ないものねだり
しばらくの間、俺はちょっとした有名人になっていた。ニュースや記事では名前と顔が伏せられてはいるが、家の周りでは取材を強要する記者たちに囲まれた。まるでゾンビに襲われてるみたいだった。
それはバイト先にまで影響した。たくさん迷惑をかけたが、店長を始め、後輩や同僚たちは俺の味方をしてくれたから、クビにならずに済んでいる。
俺の発言はワイドショーで取り上げられるほどのものだったらしい。自分ではそんな価値のある言葉を吐き出した気はないから、もしかしたらそういう才能があるのかもしれない、と調子に乗った。
あれ以来、流渓橋37に対してアンチコメントを送る人は少なくなった。【じゃない方アイドル】に対する過激なアンチコメントは三割くらい減った気がする。
送らなくなった人のほとんどが警察に怯えているだけだと思うが、それが理由でも良いと思う。でも相変わらずアンチコメントをする人はいる。送らないとやってられないような人なのかもしれない。何かを犠牲にしてまでも誹謗中傷をしたい、その理由が分からなければ対処のしようがない。
あの出来事から約一か月後、流渓橋37の16thシングルの表題曲が初披露された。タイトルは『スターティング・オーヴァー』、西野奈々未がラストセンターで、初選抜の三期生がフロントを務めるなど、変革期のシングルになっている。
過去の栄光に縋らず自分の手で夢をつかみ取る、そんなストーリー仕立ての曲になっている。それと併せて、西野奈々未のソロ曲も同時に初披露された。タイトルは『ないものねだり』、とても素晴らしい曲だ。切ないメロディーと心に響く歌詞が相まって、人生で一番感動した気がする。俺はその中で、とても好きな歌詞があった。
ないものねだりが叶ったら 今の私は存在しない
今の私があるのは 紛れもない奇跡なんだと 知ってほしい
ないものねだりをしている人には、絶対に聴いてほしい、そう思った。
『スターティング・オーヴァー、素晴らしい楽曲のセンターで終えることができるのは、本当に嬉しいね。歌詞に共感できるところがいっぱいあって、なんか幸せな気分になるなぁ。ダンスも細かくて、けっこう激しくて難しいけど、完成したMVとか見ると、なんて言うんだろう、どこかノスタルジックで少しだけ背中を押してくれる、そんな気持ちになるんだよね。まぁ、私の語彙力じゃあ何も伝えられないや! ごめん!
あと、ないものねだりっていうソロ曲を貰えて本当に嬉しかった。歌詞を噛みしめて噛みしめて、歌えば歌うほど心に沁みて、こんな楽曲は初めてだなぁ。たぶん、この曲はこれからどんなことが起こっても一番好きなんだろうなって思えるくらい、好きかもしれない。
……実は私、麻衣ちゃんのあの配信見てたんだよね。一か月も前の話だけど。後だしジャンケンみたいに言うなんて卑怯かもしれないけど、ちゃんと言おうって思った。
麻衣ちゃんは加入当初からダンスがしなやかで、表現力が凄いなって、ずっと憧れてた。初期の頃は名前順で並ぶことが多かったから、よく隣同士になってたくさん話してた。懐かしい。それに麻衣にあんな過去があったなんて知らなかったな。頼りなかったのかな、私。
いや、そんなことを言うと、変な誤解が生まれるね。私が他人に関心なかっただけ。はい、それだけだからね、このブログを読んでる人たち。
だからあの配信を見てて、今すぐ乗り込んで「卒業なんて止めて!」って言いたかったくらい。でも、色んなメンバーの思いを代弁してくれた、あの彼には感謝しかないかな。
私も、いつしかブログとかSNSアカウントにアンチコメントが増え始めたこと、すごい気にしてた。目に入らないように非表示とか運営の方に対応してもらったけど、無限に湧いてくるんだよね。一時期、活動休止を考えたくらいだったから、辛かったな。
だからこそ、彼のないものねだりは現実になってほしいけど、たぶん絶対に現実にならないことだと思う。皆が同じ思考回路なわけないもんね。
人によってはアンチコメントは正しい、必要なものって考える人もいるかもしれないけど、私は反対派だな。あのときの彼の言葉を借りると、無意識の殺意が込められてる言葉って本当に痛いんだよ。
私は、ファンのエールが生き甲斐みたいなものだから、ファンのポジティブコメントで元気になるの。でもそんな中にインパクト強い鋭利な言葉が目に入っちゃうと、今まで元気をもらってたポジティブコメントが一気に消えて、アンチコメントが一生記憶に残っちゃうんだよね。数千数万とあるコメントの中にアンチコメント一つでもあるだけで、もう辛いんだよ。この悩みはずっと胸の奥にしまってたけど、この機会に言っておこうと思う。アンチコメントを送るときは、それを見る人の顔をしっかり思い浮かべてから、送ってほしい。できれば、送らないで欲しいけど。
奈々未からのささやかなお願いね。
まだテレビで一回しか披露してないけど、こんなに語っちゃうのは、特別な思い入れが、もうあるんだろうな。卒業するまでに、麻衣ちゃんとご飯でも行きたいな、いや、絶対に行こうね! 勝手に約束したから!
