アイドルになった理由
しばらくの間、麻衣は泣いていた。体の水分がなくなるんじゃないか、と心配になるほどだった。その間も、俺は麻衣が安心して泣けるように、ただ側にいた。
十分に泣いて落ち着いた麻衣は、たっぷりに赤く目を腫らして、「すみませんでした」と言って立ち上がった。
こちらに顔を向けずに、麻衣はいつも通りの声でこう言った。
「散歩でもしませんか。家に居たくない気分なんで」
俺は大丈夫だが、一つ確認をした。夜に二人で散歩していいのか、と。
「そういう気分なんです。一人でいたらおかしくなりそうですし、それに私にだって、性欲はあるんです」
一瞬、ドキッとしたが、冷静に考えて、そんなはずないと思った。たぶん、世間一般の性欲とは意味が違うのだ。きっとそうだ。
アパートの階段を降りると、麻衣は怒りをぶつけるように話し始めた。
「冷静に考えておかしいと思いませんか? アイドルは恋愛の歌を歌ったり、キスしたことないのにキスしまくる歌詞を歌ったり、バラエティ番組で理想の彼氏について話したり、視聴者を彼氏に見立てて彼女役をやったり、雑誌では好きなタイプについて話すんですから、性欲が溜まる一方だと思うんです」
うん、うん、と適度に相槌を入れながら聞いていた。どこでスイッチが入ったのだろう、と考える暇など全くない。
「それに性欲って三大欲求の一つですよ。でも、世間的に性欲って言うと、えっちなことに限定されてしまうんです。でも私は、性欲はそういうことに限定してるわけではないと思うんです。異性と話したいとか恋したいっていうのだって、立派な性欲だと思います。考えたことあるか分からないですが、女性と話すのと男性と話すのって、全然違うんですよ。考え方もそうですし、聞き慣れない声のトーンで返事をされるのもそうです。もちろん、仕事で男性の方と話しますけど、ほとんどの方が、心ここにあらずっていう感じなので。だから掛橋さんとお話しすると、満たされるような気持ちになるんです。そういう存在が必要だと思うのに、アイドルは恋愛禁止を余儀なくされていますから。性欲を禁止にされているのと同義です。恋愛じゃなくても、男性と二人で食事だったり遊んだりしてると、即週刊誌行きですから、大変な世界ですよ、本当に」
「……まるで俺は性欲処理みたいな言い方だね」
少し意地悪な言い方をしてみた。
「それは……そう聞こえてしまったのなら、反省します」
純粋な麻衣は、すぐに謝った。別に嫌な思いなんて全くしていない。
「それよりいいのか? 俺と二人で歩いてて」
「いいんです。どうせみんなどこかで性欲を爆発させてるんです。今日くらいは許してほしいです」
ここまでかなり早口で話した麻衣を見て、鬱憤が溜まっているのか、と訊いてみた。
「溜まってないように見えるかもしれませんが、十分に溜ってますよ。人気の差で仕事の差は露わになる、大量のアンチコメントが刺さりまくる、メンバー四人で取材だと思ったら私は質問たった一つだけ、同期のメンバーの卒業情報を聞けない、メンバーの記事が書かれた週刊誌が出る、胸がデカいからかグラビアの仕事だけは多い、ドラマの仕事が決まる、ストレスばかり溜まってます」
かなり情報量のある言葉だった。だが最後に関しては、吉報のような気がするが、本人からすると悲報みたいだ。
頬を膨らませながら首を左右に何度も振る姿は、子どもがふてくされているみたいだ。だんだん素が表れているのか、感情に起伏が現れ始めた。俺がおかしく笑うと、麻衣は少しだけ怒った表情をする。こんな青春みたいなこと、俺にもできるんだな。
しばらく歩いていると、二人にとって思い出の場所とも言える公園が見え始める。麻衣もそれを見つけると、「一週間も経ってないのに、なんだか懐かしいですね」と言った。そのときの俺は酷く酩酊していたから、当時のことを何一つ覚えていなかった。だからこそ、気になることがあった。
