第二十七話:平和という名の後日談と新たなノイズ
プライマスとの最終決戦から十年。
世界は見違えるほどの平和と活気を取り戻していた。管理者という、絶対的な「神」の支配から解放された人類は、時に過ちを犯し、時に争いながらも、自分たちの手で未来を切り開くという、本当の「自由」を謳歌していた。
各国は、かつての対管理者連合の枠組みを元に、「世界連合」を設立。ヴァーミリオン王国の賢王レオナルドⅠ世と、その宰相であるイゾルデ・フォン・アークライトが、その中心的な役割を担っていた。
勇者アレンは、その称号を返上し、ガレスたち、気心の知れた仲間と共に、一人の冒険者として、世界中を旅していた。彼の名はもはや伝説となっていたが、彼自身は、そんなことには頓着せず、困っている人を助け、未知の遺跡を探検し、自由気ままな日々を送っていた。
そして、俺、ゼノンは――。
王宮の時計塔の主として、歴史の表舞台から完全に姿を消していた。
プライマスとの戦いの代償で、神の力は失われた。だが、そのおかげで、俺はようやく一人の人間としての、穏やかな時間を手に入れることができたのだ。
俺は日々、書物を読み、星を眺め、そして時折、城を訪ねてくるレオナルドや、アレンと言葉を交わす。それだけの静かな毎日。
それは、かつてのRTAプレイヤーだった俺が最も「非効率」で「無駄」だと切り捨ててきた時間。
だが、今の俺には、その何でもない一日一日が、何よりも愛おしく感じられた。
(……これで、よかったんだ)
俺は、窓の外に広がる平和な王都の景色を眺めながら、心の底からそう思っていた。
俺の、長くて孤独だった物語は、最高のハッピーエンドを迎えた。
そう、信じていた……
その平和な幻想が、打ち破られる、その日までは。
異変は、本当に些細なことから始まった。
最初は、世界各地で報告されるようになった、奇妙な「バグ」の噂だった。
例えば、ある村では、収穫したリンゴがすべて鉄の塊に変わってしまったり。
ある街では、人々が突然、自分たちが話している言葉の意味を忘れ、一日中、意味不明な単語を叫び続けたり。
空に、巨大なモザイクがかかったり、地面が突然、チェッカー盤模様になったり、といった物理法則の異常も多発した。
人々は、それを「神々が去った、後遺症」や「平和ボケの、集団幻覚」だと噂し、深刻に受け止めてはいなかった。
だが、俺だけは、その報告を聞くたびに、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
(……この、バグのパターンは……)
それは、俺がプレイヤーだった頃に利用したり、あるいは、意図せず発生させたりした、ゲームのバグの内容と酷似していたのだ。
アイテムのデータ化け。
NPCの、思考ルーティーンのフリーズ。
テクスチャの表示エラー。
まるで、俺がかつて、この世界に刻み付けた「傷跡」が、十年という時を経て、今、再び膿み始めたかのようだった。
俺は、不安を打ち消すように、自らの魂を内観した。
だが、そこに、もはやRTAプレイヤーとしての人格は存在しない。プライマスとの戦いで、完全に消え去ったはずだ。
では、このバグは、一体何なのか。
俺の不安が確信に変わったのは、アレンが血相を変えて、俺の時計塔に飛び込んできたその日だった。
「ゼノン! 大変だ! ガレスが……! ガレスさんが……!」
アレンの報告は衝撃的だった。
ガレスは、ある遺跡の調査中に、一体の奇妙なゴーレムに遭遇した。そのゴーレムを破壊した瞬間、ガレスの体が突然、光の粒子となって消滅し始めた、というのだ。
俺は、アレンと共に、急いで現場へと向かった。
そこには、体の半分が透き通り、消えかけているガレスと、彼に付き添う仲間たちがいた。
「……ゼノン……様……。それに、アレン……。悪いな、みんな……。どうやら、俺はここまで、みてえだ……」
ガレスは、弱々しく笑う。
俺は、彼の体に触れ、その原因を探った。
そして、俺は戦慄した。
彼の魂が「削除」されかけている。
それは、管理者たちの高次元の攻撃ではない。もっと、質の悪いコンピュータウイルスのような何かが、彼の存在データそのものを破壊しているのだ。
そして、そのウイルスのプログラムコードには見覚えがあった。
それは、俺がRTAをする際に利用していた、特定の敵を、ゲーム上から完全に消去するための、デリート系のバグ技のコードだった。
「……どういうことだ……。なぜ、今頃こんなものが……」
俺が愕然としていると、ガレスを攻撃したという、ゴーレムの残骸が目に入った。
その残骸の中心には、一つの、小さな黒い「核」が、不気味に脈動していた。
