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第二十話:混沌の誘惑と魂の天秤

マキナが投げ出した、黒い宝玉『混沌の心臓』。それは、甘美な毒のように、その場にいる全員の心を蝕んでいった。宝玉から放たれる、邪悪で、しかし抗いがたい誘惑のオーラは、彼らが心の奥底に封じ込めていた、最も純粋で、最も切実な「願い」を増幅させ、理性を麻痺させていく。


「仲間たちを……死んだ、あいつらを、もう一度……」

ガレスの瞳から、理性の光が消え、宝玉へと、無意識に、一歩、足を踏み出す。


「里を……お頭や、みんながいた、あの里を……」

くノ一のカエデもまた、その瞳に涙を浮かべ、ふらふらと、宝玉に引き寄せられていく。


「最強……この世の、誰よりも、強い力を……」

寡黙な剣士ゲンジの、その無表情な顔にも、初めて、明確な「欲望」の色が浮かび上がっていた。


「復讐……我が一族を滅ぼした、ヴァーミリオンに……いや、この理不尽な世界、そのものに……!」

イゾルデの体からも、制御を失った重力魔術のオーラが、黒い渦となって立ち上る。彼女は、俺からの密命すら忘れ、自らの最も根源的な動機である、復讐心に、魂を支配されかけていた。


そして、アレン。

彼の心には、燃え盛る故郷の村、助けを求める妹の最後の顔が、鮮明に蘇っていた。

(……元通りに……できるのか……? あの日に、戻れるのか……?)

彼の瞳もまた、宝玉の黒い輝きに、囚われていた。


「ククク……そうだ、それでいい。欲望に、素直になれよ。人間なんて、所詮、そんなものだろう?」

マキナは、彼らが、自らの欲望に屈し、互いに宝玉を奪い合い、殺し合うという、醜悪なエンターテイメントが始まるのを、心待ちにしていた。


その、絶望的な均衡を、破ったのは、意外な人物だった。


「――目を覚ませ! みんな!」


アレンが、叫んだ。

彼は、自らの腕に、その手に持った剣を、深々と突き刺した。激痛が、彼の理性を、辛うじて、呼び覚ます。


「こんなものに、頼って、叶えた願いに、何の意味があるんだ! 死んだ人たちは、そんなことを望んでいない! 俺たちが、前を向いて、生きることこそが、本当の、供養になるはずだ!」


アレンの、魂からの叫び。

その言葉は、聖なる光となって、仲間たちの心に、突き刺さった。


「……っ! 俺は、何を……」

ガレスが、我に返り、その場に膝をつく。

「……里のみんなに、顔向けできないところだった……」

カエデも、涙を拭い、自らの未熟さを恥じた。

ゲンジとイゾルデもまた、アレンの言葉に、ハッと、心を打ち抜かれたように、動きを止めた。


マキナは、その展開に、心底、つまらなそうな顔をした。

「……ちっ。なんだよ、その、お決まりの、安っぽい友情ドラマは。せっかくの、面白い舞台が、台無しじゃないか」


だが、彼の表情は、すぐに、再び、愉快そうなものへと変わった。

「まあ、いい。勇者君がそこまで言うなら、別のゲームを、用意してやろう」


マキナは、指を鳴らした。

すると、彼が転がした『混沌の心臓』が、黒い光を放ち、その中から、一体の、巨大な「怪物」が生み出された。


それは、特定の姿を持たない、黒い泥と無数の骸骨が、融合したような、不定形の怪物だった。そして、その怪物の核となっているのは、アレンたちが、これまでの旅で倒してきた、敵や魔物たちの、無念の魂の集合体だった。


願望の残骸(ドリーム・イーター)