「なんであのとき、話しかけてくれたんだ?」
公園に入りながら、俺は麻衣に訊いた。
公園では、若い父親らしき男性と小さな女の子が楽しそうにブランコで遊んでいた。おそらく親子だろう。
「普通なら酩酊してるやつなんか放っておいても問題ないだろ」と付け足した。麻衣は夜空に浮かぶ満月を見ながら、うーん、っと声を漏らす。
「いつも通りのことと言えば、いつも通りなんですよね。実際、掛橋さんの前にここで酷い恰好で寝ていたOLらしき人がいたので、そのときも話しかけましたよ。そのときは千鳥足で帰っていきましたけど。たぶん彼氏に浮気されてやけ酒したんだと思います」
そこまでは聞いていないが、饒舌に話すエピソードと麻衣の性格からして、本当のことだと理解する。
「普段からそんな優しい人なのか?」
「どうなんでしょうね。昔、私が助けてもらったことがあるので。その恩返しとかですかね。人としてそういう人間にならなければ、みたいな使命感、ですかね」
「助けてもらったって、誰に?」
俺と麻衣がであったであろうベンチに腰を掛け、麻衣は太ももの上に手を置いた。
「誰かは分からないです。でも、あのとき助けてもらわなかったら、車に轢かれて死んでましたから。逞しい男性っていうのしか覚えてなくて」
公園にいた親子二人が滑り台で遊んでいる。女の子の甲高い声が静寂の闇に包まれる公園を切り裂いている。
「こうして生きてるのはあの人のおかげです。でも、アイドルの生活を振り返ると、あのとき死んでしまえば楽だったのかな、とも思います」
そんなこと言うなよ、と言おうとしたのだが、自分も似たような考えをしていることを忘れていたことを思い出した。でも俺はただの学生、麻衣はアイドル。決して似た者同士なんて言葉は使えない。俺には到底知ることのないその世界で、どれほどの苦難が麻衣を襲ったのだろう。
滑り台で遊んでいた親子は、仲睦まじそうに手をつないで帰っていった。
「俺さ、まだ本当のアイドルがどんな職業で、どんな辛いことがあるのか分からないからさ、麻衣のアイドル活動が知りたい」
「いいですよ」
そう言って、背もたれにびったりと背中を付けた。下腹部に両手を当てる。
「なにから知りたいですか?」と麻衣は訊いた。
「けっこう前に仕事のことを聞いたから、仕事以外、かな。オーディションとか、どうやって過ごしてきたのか、とか」と唇を触りながら言った。
「分かりました」と麻衣は言った。「前にも言った通り、私は母の勧めでオーディションを受けました。だから、最初は早く落ちたいなって思ってました。特に芸能界に憧れがあるわけでもなかったので。落ちたら、高校に進んでバイトしながら資格勉強して、就職して、母と細々と暮らせるんじゃないかなって思ったので、早く落ちないかなって思いながらオーディションを受けてたんです。でもどうしてか分からないですけど、次の審査に進んで、また次の審査、また次――気づけば最終オーディションまで進んでました。そのときにはもう、落ちたいなんて気持ちはすっかり消えて、合格したい、って思いに変わってました。ただ私の何が良かったのか、いまでもわかりませんが、合格することができました。合格の通知を見た母はすぐに『引っ越すよ!』と目を光らせて言ったんです。お金に目がない母はすぐに行動に移しました。だから転校の手続きも引っ越しの手続きも、まるでエリート社員みたいな仕事の速さで済ませました。夜逃げのように故郷を離れてあのアパートに引っ越したんです。それからというと、私は転校先の中学で馴染むことができなかったので、基本誰とも会話しない時期が中学卒業まで続きましたね。その後は芸能コースの高校をに入学して、ほとんど休んでばかりでしたけど難なく卒業って感じですね。あと自慢に聞こえるかもしれませんが、私の成績が良いから大学に進学したらどうだ、って話もいただいたんですけど、お金の無駄なので断りました。とりあえず、これが仕事以外の情報でした」
