第三話:白き聖女と黒き王子のコンチェルト
「正気か、兄上! アルテミア聖王国へ、聖女を奪うためだと!? それは外交ではない、宣戦布告だ!」
俺が「聖女狩り」を宣言した翌日、出発の準備を進める俺の元へ、弟のレオナルドが血相を変えて乗り込んできた。その手には愛剣の柄が握りしめられ、今にも抜き放ちそうな剣幕だ。周囲の侍従たちが怯えて下がる中、俺は旅支度の手を止めず、鏡に映る彼に冷笑を向けた。
「これはこれは、レオナルド。余の行動にいちいち口を挟むとは、よほど暇と見える。それとも、王国の未来を憂うあまり、暴走する兄を斬る覚悟でも決めたか?」
「ッ……! ふざけるな! 今回のエルドラドの一件で、諸外国は我らヴァーミリオンに極度の不信感を抱いている! そこへ火に油を注ぐような真似をすれば、王国は孤立する! 父上も、今回の兄上の独断には深く憂慮されているのだぞ!」
「父上が憂慮しているのは、余の行動ではない。お前のその青臭い理想論が、いずれ国を滅ぼすことだ」
俺は振り返り、レオナルドの目を真っ直ぐに見据えた。彼の瞳には、純粋な愛国心と、俺への強い敵愾心が燃え盛っている。それでいい。お前は光の道を歩め。汚れ仕事は、すべて俺が引き受ける。
「いいか、レオナルド。力無き正義は無力だ。そして、制御できぬ力はただの暴力だ。アルテミアの『聖女』とやらが持つ力は、後者である可能性が高い。野放しにしておけば、いずれ必ず我が国の脅威となる。ならば、牙を剥く前にその喉元に刃を突きつけてやるのが、王族の務めだろう?」
「それが、聖女を攫うという野蛮な結論に繋がるのか!?」
「交渉のテーブルに着かせるための、最適な一手だ。それに……」
俺は彼の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「美しいものは、手元に置いて愛でたくなる。ただそれだけの、余の我儘だよ」
ぞっとしたように後ずさるレオナルド。その顔には、理解不能な怪物を見るような色が浮かんでいた。完璧だ。これでお節介な弟が、俺の「外交」にしゃしゃり出てくることはないだろう。
「好きにするがいい。だが、兄上のその歪んだ我儘が、ヴァーミリオンを滅ぼす引き金になった時、俺は貴様を――」
「その時は、お前が余の首を刎ねろ。それくらいの甲斐性は見せてみろ、弟よ」
俺は彼の言葉を遮り、部屋を後にした。残されたレオナルドの、悔しさに満ちた呼吸が背中に心地よかった。
アルテミア聖王国への道のりは、馬車で十日ほど。表向きは少数精鋭の外交団を引き連れているが、その周囲には数十名の「影蜘蛛」たちが、その名の通り影に潜んで随行している。
馬車の中で、俺は影蜘蛛の長からもたらされた、聖女セレスティーヌに関する詳細な報告書に目を通していた。
「……なるほど。奇跡の目撃者は数千人規模。そのすべてが、彼女を『本物の聖女』だと信じ切っている、か」
報告書には、彼女が起こしたとされる「奇跡」の数々が列挙されていた。
・数十年間枯れていた大河の水を蘇らせる。
・不治の病であった『黒死病』の患者を、触れるだけで完治させる。
・パンの一切れを、千人が食べても無くならないように祝福する。
どれもこれも、魔力の常識から逸脱した現象ばかりだ。魔力とは、世界の理に働きかけ、現象を「操作」する技術だ。無から有を生み出したり、定められた寿命を覆したりすることは、理論上不可能に近い。だが、彼女はそれをいとも容易く行っている。
「主よ。一つ、奇妙な共通点が」
御者台に潜んでいた影蜘蛛の一人が、声を潜めて報告を続ける。
「彼女が奇跡を起こす際、必ず夥しい数の民衆が、祈りを捧げているとのこと。まるで、その祈りが……」
「奇跡の『触媒』、あるいは『燃料』になっている、か」
俺の推測に、影蜘蛛は無言で肯定を示した。やはり、ジンとは違うタイプの転生者だ。ジンのように、現代知識を元に物理的なチートアイテムを生み出すのではなく、この世界の住人の「信仰心」や「想念」をエネルギーに変換する、極めて厄介な能力。
もしそうなら、彼女を断罪するのは困難を極める。彼女を攻撃することは、彼女を信じる数万、数十万の民衆を敵に回すことと同義だからだ。
「面白い。実に面白い。どうやら、退屈せずに済みそうだ」
俺の口から漏れたのは、本心からの愉悦だった。悪役として、これほどやりがいのある敵はいない。
十日後、俺たちは聖都アルテミシアに到着した。
乳白色の美しい城壁に囲まれた街は、噂に違わぬ活気に満ちていた。だが、その活気はどこか異様だった。すれ違う人々は皆、恍惚とした表情で聖女の名を口にし、中央にそびえる大聖堂に向かって祈りを捧げている。まるで街全体が、一つの巨大なカルト教団のようだ。
「ヴァーミリオン王国、ゼノン第一王子殿下のご到着ー!」
