第三十四話:ゴーストと調停者
俺の意識は、ゼノンのゴーストに乗っ取られた。手足が自分の意志とは無関係に動き出す。その動きは、驚くほど滑らかで、力強い。まるで、何十年も修練を積んだ達人のようだった。錆びついた剣が、俺の手の中で、まるで生きているかのように唸りを上げる。
『まずは肩慣らしだ。この地下水道に巣食うバグを全て駆除する。君の体を、俺の戦闘データに最適化させるための絶好の機会だからな』
ゼノンの声が、頭の中に響く。彼の思考が、俺の思考に流れ込んでくる。それは、圧倒的な情報量だった。敵の弱点、最適な攻撃ルート、最小限の動きで敵を無力化する手順。まるで、攻略サイトを、脳内に直接インストールされたかのようだった。
「やめろ……!俺の体で勝手なことをするな!」
俺は必死に抵抗する。だが、魂のレベルで深く根を張った彼の支配に抗うことはできない。俺は、自分の体という客席で、ゼノンというプレイヤーが繰り広げる一方的な蹂躙劇を、ただ見せつけられるだけの観客だった。
紫の炎をまとったバグネズミの群れが襲いかかってくる。以前の俺なら一匹倒すのがやっとだった相手。だが、ゼノンに操られた俺は、それを赤子の手をひねるように処理していく。
《円舞剣・改:最適化軌道》
ゼノンは、俺の体を使って、かつての王家の剣技を、RTA用に改良した技を繰り出す。その剣筋は、一本の線となって、複数の敵の弱点を同時に貫く。無駄な動きが一切ない。敵を倒すという結果から逆算されたかのような、あまりにも効率的すぎる剣技。バグネズミたちは、悲鳴を上げる間もなくポリゴンの破片となって消えていく。
俺は恐怖を感じていた。その強さにではない。その強さの裏にある、あまりの「無感情」さにだ。敵を倒しても、何の感慨もない。ただの作業。ただのデータ処理。彼の心には、命を奪っているという感覚もなければ、仲間を守るという使命感もない。ただ、ひたすらにゲームをクリアするためのタスクをこなしているだけだった。
地下水道の最深部。そこには、バグネズミたちの親玉である、巨大な『バグ・ラットキング』が待ち構えていた。その体は、通常の百倍はあり、周囲の空間を歪ませるほどの邪悪なオーラを放っている。
『ほう。このエリアのボスか。ドロップアイテムに期待するとしよう』
ゼノンは、全く臆することなくラットキングに突っ込んでいく。ラットキングは巨大な口からバグの塊である、紫色のブレスを吐き出した。それに触れれば、俺の存在データは一瞬で消去されるだろう。
俺は、思わず目をつぶった。だが、ゼノンは冷静だった。彼は、ブレスが放たれる0.1秒前に跳躍。そして、地下水道の天井に張り巡らされたパイプを蹴り、ラットキングの死角である背後へと回り込んだ。すべてが計算され尽くした動き。
『このゲームのボスには、特定の行動を誘発させる『安全地帯』が存在する。この位置にいれば、敵の攻撃は絶対に当たらない』
ゼノンの言う通り、ラットキングは俺の姿を見失い、その場で、無意味な威嚇行動を繰り返すだけになった。いわゆるハメ技。ゲームのAIの穴を突いた、卑怯な戦法。
そして、ゼノンは俺の腕を操り、ラットキングの背中にあるたった一つの弱点――バグのエネルギーを供給している小さな水晶の核――に剣を突き立てた。
《クリティカル・ポイント》
ただひたすらに同じ場所を突き続ける。派手な必殺技ではない。だが、最も効率的に敵のヒットポイントを削るための、最適な行動。
巨大なラットキングは、抵抗もできず、ただ一方的に攻撃を受け続け、やがて断末魔の叫びと共にその巨体を霧散させた。後には、いくつかのレア素材らしきアイテムだけが残されていた。
『ふむ。まあまあのドロップだな。これで新しい装備が作れる』
ゼノンは、満足げに呟くと俺の体を操り、アイテムを回収し始めた。
俺は、もう抵抗する気力も失っていた。この男には勝てない。彼の前では俺の意志など何の意味も持たないのだと悟ってしまったからだ。俺は、これからずっと、このゴーストの操り人形として生きていくのだろうか。
その時だった。
俺たちの前に、一人の少女が立ちはだかった。
歳は、俺と同じくらい。軽装の革鎧に身を包み、腰には一対の短剣を差している。その少女の瞳は、鋭く俺――いや俺を操るゼノンをまっすぐに見据えていた。
「あなた……一体何者なの?」
少女は問いかける。彼女は、俺たちの戦いをずっと見ていたらしい。
『……ほう。NPCか?いや違うな。この反応パターンはプレイヤーに近い。君は何者だ?』
ゼノンが俺の口を使って問い返す。
少女は名乗った。
「私はリア。この世界の『歪み』を正すために旅をしている『調停者』よ」