同じく歩んだはずの中学高校なのだが、次元が違うように感じた。何十段も上にいるような差がある。
「頭良かったんだな」
「中一のころ、最高で学年二位の成績だったんですけど、覚えてないですか?」
俺はそれに首を二回ほど振った。それに対して麻衣は少しだけ口を尖らせて不機嫌そうだったが、少し経てば仄かに笑みを浮かべていた。
うちの中学では上位三十人の名前と成績が掲示板に貼り出されるのだが、俺はそれに入っても入ってなくてもどうでもいいと思っていたから、見たことが無かった。だから麻衣の名前が貼り出されていたのは知らなかった。でもきっと、見ていたとしてもあの質問には答えられないだろう。
「でも不思議だな。なんで合格したいって思い始めたんだ?」
「なんででしょうね。最初は落ちて、ダメだったよって母に報告することを思い描いていたんですけど、何故か次の審査に進んでいくんですよね。取り柄の無い普通の女の子なのに。それでも審査は続きますからアイドルの映像を見て勉強するんです。それで、見れば見るほど興味が出てきて、踊りの審査をやるころには、アイドルっていいなって思い始めました。それが気持ちの切り替わった瞬間ですかね」
そう言う麻衣の横顔は、一般的な女性の顔より幾つも抜けて美人だと思う。評価基準はよく分からないが、麻衣が受かるのは当然なことだと思える。それにいま言った、踊りに対する姿勢が、きっと審査員の心を掴んだのかもしれない。お金や地位、名誉のためという雑念があまり感じられなかったのが、合格を勝ち取った要因だと思う。心底楽しそうに踊っていた姿が、実物を見てもいないのに容易に想像できる。
オーディションのとき、麻衣の精神的なコンディションは良くなかったかもしれないが、いまの状態を見ると、原石を見抜いた選考員の先見の明は驚異的なものだと思う。
「別に、不思議なことじゃないだろ。受かって当然だと思うよ」
「平気な顔で嘘つかないでくださいよ」
麻衣はそう否定したが、満更でもない顔をしていた。
「じゃあ、次は合格してからのこと訊いていいか?」
「いいですよ」と麻衣は言って、すっと元の表情に戻った。「中学二年生、私は最年少の一つ上の代でした。もちろん最初から有名なグループではないので、たくさんの指導をされました。歌、ダンス、コメント、挨拶、礼儀などなど。かなり厳しく教えられました。一人でもできないと講師は怒鳴ります。泣き喚いたとしても関係ありません。できるまで怒鳴り続けます。アイドルを軽んじていた人は、そこで何人か辞めました。そこで精神をやられた人がほとんどでしたが、私はそれに強かった方だと思います。周りがたくさん泣く中、私は泣いていないのですから」
「それはどうして?」とつい質問をした。
「父親の虐待、ですかね。あれが私の人生の中で最高に恐怖でしたから。肉体的、精神的にボロボロだったあのときと比べると、業界に入ってからの大人たちの叱咤はかすり傷みたいなものでしたから」
また新たな情報だ。まだまだ知らないどん底のような情報。そりゃあ家族アンケートなどのハートフルな企画に参加できないわけだ。
「父親、最低だな」
「そうですね。カッコよくてマッチョで金のアクセサリーが似合うワイルド、母の理想の男みたいな父親でしたね。仕事はできるみたいですが、家では浴びるように酒を飲み、何十箱もタバコを吸い、母や私に暴力を加えて王様のように私たちに命令するんです。でも驚いたのは、母は嬉しそうに従ってました。まるで懐いた犬みたいに。だんだん私がおかしいんだと思うようになるくらい、バカになってました。しばらくしてから、父は捕まりました。私が十四歳のときです。それからは父の大量の貯金で生活しますが、前に言った通り、母は新たな男を見つけて貢いで、あっという間に貯金は底をついて借金生活の始まりっていう感じです。その続きがアイドルのオーディションに繋がるわけです」
