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第三十三話:観測者のいない世界とエピローグ・ゼロ

俺――ゼノン・フォン・ヴァーミリオンという存在が、自らの意志でこの世界から消滅して、百年。


世界は、大きな過ちを犯すこともなく、しかし、劇的な発展を遂げることもなく、ただ、人間らしい、緩やかな速度でその歴史を紡いでいた。

管理者も、混沌の化身も、そして、世界をゲームのように弄ぶプレイヤーも、もういない。

人々は、神々の支配からも、運命の強制力からも解放され、本当の意味で、自分たちの未来をその手に委ねられていた。


賢王レオナルドの治世の下、ヴァーミリオン王国は世界連合の中心として、平和の礎を築いた。

宰相となったイゾルデは、その類稀なる知性で、魔術と科学を融合させ、人々の暮らしを豊かにする数々の革新的な技術を生み出した。

老騎士デュークは、その生涯を後進の育成に捧げ、彼が育てた騎士たちは、世界中の平和維持のために活躍した。

この世界はあくまでも"ゲーム"の世界だ。故に、なにかしら死ぬ運命を辿らなければ不老である。


そして、勇者アレン。

彼は、ゼノンの最後の願いの通り、仲間たちと共に、世界中を旅し、多くの人々を救い、多くの伝説を打ち立てた。

その英雄譚は、吟遊詩人によって歌われ、誰もが知るおとぎ話となった。

だが、その物語の中で、ゼノンという悪役王子の名は、決して語られることはなかった。彼は、歴史の闇の中に、完全に葬られたのだ。

アレンやレオナルドたちがそう望んだからだ。彼の、孤独な戦いと、その悲しい結末を知る者たちだけが時折、空の星々を見上げては、誰にも知られることのない、真の救世主に思いを馳せるだけだった。


すべては丸く収まった。

誰もが、そう信じていた。

俺自身も、消滅するその瞬間まで、そう信じていた。


だが、物語は終わっていなかった。

いや、終わらせてもらえなかったのだ。


百年後の現代。

ヴァーミリオン王都の片隅にある、一軒の安宿。

そのベッドの上で、一人の青年が飛び起きた。


「……はっ……!?」


青年の名は、レクス。

歳は十八。平凡な村の出身で、冒険者になることを夢見て、王都に出てきたばかりの、ごく普通の若者だ。

彼は、毎晩のように、同じ夢を見ていた。

自分が自分ではない、誰かになって剣を振るい、魔法を使い、仲間たちと共に神々と戦う、という壮大で、しかし、断片的な夢。


「……また、この夢か……」


レクスは、汗ばんだ額を拭った。

夢の中の自分は英雄だった。だが、現実の自分は、何の力もないただの村人だ。そのギャップが、彼を少しだけ憂鬱にさせた。


その日、レクスは冒険者ギルドで、初めてのクエストを受けることにした。

それは、王都の地下に広がる、古代の下水道に住み着いた巨大なネズミの討伐という、新人向けの簡単な仕事だった。


「まあ、最初は、こんなものか」


レクスは、錆びついた剣を手に、意気揚々と地下下水道へと向かった。

だが、そこで彼が遭遇したのは、ただの巨大ネズミではなかった。


そのネズミは、全身が紫色の炎に包まれ、その目からは、知性的な光が放たれていた。そして、その動きは、明らかに物理法則を無視していた。時折、その姿が、ノイズのように乱れ、壁をすり抜けるのだ。


「な……なんだ、こいつは……!?」


レクスは、明らかに格上の敵を前に、腰が引けていた。

ネズミは、彼を嘲笑うかのように、高速で飛びかかってきた。

絶体絶命。


その瞬間。

レクスの頭の中に、直接声が響いた。


『――落ち着け。相手の動きをよく見ろ。奴の攻撃パターンは三つしかない。右からの飛びかかり、左からの噛みつき、そして尻尾での薙ぎ払い。その三つの攻撃の後には、必ず0.5秒の硬直時間が存在する。そこを狙え』


