第九話:英雄の試練と絶望の足音
エルドラドの山中。アレンとガレスが率いる反乱軍「自由の翼」のアジトは、かつてないほどの熱気に包まれていた。ゼノン王子という絶対悪に対抗するため、彼らの結束は日増しに強固になり、訓練にも熱が入っていた。アレン自身も、ガレスとの模擬戦や仲間たちとの連携訓練を通じて、勇者としての力を着実に開花させていた。
「まだまだ! アレン、太刀筋が直線的すぎる!」
「くっ……!」
ガレスの木剣が、アレンの防御を弾き、その脇腹にクリーンヒットする。アレンは息を荒げながらも、即座に体勢を立て直し、再びガレスに斬りかかった。彼の瞳には、以前のような憎しみだけでなく、仲間を守りたいという強い意志が宿っている。故郷を失った孤独な少年は、ここでようやく、自分の居場所を見つけつつあった。
「いい目をするようになったじゃねえか」
ガレスはアレンの成長を喜びながらも、決して手は抜かない。彼らの訓練は、いつか来る決戦の日のための、重要な布石だった。
だが、その穏やかな日常は、突如として破られる。
アジトの上空の空間が、まるでガラスが割れるように裂け、そこから一人の女性が転移してきたのだ。王宮の書庫官の制服をまとった、イゾルデ・アークライト。彼女の突然の出現に、自由の翼のメンバーたちは一斉に武器を構えた。
「何者だ!」
「王宮の密偵か!?」
殺気立つ彼らを前に、イゾルデは焦燥に満ちた表情で叫んだ。
「話を聞いて! 私は、あなたたちの敵ではない! 緊急事態なの!」
その時、ガレスがイゾルデの顔を見て、目を見開いた。
「お前は……アークライト家の……」
ガレスは、かつてヴァーミリオン王国に仕えていた騎士だった。彼は、滅ぼされたアークライト家の悲劇を知る、数少ない人物の一人だったのだ。
イゾルデはガレスの言葉に驚きつつも、今はそれどころではないと首を振った。
「その話は後! 今、とんでもない化け物が、ここに向かっている! ゼノン王子からの、緊急命令よ!」
「ゼノンだと!?」
その名が出た瞬間、アレンの表情が憎悪に凍りつく。
「あいつの言うことなんて、聞けるか! また何か企んでるに決まってる!」
「違う! 今回ばかりは信じて! あれは、王子ですら敵わない、本物の『災厄』よ!」
イゾルデは必死に、俺から託された情報を伝えようとする。だが、時すでに遅し。
彼らの頭上に、暗雲が立ち込めるように、濃密な邪気が空を覆い尽くした。そして、その中心から、一人の男がゆっくりと降下してくる。白髪の男、マキナ。彼の姿を見ただけで、その場にいた全員が、魂のレベルで恐怖を感じ、動けなくなった。
「ククク……見つけたぞ、勇者の卵。なんだ、思ったよりひ弱そうだな。こんなガキが、本当にこの世界の『希望』なのか? 笑わせてくれる」
マキナは、まるで虫けらを見るような目で、アレンを見下ろした。
「……お前が、化け物か」
アレンは、全身が動かないほどの恐怖を感じながらも、その元凶を睨み据えた。勇者としての本能が、目の前の存在が、ゼノンとは比較にならない、根源的な悪であることを告げていた。
「化け物? 違うな。俺は『混沌』だ。さあ、お前の希望とやらが、どれほどのものか見せてみろ」
マキナが指を鳴らすと、彼の周囲の空間から、黒い泥のようなものが湧き出し、それが次々と人の形をとっていった。それは、魔物ではない。混沌から生み出された、名状しがたい偽りの生命体――《混沌のしもべ》。