聞いている途中で、これ以上聞きたくない、という感想を抱いたのは初めてだ。実際に体験して辛いのは麻衣のはずなのに、経験してもない俺が辛くなるのはどうしてだろう。隣では絵画のような綺麗な横顔をしているが、その背景にはおぞましい過去があると思うと、称賛を超える何かを与えたかった。
「あ、余計な話をたくさんしてしまいました。仕事ですもんね」
こちらこそごめん、と言おうとしたとき、スマホがぶるぶると動いた。それを無視しようとしたのだが、麻衣にそれを気づかれたのか、「待ちますよ」と言われた。そう言われると、それがメッセージじゃなくても見ないといけないような気がした。
たぶんニュースアプリだと思うけど、と予防線を張ってからスマホを見た。
だがそれはメッセージで、後輩からデートについての連絡だった。思わず、厄介な気持ちがこもった淀んだ息が漏れた。
「どうしました?」
不自然に吐いた息は、第三者から見れば不審だったみたいだ。
「なんでもない。バイトで色々あってな」
「バイトかぁ、バイトっていいもんですか?」
麻衣は何を訊きたいのか、すぐに意図を察することができなかった。だが考えてみれば、麻衣は中学二年から芸能人、他の人がバイトをしている中、正式に働いている。それを羨ましく見ていたからそう訊いてきたのか。
もしそうなのであれば、幻滅させないように現実を伝えよう。
「いいものではないと思うよ。労働の対価としてもらえるお金のために俺は働いてるから」
「そうなんですね。なんかバイト同士の恋愛とか、お客さんから連絡先をもらうとかあるのかなって思ったんですけど、そういうのってフィクションだけの話なんですか?」
麻衣が言ったことはフィクションではない、実際にある。そう言いたいが、それに俺はうんざりしているため、素直に説明ができなかった。
俺が唸りながら地面の一点を見つめていると、色々と察した麻衣が話し出す。
「まぁさっき私が言ったことって、アイドルってキラキラしてて楽しそうでたくさん稼いでそう、みたいなことを思われてるのと一緒なんですよね。そう考えると、現実は基本的に醜いんだなっていうのが分かります」
麻衣の言う通りかもしれない。そもそも醜くない現実は現実なのか、と疑いたくなる。そうなると麻衣にも、俺なりの醜い現実を伝えた方がいいと思った。そう思うと、つっかえていた言葉がスッと出てきた。
「さっき麻衣が言ってたこと、あながち間違いじゃないんだ。実際、厄介な後輩に好かれてるやつが同僚にいるよ」
「あ、自慢ですか? 隠さなくていいんですよ」
厄介な、という単語が聞こえていないのか、純粋に頬を膨らませてこちらを妬むように見てくる。俺じゃないと匂わせたのだが、すぐにバレた。
隠すことはやめて、普通に話そう。
「自慢じゃないよ。別に隠したいわけでもないし。困ってるんだよ」
「いいじゃないですか、誰かに好かれてるなんて」
そうとは限らない、ということを伝えたいが、それを伝えるとただのワガママだということがバレてしまう。
「どうしてその人を煙たがるんですか?」
麻衣の疑問は至極当然のことだった。だから俺は理由を述べる。
「正直に言うと、色々苦手なんだ。自分に自信があるのか見下しているような喋り方、セールスポイントを理解した接し方、手に届かないような幸せを求めてる能天気、こういうのが苦手なんだよ」
なるほど、と言って麻衣は顎に握りこぶしを置いた。俺の悩みに真剣に悩んでくれるだけで何故か嬉しい気持ちになった。
