだ。
俺は幽霊のような存在で、誰にも姿は見えないし、声も届かない。
ただ、目の前の光景を観測することしかできない。
俺は見た。
ゼノンが悪役を演じながらも陰でアレンを導き、育てていく姿を。
彼がどれほど孤独で、どれほど苦悩し、それでも世界を守るために心を殺して戦っていたのかを。
そのすべてを、俺は第三者の視点から追体験した。
そして、俺は気づいた。
ゼノンのRTAは、単なるタイムアタックではなかった。
彼の内なる目的は『誰も死なないハッピーエンド』という正規ルートでは到達不可能なエンディングにたどり着くための行動だったのだ。彼は、仲間一人も見捨てないために、あえて世界の理に逆らい、バグ技を使ってでも運命を捻じ曲げようとしていたのだ。
だが、その結果としてマキナやメビウスといった最悪のバグを生み出し、世界を更なる危機に陥れてしまった。
彼の願いはあまりにも純粋で、そして、あまりにも傲慢だった。
「……そうか……ゼノン……あんた……」
俺の頬を涙が伝う。
そして、俺の魂の奥底で、アレンから受け継いだ勇者の魂と、ゼノンから受け継いだ観測者の魂が完全に一つに融合し始めた。
過去を知り、現在を憂い、そして、未来を創る力。
俺は、レクスという一人の人間でありながら、勇者アレンの心と守護者ゼノンの視点を併せ持つ、唯一無二の存在へと生まれ変わろうとしていた。
その時、俺の目の前の時空が再び歪む。
歪みの向こうから二つの影が現れた。
一人は編纂者。
もう一人は、傷つきながらも強い意志の光を瞳に宿したリア。
彼らもまた、時空の奔流に飲まれ、この過去の時代へと飛ばされてきたのだ。
『ほう。ここが物語の分岐点か。面白い。ならば好都合だ。この時代で不要な要素をすべて剪定し完璧な歴史をここから始めよう』
編纂者は、ゼノンの姿で冷たく笑う。
「させない!」
リアが立ちはだかる。
そして、俺、レクスもまた、幽霊のような状態から実体を取り戻し、二人の前に立った。
俺の体からは、白でも黒でもない透明なオーラが立ち上っていた。
「お前たちの好きにはさせない。この世界の物語の結末は俺が決める」
過去の英雄たちが見守る中。
未来から来た、三人のプレイヤーによる世界の歴史の所有権を巡る戦いが今、始まろうとしていた。
それは誰も知らないもう一つの『アストラル・サーガ』。
観測者のいない世界で紡がれる、本当の最終章だった。