「こいつは、お前たちが、踏み台にしてきた、敗者たちの、怨念の塊だ」

と、マキナは、楽しそうに解説する。

「そして、こいつは、お前たちの『願い』を喰らい、それを、悪夢として、具現化する力を持つ」


願望の残骸が、咆哮を上げる。

その咆哮を浴びた、アレンたちの脳内に、それぞれの、最も恐れている「悪夢」が、幻覚として、流れ込んできた。


ガレスは、死んだ仲間たちから、「なぜ、お前だけが生きている」と、責め立てられる幻覚を。

カエデは、滅びた故郷が、さらに無残に、炎に焼かれる幻覚を。

イゾルデは、復讐を果たしたはずの、ヴァーミリオン王家が、より強大な力で、蘇る幻覚を。


「ああ……!」「やめろ……!」


仲間たちが、次々と、精神攻撃によって、戦闘不能に陥っていく。


「さあ、どうする、勇者君? お前のその、綺麗事だらけの正義の言葉は、こいつにも、通用するのか?」


マキナは、アレンを、嘲笑う。

アレンもまた、妹に、「お兄ちゃんのせいで、死んだんだ」と、責められる幻覚に、苦しめられていた。


だが、彼は屈しなかった。

彼は、自らの心の弱さを認めた上で、それでも、前を向くことを、選択した。


(そうだ……俺が、弱いからだ。俺が、何も守れなかったから、みんな、死んだんだ。でも……だからこそ、もう二度と、誰も失わないために、俺は、強くならなくちゃいけないんだ!)


アレンは、幻覚を、自らの意志の力で、振り払った。

そして、願望の残骸に、一人で、立ち向かっていく。


「お前たちの、苦しみも、悲しみも、俺が、すべて、受け止める! そして、その上で、俺は、お前を、浄化する!」


アレンの全身から、聖なる力と、ヒノモトで学んだ「気」の力が、融合した、新たなオーラが、立ち上った。それは、ただ、敵を滅するだけの力ではない。相手の痛みや、苦しみさえも受け入れ、癒やす、慈愛に満ちた温かい光だった。