「幸せな悩みじゃないですか」
闇に吸い込まれた静寂の公園でその言葉が木霊する。声量も声のトーンも、何一つ変化がないのに、その言葉は胸の中枢にまで響いた。寝ぼけているときに銃声でも聴いたみたいに、俺の脳は驚いている。
「なんでしょう。私が思うには、掛橋さんのことを好いてくれる人がいる、それだけで少し幸せ者じゃないかなって思うんです」
麻衣の発する言葉には頷くことしか出来ない。
「決して掛橋さんを責めてるわけではないんです。目の前にあるものが幸か不幸か、それは私には分かりません。神さまじゃないですから。ただ、取捨選択を間違えてほしくないなって思うんです。引き寄せの法則があるみたいに、嫌いだと思う人を邪険に扱ったら、今後好きな人に嫌われることだってあるかもしれません。だから、何事も高望みはせずフラットに接してあげれば、信じてあげればいいのではと思います」
昔の俺なら、麻衣の言葉のどこかで歯向かっていたのかもしれない。でもすんなり受け入れているのは、その通りすぎるからだと思う。俺は高望みする人をを嫌っていたのに、その高望みをしている愚かな人間だっていうのを教えてくれた。
そんな考えができる麻衣はかっこいい。
そう考えると、俺もどこか人を見下しているときがあったのかもしれない。どこかで自分の方が偉いと思ったことがあるのかもしれない。誰も教えてくれなかったわけではない。話を聞こうとする姿勢をいっさい取ってこなかったからだと、思い返せばすぐ気づくことだ。どうせ早いうちにこの世界からいなくなるのだから、一生懸命になっても仕方ないと思いながら生きてきた。その結果、自分の嫌いな自分が出来ていたみたいだ。
「すみません偉そうな口をきいてしまって。そろそろ帰りますか」
そう言うと麻衣は立ち上がった。見上げると、後光のように街灯が麻衣を照らしていた。改めて麻衣のスタイルは際立って美しいと感じた。
ボーッと麻衣の顔を見ていると、どうしてこの子がセンターじゃないんだろう、と思う。完全な主観だが、西野奈々未よりスタイルも良くて顔も良い。そして店長が言うには、ダンスや歌は上手い。西野奈々未に劣る理由は、バラエティ能力にあるのだろうか。でもそれは違うような気がする。だって、西野奈々未は結成当初からずば抜けて人気だった。その理由を、論理的に俺は知りたい。
そのとき、店長が言っていた言葉が他の思考を遮って通過する。
――スター性には敵わないんだ。
この正体は、一体何なんだろう。スター性という単語はよく聞くけど、実態は誰も知らない。誰かが根拠を明かさずにスターだと言えば、こぞって皆がスターだと言う。ただこれを解明したところで何もできない。ただ自分の無力さを実感するだけだ。
「なにしてるんですか? 行きますよ」
「ごめん、考え事してた」
ひとまずそのことは忘れ、また歩き出した。麻衣はまだ歩き足りない、あるいはまだ欲求が満たされないのか、家に帰るつもりはないようだ。人通りの少ない道を選んでいる。誰かに見られたり週刊誌に撮られたり、と面倒くさいことが起きないか、と俺は心配した。
「掛橋さん」
先頭を歩きながら麻衣は言った。
「どうした?」
「実は、掛橋さんに隠していることが――」
だがその瞬間、こちらに向かって手を振る女性がいる。俺には心当たりがないが、麻衣が小さく手を振り返している。その様子から週刊誌ではない。さっきの話を聞く限り、麻衣に友だちはいないはずだから、メンバーなのだと察した。
隠していることは、なんだろう。それを訊く空気ではなくなった。
その人は駆け足で勢いよくこちらに近づいてくる。俺の方を一瞥もせずに勢いよく麻衣の手を握った。
「ライブ以来だよね。麻衣ちゃん元気?」
「元気だよ。優里も相変わらず元気そうだね」
そして彼女は俺の方に視線を向けてきた。柔和な目に少しだけ鋭さが混じって、心臓が一度大きく跳ねあがった。