「い、いかん! 全員、戦え!」
ガレスが我に返って叫び、部下たちと共に混沌のしもべに斬りかかる。だが、彼らの剣は、泥の体に弾かれるか、吸い込まれるだけで、全くダメージを与えられない。逆に、しもべの攻撃に触れた者は、ゼノンと同じように、魂を腐らせる呪詛に侵され、次々と倒れていった。
「くそっ! なんだこいつら!?」
ガレスの剛剣ですら、通用しない。阿鼻叫喚の地獄絵図が、アジトに広がっていく。
その惨状を見て、アレンの怒りが恐怖を上回った。
「やめろおおおお!!」
アレンは《聖光解放》を発動し、黄金のオーラをまとってマキナに突撃した。彼の手にした剣から放たれる聖なる光は、混沌のしもべを数体、蒸発させることに成功した。やはり、聖なる力は、混沌に対してある程度の効果があるらしい。
「ほう、少しはやるか。だが、その程度か?」
マキナはアレンの攻撃を意にも介さず、ただ指先を彼に向けた。それだけで、アレンの周囲の空間がぐにゃりと歪み、彼の動きが極端に鈍くなる。
「なっ……体が……重い……!」
「混沌の前では、秩序ある光の力など、赤子の戯れに等しい」
マキナはゆっくりとアレンに近づき、その胸に手を当てようとする。
その瞬間、マキナとアレンの間に、巨大な重力の壁が出現した。イゾルデだ。
《絶対領域・次元の盾》
イゾルデが全魔力を込めて作り出した、空間そのものを断絶させる防御壁。だが、マキナはそれに鼻で笑う。
「女、お前も理の外の力を使うか。面白い。だが、まだ未熟だな」
マキナは次元の盾に軽く触れただけで、その表面に亀裂を走らせ、粉々に砕いてしまった。イゾルデは魔力の逆流で吐血し、その場に崩れ落ちる。
「イゾルデさん!」
アレンが叫ぶ。もう、誰も彼を守る者はいない。
マキナの指先が、アレンの胸に触れる寸前、彼は最後の力を振り絞り、手にした「勇者の原石」をマキナに叩きつけた。
「これでも、くらえ!」
純粋な聖光エネルギーの塊である勇者の原石が、マキナの混沌の邪気と接触し、凄まじい爆発を引き起こした。閃光が周囲を包み、誰もが目を閉じる。
やがて光が収まった時、そこにマキナの姿はなかった。
だが、アレンの姿も、どこにもなかった。
「アレン!」「どこだ、アレン!」
ガレスたちが叫びながら、アレンの名を呼ぶ。イゾルデは、空間に残った微弱な魔力の痕跡を探り、絶望的な顔で呟いた。
「……ランダム転移……。勇者の原石の暴走した聖光エネルギーと、あの男の混沌の力がぶつかり合って、時空に穴が……。アレン君は、この大陸のどこか、あるいは、全く別の場所に、飛ばされてしまった……」
希望の象徴であった勇者が、目の前から消えた。仲間たちは次々と倒され、アジトは壊滅状態。残された者たちの心に、深い絶望が影を落とした。
ガレスは、血の滲む拳を握りしめ、天に向かって吠えた。
「ゼノン……! マキナ……! 必ず、必ずてめえらを、この手で……!」
彼の憎悪は、もはやゼノン一人に向けられたものではなかった。この世界の、あらゆる理不尽そのものへと向けられていた。
その頃、俺は王宮の地下牢獄で、自らの魂に施した禁断のドーピング――《魂喰らいの道化》の暴走する力と、必死に戦っていた。意識は朦朧とし、現実と悪夢の境を何度も行き来する。俺の精神は、強大な力を得た代償に、崩壊の一途を辿っていた。
『……聞こえるか……ゼノン……』
誰かの声が、脳内に直接響く。幻聴か?
