第十六話:混沌の観客と守護者の代償
アルフレッドとの死闘を終え、心身ともに消耗しきった俺とレオナルドの前に、最悪のタイミングで現れた観客、マキナ。彼の全身から放たれる、純粋な混沌の邪気は、以前対峙した時よりも、さらに濃密で、禍々しいものになっているように感じられた。
「マキナ……! 貴様、ずっと見ていたのか……!」
「ああ、もちろん。神になろうとした男と、それを阻止しようとする、元・道化の英雄譚。実に愉快な余興だった」
マキナは、崩壊したアルフレッドの機械の体を、まるでゴミでも見るかのように一瞥し、心底楽しそうに笑う。彼の瞳には、俺たちへの敬意も、敵意すらない。ただ、目の前の玩具が、次にどんな面白い壊れ方をするのかを観察しているかのような、無邪気で、残酷な好奇心だけが浮かんでいた。
「さて、ゼノン。お前の大事な弟君も、その魂はボロボロ。お前自身も、禁断の技を使いすぎたせいで、その星辰の力とやらは、底が見えている。最高の舞台じゃないか。絶望するには、これ以上ないほど、完璧なシチュエーションだ」
彼の言う通りだった。
俺の体は、アルフレッドのARKシステムにハッキングするために、魂そのものを酷使した代償で、悲鳴を上げていた。《星辰の魔力》は、体感で、全盛期の三割も残っていない。レオナルドも、魂の上書きは解除されたものの、その精神的なダメージは深刻で、まともに戦える状態ではなかった。
「だが、マキナ。貴様も、無傷ではあるまい。アルフレッドは、貴様のような『バグ』の存在も、計算に入れていたはずだ。この王宮には、貴様を封じ込めるための、何らかのトラップが仕掛けられていたのではないか?」
俺は、ハッタリをかました。マキナが、俺とアルフレッドの戦いを、ただ静観していたのが、腑に落ちなかったからだ。彼のような混沌を愛する者が、みすみす、最高の破壊の機会を逃すはずがない。彼が動けなかった、何らかの「理由」があったはずだ。
俺の言葉に、マキナは初めて、その表情から笑みを消した。
「……ほう。気づいていたか。大したものだ、ゼノン」
彼は、自らの足元を指差した。
よく見ると、研究室の床全体に、俺の知らない、極めて複雑な魔術紋様が、薄っすらと浮かび上がっている。
「アルフレッドの奴、俺がこの王宮に侵入したのを察知し、この研究室そのものを、巨大な『混沌封じの檻』へと変えやがった。この紋様がある限り、俺の混沌の力は、その九割以上を封じられ、外に出ることも、ここにいるお前たちに、強力な干渉をすることもできなかった。だから、観客でいるしかなかった、というわけだ」
なるほど。アルフレッドは、俺だけでなく、マキナという脅威に対しても、万全の対策を講じていたのか。あの男、やはり、底が知れない。
「だがな、ゼノン」
マキナは、再び、邪悪な笑みを浮かべた。
「その檻も、もう終わりだ。お前が、ARKのシステムを破壊したことで、この檻に魔力を供給していた動力炉も、停止した。封印が解けるまで、あと、数分といったところか」
床に浮かぶ紋様の光が、彼の言葉を証明するように、徐々に弱まっていく。絶望的な、カウントダウン。
「兄上、私が時間を稼ぎます! 兄上は、ここから脱出を!」
レオナルドが、ふらつきながらも、俺の前に立ち、聖剣を構える。その姿は、かつての青臭いが、正義感に溢れた彼の姿そのものだった。
「馬鹿を言うな、レオナルド。お前一人で、どうにかなる相手ではない。それに……」
俺は、レオナルドの肩を叩き、静かに首を振った。
「俺は、もう、誰にも、俺のために死なせはしない。そう、決めたんだ」
俺には、まだ、最後の「切り札」が残されていた。
それは、自らの命と、魂のすべてを、一撃に込めて放つ、究極の自爆技。
本来なら、ラスボスである「管理者」との最終決戦で、アレンに未来を託すために使うはずだった、俺の本当の最後の切り札。
《流星の遺言》
この技を使えば、マキナを完全に消滅させることはできなくとも、彼の存在を、数年間は無力化できるほどのダメージを与えられるはずだ。その間に、世界は体勢を立て直し、アレンも、きっと帰ってくる。
俺の命と引き換えに、未来への時間を稼ぐ。守護者として、これ以上の役目はない。
俺は、覚悟を決めた。
「レオナルド。お前に、最後の命令だ。イゾルデと合流し、デュークと共に、このヴァーミリオン王国を守れ。そして、いつか、勇者アレンが帰ってきたら、彼に協力しろ。お前の正義の剣で、彼を支えてやれ」
「兄上!? 何を言って……! まさか……!」
レオナルドは、俺の覚悟を察し、顔を青ざめさせる。
俺は、彼の返事を聞かず、マキナに向き直った。
そして、体内に残った、すべての星辰の魔力を、解放し始めた。
俺の体が、眩いばかりの、最後の輝きを放つ。それは、まさに、燃え尽きる寸前の、超新星の輝きだった。
「ほう……! やるか、ゼノン! その魂、最後の最後に、最高の輝きを放つ気か! いいぞ、いいぞ! それこそが、俺の見たい、最高のエンターテイメントだ!」
マキナは、狂喜の声を上げる。
封印が、完全に解ける。彼の全身から、黒い混沌の邪気が、嵐のように吹き荒れ始めた。
俺の最後の輝きと、彼の混沌の闇が、激突する寸前。
その時だった。
「――そこまでですわ」
凛とした、しかし、どこか不機嫌そうな、第三者の声が、研究室に響き渡った。
声のした方向を見ると、そこには、何もない空間から、まるで滲み出るようにして、一人の女性が姿を現していた。
純白のローブ。白金の髪。聖女、セレスティーヌ。
「セレスティーヌ!? なぜ、お前がここに……!」
俺は、技を発動させる寸前で、硬直した。
彼女は、俺とマキナを一瞥すると、やれやれ、といった様子で、溜息をついた。
「全く……少し目を離した隙に、チェス盤の上が、とんでもないことになっていますわね。私の知らないところで、勝手に、クライマックスを始めないでいただきたいものですわ」
彼女の登場は、完全に、想定外だった。
俺が自由都市同盟で、彼女の呪いの音波と戦っていたはずだ。彼女が、どうやって、この場所に?