俺の来訪が告げられると、民衆の間にさっと緊張が走った。俺の「悪名」と「聖女強奪宣言」は、すでにこの街にも届いているらしい。憎悪、恐怖、そして侮蔑の視線が突き刺さる。最高の舞台じゃないか。
大聖堂の謁見の間で待っていたのは、白金の髪を腰まで伸ばし、純白のローブをまとった、儚げな印象の少女だった。歳は十六、七か。透き通るような碧眼は慈愛に満ち、その佇まいだけで、周囲の人間の心を穏やかにさせる不思議な力があった。彼女こそが、聖女セレスティーヌ。
その隣には、見るからに老獪そうな教皇が、胡散臭い笑みを浮かべて控えている。
「ようこそお越しくださいました、ゼノン王子。このような蛮地へ、よくぞ御足を運んでくださいました」
教皇の言葉は丁寧だが、明らかに俺を「野蛮人」と見下している。
「ああ。貴国に咲いたという『奇跡の花』が、どれほど美しいものか、この目で見に来てやった。ついでに、気に入れば根こそぎ摘み取って帰ろうかと思ってな」
俺の挑発に、周囲の神官たちが殺気立つ。だが、聖女セレスティーヌは、穏やかな微笑みを崩さなかった。
「お噂はかねがね。ヴァーミリオンの『黒王子』様。貴方様のような力強い方に興味を持っていただけるなんて、光栄ですわ」
その声は、まるで銀の鈴を転がすように美しかった。だが、俺はその声の裏にある、微かな「ノイズ」を聴き逃さなかった。
俺は謁見の間に足を踏み入れた瞬間から、《支配者の劇場》の応用技である《囁きの糸》を発動させていた。空間に張り巡らせた魔力糸で、この場にいる全員の心拍数、呼吸、体温の変化、魔力の流れ、そして声帯の微細な震えまでをも感知している。
彼女の声は完璧にコントロールされている。だが、俺という存在を認識した瞬間、ほんの一瞬だけ、心拍数が乱れ、声の波長に警戒と分析の色が混じった。間違いない。彼女は「聖女」を演じている。そして、俺がただの傲慢な王子ではないことにも気づき始めている。
「光栄、か。ならば、その奇跡とやらを、今すぐこの場で披露してもらおうか。例えば、この大理石の床から、黄金でも湧き出させてみせろ。できるのだろう? 『聖女』なのだから」
俺は足元の床を靴先で叩き、傲慢に言い放った。無茶苦茶な要求だ。だが、彼女の能力の本質を探るための、重要な一石だった。
セレスティーヌは困ったように微笑み、首を横に振った。
「申し訳ありません、王子様。わたくしの力は、わたくしのためには使えないのです。人々の、心からの『祈り』に応えることしか……」
「言い訳か? つまらんな。やはり噂倒れの偽物か」
「偽物ではございません!」
俺がセレスティーヌを侮辱した瞬間、一人の神官が激昂して叫んだ。その瞬間、俺は見た。神官の熱狂的な「信仰心」が、目に見えない光の粒子となって彼から立ち上り、セレスティーヌの体へと吸い込まれていくのを。
(……やはり、信仰心がエネルギー源か)
そして、そのエネルギーは魔力とは全く異なる、異質なものだった。俺の魔力糸がそのエネルギーに触れると、静電気のようなノイズが走り、うまく干渉できない。これが、彼女の「聖域」か。
その時だった。
「大変です! セレスティーヌ様!」
一人の兵士が、血相を変えて謁見の間に駆け込んできた。
「西の広場で、原因不明の火災が! 炎が消えず、広場が火の海に!」
謁見の間が騒然となる。教皇が「おお、神よ!」とわざとらしく嘆く中、セレスティーヌは静かに立ち上がった。
「参りましょう。苦しんでいる方々がいます」
彼女は俺を一瞥すると、民衆が待つ広場へと向かった。絶好の機会だ。俺も、芝居がかったため息をつきながら、その後に続いた。
西の広場は、地獄のような有り様だった。いくつもの建物が炎に包まれ、人々が逃げ惑っている。だが、奇妙なことに、その炎は赤ではなく、どこか不気味な蒼色をしていた。通常の水では全く消火できず、むしろ勢いを増している。
「蒼い炎……呪いの炎か?」
誰かが呟く。民衆の間に絶望と恐怖が広がっていく。
そこへ、聖女セレスティーヌが歩み出た。彼女が広場の中央に立つと、あれほど騒がしかった群衆が水を打ったように静まりかえり、祈りを捧げ始めた。
「おお、聖女様!」「我らをお救いください!」
数千の祈りが、渦を巻いてセレスティーヌに集束していく。彼女の全身から、後光のような淡い光が放たれた。それは、神々しく、そしてどこか歪んでいた。
俺は人々から少し離れた場所で、腕を組みながらこの茶番を観察していた。そして、同時に《支配者の劇場》の精度を最大にまで引き上げていた。俺が探っていたのは、この火災の「火元」だ。
《虚偽の舞台》。光と音を操り、俺の姿を周囲から認識できなくさせながら、俺は蒼い炎に魔力糸を伸ばした。糸を通じて伝わってくるのは、純粋な熱エネルギーではない。これは、誰かの強い「憎悪」や「絶望」の感情を触媒にして燃え盛る、精神感応型の魔法火災だ。
(自作自演か、あるいは……?)