「……え……?」


その声は、なぜか、酷く懐かしい気がした。

そして、その声の指示通りに相手を観察すると、確かに、ネズミの動きには、明確なパターンがあった。


レクスは、無我夢中で、その声の指示通りに体を動かした。

ネズミの攻撃を最小限の動きでかわし、その0.5秒の硬直の隙に、持っていた剣を突き刺す。


ギャン、と悲鳴を上げ、炎のネズミはポリゴンのような破片となって消滅した。

後に残されたのは、呆然と立ち尽くすレクスだけだった。


「……今のは……一体……?」


彼がその場にへたり込んでいると、再び、あの声が頭に響いた。


『……どうやら、成功したようだな。魂の再定着、第一段階完了』


「だ、誰なんだ、あんたは! 俺の、頭の中に……!」

『俺か? 俺はかつて、この世界の観測者(プレイヤー)だった男だ。この世界を、俺の好きだったゲームに戻すために……』


声の主は、そう名乗った。

そして、彼は信じられない事実をレクスに告げ始めた。


声の主――ゼノンの魂は、百年前の自己抹消によって完全には消滅していなかった。

彼の魂の大部分は、世界のバグを修復するために霧散した。だが、その最後の欠片――RTAプレイヤーとしての、最も根源的な思考ルーティーンだけが、世界のネットワークの中に、ゴーストのように残り続けていたのだ。


そして、そのゴーストは、百年の時をかけて観測し続けていた。

人類が、自分たちだけで歩む未来を。


その結果、ゴーストが至った結論。

それは、「人類だけに任せるには、まだ早すぎる」という、絶望的なものだった。


人類は、確かに平和を築いた。

だが、その平和はあまりにも脆く、危ういバランスの上に成り立っていた。そして、今ある世界は平和なだけである。何の刺激もない、つまらない世界なのだ。「ゲーム」において、つまらないとは、存在価値がないことと同義である。

さらに、管理者という、絶対的な恐怖がなくなったことで、人々は再び、些細なことで争い、国々は、水面下で互いの利益を奪い合うようになった。

そして、世界各地には、いまだにマキナや俺が残したバグの残骸が、小さな時限爆弾のように点在していた。

いつそれらが、再び世界を崩壊させるか分からない。こんなもの、「現実世界」と何ら変わりない。


『このままでは、いずれ第二のマキナが生まれるか、あるいは、人類自身が自滅するかのどちらかだ。世界には、やはり、「導き手」が必要なのだ。正しい道筋を示し、管理する絶対的な存在が』


「……それが、あんたの役目だとでも言うのか?」

『そうだ。だが、今の俺には肉体がない。力もない。ただのゴーストだ。だから、君を選んだ。レクス君』


ゼノンのゴーストは、告げた。

レクスの正体。

彼は、ただの村人ではない。

彼は、百年の時を経て輪廻転生した、勇者アレンの魂を受け継ぐ者だったのだ。

彼が、毎晩見ていた夢は、その前世の記憶の断片だった。


『君には素質がある。君を俺が鍛え上げ、導き、第二の勇者へと育て上げる。そして、君と俺が、二人で一つとなり、この不完全な世界をもう一度、「正しく」作り直すのだ』


それは、かつてアルフレッドが夢見た、理想郷の再来。

だが、今度の神は、より狡猾で、より用意周到だ。


「……断る!」

レクスは叫んだ。

「俺は、誰かの操り人形になるために生まれてきたんじゃない! 俺は、俺の意志で冒険者になるんだ!」


『……愚かな。君に選択権などない。君の魂には、すでに俺の魂の欠片が、深く根を張っている。君は、もう俺から逃れることはできない』


ゼノンのゴーストはそう言うと、レクスの意識を乗っ取り、彼の体を無理やり動かし始めた。


「う……ああ……! 体が、勝手に……!」


レクスの体は、彼の意志とは無関係に、まるで熟練の剣士のような滑らかな動きで、剣を振るい始める。

それは、かつてゼノンが使っていた、王家の剣技だった。


『さあ、始めようかレクス君。君を、最強の英雄へと育てるための、最初のチュートリアルを。心配するな。俺という最高のプレイヤーがついている。君の人生というゲームは、必ず最高のエンディングを迎えさせてやるから』


ゼノンの冷たい声が響く。

RTAプレイヤーは死んではいなかった。

彼は、ゴーストとなって、百年の時を経て、再び、この世界に降臨したのだ。

そして、今度は勇者の体を乗っ取り、自らが神となってこの世界を、完璧なゲームへと作り変えようとしていた。「アストラル・サーガ」の真なる復活を目指して……


かつて、世界を救った守護者としての魂は、今や、世界を支配しようとする、最後の、そして最悪のラスボスへと変貌してしまった。


時計塔の観測者はもういない。

そこにいるのは、空っぽの玉座に座ることを決めた、最後のプレイヤー。


レクスの、そして、この世界の本当の物語は、これから始まる絶望的な戦いの中で紡がれていく。

それは、神になろうとした、かつての英雄の亡霊との、悲しい戦いの物語。


そして、その物語の結末を、もはや誰も知る者はいなかった。

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