「どうやって、ですって? 簡単なことですわ。貴方が戦っていたのは、わたくしの作り出した、精巧な『影武者』。その間に、わたくしは、この王宮で起きていた、面白い『劇』を、ずっと観戦させていただいておりましたのよ」
彼女は、優雅に微笑む。
つまり、俺は、セレスティーヌにも、アルフレッドにも、両方に、一杯食わされていた、ということか。
「さて、マキナ、でしたかしら? 貴方のような、盤面そのものを破壊する、野蛮なプレイヤーは、わたくしの美しいゲームには、不要ですわ。早々に、退場していただかないと」
セレスティーヌは、マキナに向き直り、その両手を広げた。
「残念ですが、ここは、わたくしの『聖域』の中。貴方の混沌の力も、ここでは、少し、分が悪いのではなくて?」
彼女の言葉と共に、研究室全体が、清らかな白い光に包まれた。マキナの放つ混沌の邪気が、その光に触れて、じりじりと、その勢いを弱めていく。
マキナは、初めて、心底、不愉快そうな顔をした。
「……女。貴様のその力、信仰心を操るだけのものでは、ないな。それは、混沌と、最も相性の悪い、『秩序』と『創造』の力……。貴様、一体、何者だ?」
セレスティーヌは、にっこりと微笑み、衝撃の事実を告げた。
「わたくしは、セレスティーヌ。そして、同時に……この世界の創造主の一柱、光の女神『アウローラ』の、仮の姿でもありますのよ」
「――なんだと!?」
俺は、絶句した。
セレスティーヌが、光の女神? 俺が、かつて共に戦った、あの女神の、生まれ変わり、あるいは、分身だとでも言うのか?
「ええ、驚いたかしら、ゼノン。……いいえ、我が、懐かしき、星の勇者よ」
彼女は、俺に向かって、慈愛に満ちた、そして、どこか懐かしむような、瞳を向けた。
「貴方が、記憶を取り戻してくれて、嬉しいわ。これで、ようやく、本当の話ができます」
彼女が語り始めたのは、俺も知らなかった、神話の時代の、真実だった。
光の女神アウローラと、闇の神の戦いは、相打ちに終わった。だが、その際に、女神は、自らの復活と、世界の再生のために、二つの「保険」を用意した。
一つは、俺、ゼノンの魂の欠片を、異世界に逃がし、いつか、転生者として、この世界に帰還させること。
そして、もう一つは、女神自身の魂を、小さな欠片に分け、人間の赤子として、この世界に転生させること。それが、セレスティーヌだった。
彼女は、転生した当初は、その記憶を失っていた。だが、聖女として、民衆の信仰心を集めるうちに、徐々に、女神としての力と記憶を、取り戻していったのだという。
「わたくしの計画――『ユートピア計画』は、人類を家畜にするためのものではありませんわ。マキナや、管理者たちの脅威から、人類を守るために、一時的に、わたくしの神域の中に、すべてを保護するための、巨大な『箱舟』だったのです」
彼女の計画は、アルフレッドの『Project: ARK』と、似て非なるものだった。アルフレッドが、すべてをデータ化する、電子の箱舟だったのに対し、彼女の箱舟は、魂そのものを、神の領域で保護する、霊的な箱舟だったのだ。
「そして、その計画を、誰にも邪魔されずに進めるために、わたくしは、あえて、『傲慢で、自己中心的な聖女』を演じていたのです。貴方が、悪役を演じていたように、ね」
すべてが、演技だった。
すべてが、この世界を守るための、壮大なチェスゲームだった。
俺も、彼女も、それぞれのやり方で、孤独な戦いを続けていた、同類だったのだ。
「さて、茶番は、ここまでですわ」
セレスティーヌ――光の女神アウローラは、マキナに向き直る。
「混沌の落とし子よ。貴方を、今、ここで、完全に封印します」
彼女の全身から、創造の光が溢れ出す。
それは、あらゆるものを「無」に還す混沌とは、真逆の、あらゆるものを「有」へと導く、生命の光。
《光の創造・第七天》
研究室が、光に飲み込まれていく。
マキナは、初めて、本気の焦りを見せた。
「く……くそっ! 面白くなってきたじゃねえか! 神と、英雄の、共演か! だが、俺が、このまま、やられると思うなよ!」
マキナは、自らの混沌の力を、一点に凝縮させ、最後の抵抗を試みる。
それは、この空間ごと、自爆し、すべてを混沌に還す、禁断の技だった。
光と、闇が、激突する。
その凄まじいエネルギーの衝突に、俺は、レオナルドを庇いながら、吹き飛ばされた。
意識が、遠のいていく。
薄れゆく視界の中で、俺は、セレスティーヌが、何かを、俺に託すように、微笑んだのを、見た気がした。
そして、すべてが、白い光に、包まれた。