調停者。聞いたことのない言葉だった。
リアと名乗る少女は続けた。
「この世界は、今病んでいるわ。百年前の『大いなる戦い』の後遺症。そして、最近になって再び活発化した謎の『バグ』。私は、その原因を探り、世界をあるべき姿に戻すために活動しているの」
彼女は、俺の目をじっと見つめる。
「そしてあなたのその戦い方。あまりにも異質だわ。あなたは、バグを倒している。でも、そのやり方は世界の理をさらに歪めているように感じる。あなたは一体……善なの?それとも悪?」
『善でも悪でもない。俺は、ただこのゲームのバグを修正し、完璧なエンディングへと導くプレイヤーだ』
ゼノンのその答えに、リアは眉をひそめた。
「ゲーム……?あなたはこの世界をゲームだと思っているの?ふざけないで!ここには人々が生きていて、喜び、悲しんでいるのよ!」
『非合理だな。その感情こそがバグの温床となる。俺の作る完璧な世界では、人々は、そんな無駄な感情に悩まされることはない』
二人の会話は全く噛み合わない。論理と感情。RTAプレイヤーとこの世界の住人。それは、決して交わることのない平行線だった。
「問答無用!あなたのその危険な思想、見過ごすわけにはいかない!」
リアは、二本の短剣を抜き、疾風の如く俺に襲いかかってきた。彼女の動きは洗練されていた。ただの冒険者ではない。高度な戦闘訓練を受けた、プロフェッショナルだ。
『なるほど。面白い。君もまた、このゲームのユニークキャラのようだ。君の戦闘データを解析させてもらおう』
ゼノンは、再び俺の体を操り、リアの攻撃を捌き始める。二人の剣が、激しく火花を散らす。リアの攻撃は、鋭く速い。だがゼノンの動きは、その全てを先読みしていた。
《未来予測》
ゼノンは、リアの筋肉の僅かな動き、呼吸のリズム、視線の先から、次の行動をコンマ秒単位で予測し、完璧なカウンターを合わせていく。リアは、次第に追い詰められていった。
「くっ……!なぜ私の動きが読めるの!?」
『君の動きは、すべて確率論で説明できる。君が右に避ける確率、左に避ける確率。そのすべてを計算し、最も可能性の高い未来を選択しているだけだ』
それは、もはや戦闘ではない。チェスや将棋のように、相手の思考を完全に読み切った上での一方的なゲームだった。
リアは、ついに体勢を崩し、がら空きの胴体を晒してしまう。
ゼノンは、俺の腕を操り、その心臓を貫こうと剣を突き出した。
――やめろ!
その時、俺の心の奥底からの叫びが奇跡を起こした。ほんの一瞬だけ、ゼノンの支配に抵抗し、俺は自分の体の主導権を取り戻したのだ。俺は、突き出した剣の軌道を無理やり逸らし、リアの肩を掠めるだけに留めた。
「ぐっ……!」
リアは、肩を押さえながらも驚いた目で俺を見た。
『……ほう。まだ抵抗する意志が残っていたか、この人形。面白い』
ゼノンは、感心したように呟く。そして、彼は俺の意識に直接語りかけてきた。
『いいだろうレクス。君のその無駄な抵抗に敬意を表して、彼女は見逃してやろう。だが、次はない。次に君が俺に逆らえば、君の目の前で、君の大事なものを一つずつ壊していく。それが嫌なら大人しく俺の駒でいることだ』
ゼノンは、俺の体を操り、リアに背を向けた。そして、地下水道の闇へと消えていく。
一人残されたリアは、傷ついた肩を押さえながら俺が消えた方向を睨みつけていた。
「……レクス……。彼の本当の名前……。そして彼の中には別の誰かが……」
彼女は、ただの調停者ではなかった。彼女には、人の魂の輝きやその色を見分ける特殊な能力が備わっていたのだ。彼女は、俺の中に二つの魂――苦悩する若い魂と冷たく巨大なゴーストの魂――が存在することを見抜いていた。
「……必ず助け出す。あなたを。そして、あなたを操るあの悪霊を私が調伏してみせる」
リアはそう誓うと、自らの傷の手当てを始めた。
こうして俺の物語に、新たなプレイヤーが加わった。
俺を救おうとする調停者リア。
俺を操り、世界を作り変えようとするゴーストゼノン。
そして、その間で揺れ動く操り人形の俺、レクス。
三つの魂が織りなす不協和音。それは、このバグった世界の運命を、さらに混沌としたものへと導いていく。
そして、俺はまだ知らなかった。
このリアという少女の正体こそが、かつてゼノンが犯したRTAの罪と深く関わっているということを。彼女との出会いは偶然ではなく、この世界のシステムが仕組んだ必然だったのかもしれないということを。
物語は新たなチャプターへと進む。それは、RTAプレイヤーの計算さえも超える、予測不能な展開の始まりだった。