《明鏡止水・聖極光》


アレンは、新たな力で、願望の残骸へと、斬りかかった。

彼の剣は、もはや、ただの物理的な斬撃ではない。その一振り一振りが、怪物の核となっている、無数の魂を、憎しみの連鎖から、解放し、浄化していく。


「ああ……ああ……」


怪物の体から浄化された魂が、光の粒子となって、天へと昇っていく。その表情は、皆、穏やかだった。

願望の残骸は、その巨体を徐々に小さくしていく。


「……馬鹿な。俺の、最高の悪夢が……ただの、お説教で、浄化されていく、だと……? つまらん! つまらなすぎるぞ、勇者!」


マキナは、その光景に、心底苛立ったように叫んだ。

そして、彼はついに、自ら、その戦いに介入することにした。


「もういい! お前らのような、出来合いの役者はもういらん! 俺が、自ら、この舞台を最高の混沌で締めくくってやる!」


マキナは、イゾルデの前に瞬間移動した。

そして、彼女が、抵抗する間もなく、その胸に手を突き刺した。


「イゾルデさん!」

アレンが叫ぶ。


だが、マキナは、彼女を殺そうとしているのではなかった。

彼は、イゾルデの魂の奥底に眠る、「復讐心」という、最も強烈で、純粋な負のエネルギーを、無理やり、引きずり出したのだ。


「ぐ……あああああああっ!」


イゾルデの全身から、黒い重力のオーラが、暴走して溢れ出す。

「さあ、目覚めろ、復讐の魔女よ! お前の、その美しい憎しみを、世界に見せつけてやれ!」


マキナは、イゾルデの憎しみを触媒にして、彼女を、強制的に混沌の使徒へと変貌させようとしていたのだ。


暴走するイゾルデが、その矛先を、アレンへと向ける。

「殺す……殺してやる……ヴァーミリオンも……勇者も……この世界の、すべてを……!」


その瞳は、もはや正気を失っている。

アレンは、かつての仲間(だと認識しかけていた相手)と、戦うことを躊躇した。


その、一瞬の躊躇が命取りになる。

イゾルデの放った、重力の刃が、アレンの体を無防備に切り裂こうとした、その瞬間。


「――そこまでだ」


凛とした声が響いた。

イゾルデの重力の刃は、その声の主が放った、一本の黒い「糸」によって、空中でピタリと停止させられた。


全員の視線が、その糸の先へと向けられる。

そこに立っていたのは、いつの間にか現れていた、一人の男。

深い紺色の髪。星空を宿した静かな瞳。

そして、その体から放たれる、神々しくも、どこか悲しみを帯びた、圧倒的なオーラ。


「……ゼノン……!?」


アレンが、驚愕と憎しみに、その名を呟いた。

俺は、ヴァーミリオンの王宮から、ずっとこの戦いの一部始終を、《星辰の使い》を通して、監視していた。そして、イゾルデが、最後の切り札であるペンダントを砕いたのを感知し、残された、最後の力を振り絞って、この場所に転移してきたのだ。


「久しぶりだな、アレン。少しはマシな顔つきになったじゃないか」

俺は、かつての悪役の口調で、彼に語りかけた。

だが、その瞳は、暴走するイゾルデを、悲しそうに見つめていた。


「そして、マキナ。俺の、大事な『駒』に、余計なことをしてくれたな」


俺は、マキナを睨み据える。

マキナは、俺の登場に顔を輝かせた。


「ゼノン! 来たか! 来てくれると、信じていたぞ! さあ、見ろ! 勇者と、闇に堕ちた魔女、そして、それを操る俺と、すべてを支配しようとする、お前! これぞ、俺が望んだ、最高の、カオスな、四重奏(カルテット)だ!」


彼は、心底嬉しそうに叫んだ。

俺は、静かに首を振った。


「残念だが、マキナ。お前の、くだらない脚本通りに、踊ってやるつもりはない」


俺は、暴走するイゾルデに歩み寄る。

彼女は、俺を敵とみなし、無数の重力の刃を放ってきた。


俺は、それを避けない。

すべての刃が、俺の体に突き刺さる。

だが、俺の体から、血は流れなかった。その傷口から、星屑のような紺色の光が溢れ出し、瞬時に、傷を再生していく。


俺は、痛みを感じないかのように、そのまま歩き続け、そして、暴走するイゾルデを優しく抱きしめた。


「なっ……!?」


イゾルデも、アレンも、マキナも、その予想外の行動に言葉を失う。


俺は、彼女の耳元で、静かに囁いた。

「……よく頑張ったな、イゾルデ。お前の忠義、確かに受け取った。もう、いい。もう、憎しみは終わりにしていいんだ」


俺は、彼女の魂を蝕む、マキナの混沌の力を、俺自身の星辰の力で中和し、浄化していく。それは、アレンの聖なる光とは違う。より、根源的な星々の調和の力。


「ああ……あ……」


イゾルデの体から、黒いオーラが消え、彼女は、俺の腕の中で、静かに意識を失った。


「……つまらん。実につまらん! ゼノン、お前は、いつも、いつも、俺の最高の楽しみを、台無しにする!」


マキナが、怒りに声を震わせる。

俺は、眠るイゾルデを、その場にそっと横たえると、マキナに、そして、アレンに、向き直った。


「アレン。俺と貴様の決着はいずれつける。だが、その前に俺たちは、この世界の『ノイズ』を掃除しなければならないようだな」


俺の言葉の真意を、アレンは、まだ理解できていなかった。

だが、彼もまた、目の前のマキナという存在が、倒すべき共通の敵であることを、本能で理解していた。


「望むところだ……ゼノン!」


勇者と、守護者。

本来、決して交わるはずのなかった二つの光が、今、初めて同じ敵を見据えた。


混沌の化身、マキナを倒すために。


世界の運命を賭けた、奇妙な共同戦線が、今、始まろうとしていた。

そして、その戦いの果てに、俺とアレンを待つ、本当の「決着」が、どんな形になるのか。

それは、星々だけが知っていた。

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