その核から、俺は感じ取った。
懐かしく、そして、最も忌み嫌うべき、あの気配を。
混沌の化身、マキナの気配を。
「……あいつ……! 生きていたのか……!」
セレスティーヌの光の力で、完全に封印されたはずのマキナ。
だが、彼は消えてはいなかった。
彼は、自らの魂を、無数の微小なデータの欠片――俺が、「混沌のウイルス」と呼ぶべきものへと変え、この世界のネットワークの中に潜伏していたのだ。
そして、十年という時間をかけて、彼はゆっくりと、しかし確実にこの世界を、内側から蝕み始めていた。
世界各地で起きていたバグは、すべて、彼の仕業だったのだ。
彼の目的。それは、もはや世界の破壊ではない。
もっと陰湿で、悪質な「ゲーム」だった。
彼は、この世界をバグだらけのクソゲーへと変貌させ、その中で、人々が苦しみ、絶望し、理不尽に死んでいく様を永遠に観測し、楽しむこと。
それこそが、彼の新しい混沌のエンターテイメントだったのだ。
ガレスを襲ったのも、その一環だ。
彼は、俺がかつて利用したバグ技を再現し、俺の大事な仲間を、一人、また一人と消去していくことで、俺に、最大の絶望を与えようとしていたのだ。
「……くそっ……! くそおおおおっ!」
俺は、地面を殴りつけた。
これは、俺の罪だ。俺が、RTAでこの世界を弄ませた。その代償が、今、最悪の形で返ってきたのだ。
「ゼノン……。何か、方法はないのか……? ガレスさんを助ける方法を……!」
アレンが、懇願するように俺に問いかける。
俺は、静かに首を振った。
「……今の俺には力がない。彼の魂を破壊している、混沌のウイルスを駆除する力が……」
その時だった。
「……いいや、あるぜ。方法が一つだけな」
弱々しい声でそう言ったのは、消えかけているガレス自身だった。
彼は、アレンの手を握り、そして、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「ゼノン様。あんたが誰なのか、本当は何を背負ってきたのか、俺には分からねえ。だが、あんたがこの世界を命懸けで守ろうとしてきたことだけは分かる。そして、アレン。お前は、この世界の希望だ」
ガレスは、笑った。
「だから使え。俺の、この消えかけの魂を。俺のすべての記憶、経験、仲間への想い。そのすべてをお前たちの力に変えろ。それが、俺の最後の願いだ」
彼は、自らの魂を「経験値」として、俺たちに捧げる、と言ったのだ。
「そんなこと、できるか!」
アレンが叫ぶ。
だが、俺は、そのガレスの覚悟受け止めた。
そうだ、それしか方法はない。
マキナの混沌のウイルスに対抗するには、こちらも、世界の理を超えた力を使うしかない。
それは、アルフレッドがやろうとしていた魂のデータ化と似ている。
だが、根本的に違う。
これは、奪うのではない。託されるのだ。
仲間からの熱い想いを受け継ぎ、それを力へと変える、最後の秘儀。
俺は、アレンに告げた。
「アレン。お前の聖なる力と、俺の、残された観測者としての力を合わせる。そして、ガレスの魂を、破壊される前に、俺たちの魂に、『バックアップ』するんだ」
《魂の継承》
俺たちは、ガレスの体を挟むように向かい合った。
そして、彼の手を握り、すべての精神を集中させる。
ガレスの魂が、黄金の光の粒子となって、俺とアレンの体へと流れ込んでくる。
彼の、熱い生涯のすべてが、俺たちの記憶に刻み込まれていく。
「……ああ……。みんな……。また、後で……酒でも酌み交わそうぜ……」
ガレスは、満足そうな笑みを浮かべ、そして、完全にその姿を消した。
後に残されたのは、彼が愛用していた巨大な剣だけだった。
アレンは泣いていた。
だが、その瞳には、悲しみと同時に、新たな決意の炎が燃え盛っていた。
ガレスの魂を受け継いだことで、彼の聖なる力は、さらに強く、そして、温かいものへと進化していた。
俺もまた、彼の魂の一部を受け継いだ。
消えかけていた俺の魂の灯火が、再び、僅かに力を取り戻す。
俺たちは、顔を見合わせた。
そして、同時に理解した。
マキナとの、本当の戦いが、今始まったのだと。
それは、もはや世界を救うための戦いではない。
失われた仲間たちの想いを取り戻すための、俺たちの、個人的な「復讐」の戦いだ。
「マキナ……!」
俺とアレンの声が、一つに重なった。
「世界のどこに隠れていようと、必ずお前を見つけ出す。そして、この手でお前のくだらないゲームを、完全に終わらせてやる!」
平和な後日談は終わった。
世界は再び、混沌の脅威に晒される。
だが、俺たちはもう一人じゃない。
受け継いだ仲間の魂と、共に。
俺とアレンの、本当の意味での共闘が、今、静かに始まった。