とても長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございます。卒業ライブまで色々日程ありますが、私も、ないものねだりはしないで、目の前の幸せを噛みしめて、残りの流渓橋37人生を楽しみたいと思います!』
デビューしたてくらいの西野奈々未と麻衣のツーショットは、色褪せているように見えたが、優しい色で、静かに輝いていた。
西野奈々未のブログを読み終えた俺は、バイト先に足を運んだ。家のカギを閉めたとき、隣にはもう住んでいないのだと、ドアを見るたびに思いふける。麻衣は今、どこで暮らしてるんだろう、なんて考えるが、絶対に関わらない方がいいから、このままアイドル活動を頑張ってほしい、と思った。
歩きながらニュースアプリで流渓橋37のニュースを見ていると、麻衣が出演するドラマの情報が出ていた。放送はまだまだ先だが、三人姉妹の次女役という重要そうな役をもらっていた。ホームドラマなのか恋愛ドラマなのかミステリーなのか、全く分からないが、頭の中の予約サイトに登録した。
バイトの休憩中、またニュースアプリで流渓橋37に関するニュースを見ていた。どうやら三日後、グループ七周年を記念して、無料オンラインライブを決行するようだ。俺の好きな歌はやってくれるだろうか、なんてことを考えるとその日が待ち遠しくなってきた。
でもコメント欄は大丈夫だろうか、と思うと不安にもなる。
その後は、『ないものねだり』の歌詞を黙読していた。歌詞を書く人は流渓橋37を立ち上げた元キャスターでプロデューサー兼作詞家の春日健だ。幾千もの歌詞を書き上げた彼の頭の中はどうなっているのだろう、と思う。こんなに素晴らしい詩をポンポンと書けてしまう彼の才能が羨ましい。でもそれは神が与えたものだ。平等の世界ならば、俺にも何か特別な才能が与えられていると信じて、長時間かけてそれを探してみようと思う。
『ないものねだり』の歌詞を読んでいると、自然と情景が思い浮かぶ。それは何故か、俺と麻衣が過ごしたほんの少しの時間が色濃く映されている。
「先輩が鼻歌なんて、珍しすぎる……」
休憩室に入ってきた後輩がそう言った。無意識だったから、余計に恥ずかしい。
後輩は相変わらずな様子で、俺の隣に肩を寄せて座った。後輩の心の中は全て表に現れるから、深読みをして気を遣う必要は全くない。
「やっぱり先輩はあの件からめちゃくちゃ変わりましたね。今の先輩ならテストステロンが溢れていて、たくさんの女の子が寄って来そうですよ」
「そう。悪いけど、誰とも付き合わないよ」
「えー、じゃあ私もですか?」
「そうなるね、でも今後もいい付き合いが出来たらとは思うよ。君にはあのとき、助けてもらったし、同じ趣味を共有できる唯一の友だち、みたいなものだから」
「じゃあ付き合ってください!」
「付き合わないって言ったよね?」
えへへ、と後輩は無邪気に笑う。そして立ち上がり、俺に宣言するように「でも諦めませんから!」と言って休憩室を去った。周りにいたバイト入りたての新人は呆気にとられたような顔をして、何故かパチパチと拍手をし、てこてことこちらに寄ってきた。
何か訊きたいことがあるのだと思っていたが、考えていたものとは違った。
「先輩って、彼女つくらないんですか? 私だったら、好きじゃなくてもあんなに好きになってくれる人がいたら付き合うと思うんです。あんなにずっとアプローチしてくる人いるのに、断るってことは、どこかに憧れの人でもいるんですか?」
彼女は俺のしたことを何も知らない。二日前に入った新入りだ。でも彼女の言うことは正しいと思う。来年成人の歳だが、普通なら恋人と過ごす時間を欲しい、と思うのだろう。でも俺がそう思わないのは彼女の言う通りで、憧れの人がいるのかもしれない。それを言おうと思ったが、感情の起伏がなく淡々と喋る誰かさんに、「幸せな悩みだと思います」と言われそうだったから、今回は口を噤んだ。
代わりに、アドバイスを送った。
「お前は、好きな人には好きって伝えるんだぞ」
彼女は何のことかさっぱり、という様子だった。突然、ただのバイトの先輩からそんなことを言われたら、困るに決まっている。でも彼女は、何か深い意味があると思ったのか、長考に入った。答えらしい答えを導き出せるか分からないが、彼女の成長に、小さな期待をしてみた。俺がこの世界に対して期待した量くらい。