俺は糸をさらに広範囲に展開し、火元の中心を探る。あった。広場の地下水路。そこに、微弱だが明確な魔力の残滓が存在する。そして、その魔力の「癖」には覚えがあった。
(……ジンか!? いや、違う。あいつは俺が始末した。だが、この魔力の質は、あいつが使っていた現代知識チートのゴーレムの動力源に酷似している……!)
別のイレギュラーか? それとも、ジンの仲間か?
俺が思考を巡らせている間に、セレスティーヌの「奇跡」がクライマックスを迎えようとしていた。
「聖なる御名において命じます。癒やしの雨よ、この地を清めたまえ!」
彼女が天に手をかざすと、蒼い炎が燃え盛る広場の上にだけ、局地的な雨雲が発生し、銀色に輝く雨が降り注ぎ始めた。その雨に触れると、あれほど勢いよく燃えていた蒼い炎が、まるで嘘のように掻き消えていく。
民衆から、割れんばかりの歓声と祈りの声が上がる。
「おお、聖女様!」「聖女様万歳!」
熱狂は頂点に達し、莫大な信仰エネルギーが再びセレスティーヌへと注がれていく。彼女は疲れたように少しよろめき、それを神官たちが支えるという完璧な演出まで見せた。
だが、俺は見逃さなかった。
彼女が奇跡を起こした後、その瞳の奥に、一瞬だけ宿った冷たい光と、俺に向けられた挑戦的な視線を。そして、地下水路にあった魔力の残滓が、奇跡の雨によって完全に浄化され、証拠が隠滅されたことを。
(……黒だな。この火災は、お前が仕組んだマッチポンプだ、聖女様)
おそらく、俺という「観客」がいるこのタイミングで、自らの力を誇示し、民衆の信仰をさらに確固たるものにするための、壮大な自作自演。地下水路の魔術師は、彼女の協力者だろう。
俺はわざとらしく拍手をしながら、彼女の元へ歩み寄った。
「見事な手品だ、聖女様。大いに楽しませてもらった」
「……手品ではございません。王子様。これは、人々の祈りが起こした、本物の奇跡です」
セレスティーヌは、あくまで聖女の仮面を崩さない。
「そうか。ならば、その『奇跡』とやらが、いつまで続くか見物させてもらおう」
俺たちが火花を散らすような視線を交わした、まさにその時。
俺の懐に隠していた影蜘蛛からの緊急連絡用の魔道具が、微かに熱を持った。最高レベルの緊急事態を知らせる合図だ。
俺は周囲に気づかれぬよう、魔道具に意識を集中する。脳内に直接、影蜘蛛からの焦った声が響いた。
『――主! 緊急事態です! 北のリース村が……! 勇者の原石が光り輝くと同時に、大規模な魔物の群れに襲撃された、との報! 村は、壊滅状態との……!』
――なんだと?
俺の表情から、一瞬だけ、すべての感情が抜け落ちた。
やられた。俺が聖王国でイレギュラーの相手をしている隙を突いて、「物語の強制力」が、本筋を強引に進めに来たのだ。原作通り、アレンの故郷は滅び、彼は旅立たざるを得なくなる。
だが、タイミングが早すぎる! ガレスもまだ再起できていない! このままでは、アレンは誰の助けも得られず、孤独なまま旅の途中で死ぬ可能性がある!
(くそっ……! これが、世界からの「警告」か……!)
俺というバグが、原作にない「聖女狩り」などという行動を起こしたせいで、世界の修正力が暴走を始めたのだ。
俺は目の前の偽りの聖女と、遥か北で始まった本当の悲劇との間で、奥歯を強く噛みしめた。
俺の計画が、早くも崩壊の危機に瀕している。
悪役の仮面の下で、焦燥と絶望が、黒い炎のように燃え広がっていた。