『……違う。我は、お前が見ている「夢」そのもの……この世界の「管理者」の一人だ……』
管理者。この世界を実験場とし、物語を搾取している高次元の存在。ついに、接触してきたか。
『……イレギュラー「マキナ」の出現は、我々の想定外だ。あれは、物語を破壊するためだけの、純粋なバグ。このままでは、この世界は、収穫前に崩壊してしまう……』
管理者の声には、焦りの色が滲んでいた。
『ゼノンよ。お前もまた、イレギュラー。だが、お前には「物語を愛する」という、強い意志がある。我々は、一時的に、お前に協力しよう。マキナというバグを駆除するために』
協力だと? ふざけたことを。
「……断る」
俺は、途切れ途切れの意識の中で、はっきりと拒絶の意思を伝えた。
「お前たちに利用されるのは、もううんざりだ。俺は、俺のやり方で、この物語を守る」
『……愚かな。我々の助けなくして、お前にマキナを倒す術はない。お前自身も、その禁断の力の代償に、いずれは自滅するぞ?』
「構わない。道化には、道化に相応しい、破滅の舞台がある」
俺がそう言い放つと、管理者の意識は、呆れたようにすっと消えていった。
俺は、暴走する力に身を任せることをやめ、逆に、その中心核へとさらに深く意識をダイブさせた。壊れるなら、いっそ、完全に壊れてしまえ。そして、その瓦礫の中から、新しい力を拾い上げてやる。
俺の精神世界は、嵐の海のように荒れ狂っていた。悪役王子ゼノンの記憶。平凡な日本人だった頃の記憶。そして、やりこんだゲーム『アストラル・サーガ』の膨大な知識。それらすべてが、混沌の力の影響でごちゃ混ぜになり、新たな「何か」へと再構築されようとしていた。
その時、俺は見た。
俺の魂の最も深い場所に、俺自身も知らなかった「扉」があるのを。その扉には、幾重にも、厳重な封印が施されている。それは、俺がこの世界に転生してきた時に、無意識のうちにかけられた「枷」だった。
(これは……なんだ……?)
俺は、暴走する力のすべてを、その扉に叩きつけた。
壊せ。壊せ。壊せ!
凄まじい衝撃と共に、扉が、そして封印が、粉々に砕け散った。
扉の向こうから、光と共に、膨大な「情報」が俺の魂に流れ込んでくる。
それは、『アストラル・サーガ』の知識ではなかった。
それは、この世界の、本当の成り立ち。
神話の時代。光の神と闇の神の戦い。そして、その戦いの果てに、両者が封印され、その封印を管理するために作られたのが、アークライト家のような魔導士の一族だったこと。
そして、囚人番号「ゼロ」――マキナの正体。
彼は、光の神でも、闇の神でもない。両者が戦う際に生まれた、世界の「歪み」そのものが、長い時を経て、意志を持ってしまった存在。いわば、神々の戦争が生み出した、呪われた落とし子。
さらに、俺の魂に流れ込んできたのは、俺自身の「本当の役割」だった。
俺は、ただの転生者ではなかった。俺は、かつて光の神と共に戦った、異世界の英雄の「魂の欠片」。光の神が敗れ、世界が闇に飲まれそうになった時、最後の希望として、この世界に送り込まれた存在だった。俺が『アストラル・サーガ』というゲームに強く惹かれたのも、この魂の因果が原因だったのだ。
「……そうか。俺は、初めから、この物語の……当事者だったのか……」
すべての記憶を取り戻した俺の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悪役王子ゼノンの涙でも、日本人だった青年の涙でもない。遥かなる時を超えて、再びこの世界に戻ってきた、一人の英雄の魂の涙だった。
同時に、《魂喰らいの道化》の暴走が、ぴたりと止んだ。
いや、違う。暴走が止んだのではない。俺が、その力を、完全に掌握したのだ。
俺はゆっくりと立ち上がった。肩の傷は、跡形もなく消えている。体中に満ちているのは、もはや暴走した魔力ではない。神々の時代の理さえも操る、原初の力――《星辰の魔力》。
俺は、もはや悪役を演じる道化ではない。
俺は、この世界を、管理者と、そして混沌の手から解放するために戦う、ただ一人の「守護者」となった。
「マキナ……そして、管理者よ。ゲームは、まだ終わっていない。いや、ここからが、本番だ」
俺の漆黒の瞳は、未来を見据えていた。
ランダム転移で飛ばされたアレンは、必ず、新たな仲間と出会い、さらに強く成長して帰ってくる。それが、物語の摂理だ。
俺の役目は、彼が帰ってくるまでの間、この世界を守り抜くこと。
そして、彼がすべての試練を乗り越え、真の勇者となった時、最後の「壁」として、彼の前に立ちはだかること。
孤独な戦いは、新たな局面を迎える。
悪役の仮面を脱ぎ捨てた俺の、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。