「なに、あんた。麻衣ちゃんの彼氏?」
違います、と否定しようとすると、先に麻衣が「違うよ」と言った。
「だよね、麻衣ちゃんがそんな道理に外れた行動とるわけないもんね」
麻衣は彼女の肩を抱き、こちらを向いた。ほんの少しだけ麻衣より背が高い。首元にあるほくろが色気を放っている。
「ご存知か分かりませんが、同じメンバーの吉川優里です。私は優里って呼んでますけど、あだ名はゆっちゃんです。三個上ですけど同期で、割と仲良いメンバーです」
「割とって、相変わらず棘あるなぁ」
彼女は麻衣とは正反対の、活気ある性格に思える。彼女のことは何も知らないが、自然とそう思える。活気あるように見えるのは、耳が見えるほどのボーイッシュの髪形、膝が丸見えのダメージジーンズ、さらに全部で十本ある全ての指に銀色の指輪がはめられている。これらが勝手にそういう印象を抱かせるのだと思う。
そして彼女を観察して、あることを思い出した。
――俺も『吉川優里』ってやつの友だちなんだよね。ここだけの話、そいつの元彼なんだよね、俺。
この人は、あのライブで隣になった鈴木さんの元恋人。その情報を頭の片隅に置きながら、二人の会話に耳を傾けた。
「勘違いされても言い訳できるようにしなさいよ? ただでさえ週刊誌というストーカー悪魔がいるんだから。このご時世、簡単に炎上するんだから」
「大丈夫だよ。私だってまだまだアイドルとして活動したいから」
「そうだよねー。あれ、明日って現場一緒?」
「明日は、確か『千円で商店街を楽しもう』、みたいな撮影だよ」
「あ! 一緒じゃん! 楽しみぃ。あ、あとあれだよね。三日後の私のライブ配信の翌日って麻衣ちゃんだもんね」
「そうだよ。久しぶりだね、連日になるなんて」
「そうなの! 今から楽しみなんだ」
会話に置いてけぼりになっている俺を気にしたのか、二人は会話を止めて、にわかの俺にも分かりやすい説明をしてくれた。ちょっと余分な説明が多かったが、要は、流渓橋37のメンバーとお話してる雰囲気を味わえるライブ配信のようだ。投げ銭機能の説明はよく分からなかったが、人気の優劣がここでもつくみたいだ。
「宿題、何やってもらおうかな? 過激なのがいいかな?」
彼女は体をくねくねさせながらむっつりした笑みを浮かべる。
「やめてよ、無難なやつがいい」
「じゃあそのときまでのお楽しみね」
「怖いなぁ。優里は普段から何考えてるか分からないからなぁ」
「失礼だなー、考えてるよ。なぜなら私は麻衣ちゃんのあんなことやこんなこと全部知ってるもんね。それに最近は色々あったから、麻衣ちゃんにはもっと私の側にいてほしいなって思ってるよ」
今の会話から、西野奈々未を惜しんでいるようなことが伝わる。メディアに絶対的エースと呼ばれるほどの存在が抜けることの喪失感は、メンバー間でも飛びぬけて大きいのだろう。
麻衣に向けていた微笑みを消して、彼女は俺を見た。
「あなたも、一線を越えたらダメだよ?」
寂し気な声で、威嚇するような目でそう釘をさす。
そんなこと言われなくても分かっている。アイドルになる前に彼氏と別れた彼女は、たぶんマジメで、堅実な人なんだと思う。そんな彼女からすると、信じてくれる要素が見つからないのかもしれない。まぁ、こんな俺を簡単に信用する方がおかしいが。
「超えませんよ。迷惑にしかなりませんから」
俺がそう答えると、よろしい、とでも言うような顔をして腕を組んだ。
「あなたと麻衣ちゃんがどんな関係なのか追求する気はないけど、麻衣ちゃんの迷惑になるようなことは絶対ダメよ。私にとって麻衣ちゃんは妹みたいな大切な存在なんだから」
「分かってます。俺にとっても、大切な人ですから」
彼女は笑みをこらえきれずに吹き出し、握りこぶしを俺の肩にぶつけてきた。
「じゃあ夜も遅いから気を付けてね、特に週刊誌。あんな性格悪いストーカーみたいなやつらに捕まんないでよ?」
「うん、ありがとね」
彼女が去ってからというと、麻衣は家に向かって歩き出した。俺も追いかけるように後をついて行った。
いつもの古びた街並みが新しく見える。この世界を嫌いになっていたはずなのに、少しだけ明るく見えて、何かが起きる、そんな小さな期待をできるようになっていた。
先が見えない真っ黒な闇に向かって歩いている麻衣の行く先は、未だ分からない。ただ、それが芸能界で、現実のアイドルが生きる世界。闇夜に浮かぶ一本の綱を渡るように、一歩踏み外せば落ちていくばかり。そんな世界で生きている麻衣や優里、他の【じゃない方アイドル】には、尊敬の念が消えない。
だからこそ思うのは、西野奈々未はどんな世界を見ているのだろう、ということだ。同じアイドルでも、彼女から見える景色というものは眺望絶佳なのかもしれない。どこを切り取っても幸せそうな情景が目に浮かぶのだが、彼女はそれを幸せと捉えているのだろうか。いや、捉えているのだろうけど、たぶん、全然違う。西野奈々未の思う幸せと麻衣の思う幸せが釣り合うことは到底なさそうだ。
そんな麻衣の後ろ姿は、なんだか凛々しく見える。いくつもの難関を乗り越えてきた背中が勇ましい。
「なぁ麻衣」
麻衣は突然呼びかけられてビクンと肩を震わせる。そして身体を翻す。
「なんですか?」
「麻衣は、いま幸せか?」
「突然どうしたんですか?」
確かに突然な質問だったが、話すように促すと、麻衣は話し始めた。
「私は、たぶん幸せだと思います。アイドルとして続けられることも幸せですし、人気の無い私を応援してくれるファンがいることも幸せですし、久しぶりに会った同級生が元気そうなのも幸せです」
「……最後のは俺か?」
「それ以外に誰がいるんですか」
「……ごめん。質問の続きだけど、その幸せを捨ててまで掴みたい〝何か〟ってあるか?」
「んー、ないですよ。その幸せを捨てるなんてばちあたりなことできませんし、何かを失ってまで欲しいと思う貪欲さは、今の私にはありませんから」
麻衣は単に謙虚なのか、今の自分の地位を知っているから高望みをしていないだけなのか。
それに麻衣が何気なく言った、失ってまで欲しいと思う貪欲さ、そう考えられるということは幸せを大切にしている証拠のような気がする。
「じゃあもう一つ質問するけどさ、グループの看板を消してフラットな状態で芸能界に飛び込むのって、どうしてだと思う?」
「奈々未のことですか?」
違う、とは答えられなかった。
「掛橋さんの疑問は当然だと思います。私だったらそんなこと絶対にしませんもん」
「じゃあなんでそんなことするんだろうな。軌道に乗ってさらに人気が出るだろうアイドルグループだから、今のまま活動すれば三年は確実に安泰で、給料もたくさん入るだろうに。個人名だけだったら番組の露出も減ったりするんじゃないのか?」
「その通りだと思いますよ。アイドルグループの名前でドラマに出ることも稀じゃないので。でも卒業後もファンはついていきますから、短命ではないと思います」
「だったらなおさら続けた方がいいと思うんだけどな」
「最高の幸せを掴めば、もっと上を目指したくなるものなのだと思います。活動の幅を増えますし、よりやりたいことができるのかもしれません。まぁ、私たちには分からないことだと思います」
最後の麻衣の一言に、思わず笑ってしまった。
「そうだな」
麻衣もくすりと笑い、再び前を向いて歩きだした。
「ここじゃないどこかに行ってみたいですね」
「行けるのなら、俺も連れて行って欲しいよ」
俺たちは満月に願い事をするみたいに、それを見つめながら歩いた。俺たちには分からない登り詰めた先に見える世界に連れて行って欲しい、と。