麻衣の弱点
目が覚めたのは、シフトの一時間前だった。慌てて顔を洗い、着替え、歯を磨き、バイト先に向かった。慌てて走っている俺を見て、何をそんなに焦っているんだろう、という目で見られている気がして、少し走るスピードを緩めた。
バイト先に着くと、真っ先にあの後輩が話しかけてきた。
「先輩がこんなギリギリに着くなんて、明日は雪ですね!」
無視はさすがにかわいそうだと思ったから、適当に返事をしてあしらった。
日曜日の昼は家族連れや学生カップルといった客が多く、比較的忙しい。だが夜と比べると客は常識人が多く、慣れればただの流れ作業だ。
客足が少なくなったこと、それにもう一人バイトが来たため、三十分ほど休憩に入ることになった。運悪く、あの後輩も一緒だ。
休憩中、ニュースアプリを眺めていると、昨日のライブについて記事になっていた。
〈シェイドライブ、逆境にいる彼女たちの下剋上ライブ!〉
タイトルから悪意がまみれている気がする。週刊誌側としては、そういう見出しで釣って読者を増やしたいのだろう。
「あ、流渓橋じゃないですか」
いつの間にか隣にいる後輩が、俺のスマホを覗きながらそう言った。相変わらず恥ずかしげもなく体を密着させてくる。
「先輩がアイドルのニュース見てるなんて意外中の意外です。しかもシェイドライブなんてもっと意外です」
後輩の話し方はかなり鼻につくし、どこか他人をバカにしてる雰囲気があるのが本当に嫌いだ。だが後輩が『流渓橋37』についてどう思っているのか、少し気になった。
「知ってるのか?」
「知らない人いないですって。西野奈々未ちゃんマジで美人でかわいくて面白くてスタイル良くて、あんな人で生まれたら苦労なんて無いんだろうなって思います。先輩は誰推しとかありますか?」
推し……。推しという言葉も最近覚えたから、どういう意味だったか思い出すのに少し時間がかかった。
「ま、えっと、橋掛麻衣、かな」
「え、誰ですか?」
誰ですか。脳を殴られたような衝撃だった。
世間一般で言うと、麻衣の認知度は低いのかもしれない。でも分かってくれると思ったから俺は麻衣の名前を出した。でも後輩は、誰ですか、と言った。俺はその言葉に憤りを覚えた。相変わらず、自分が世界一かわいいみたいなオーラを放つ後輩には反吐が出そうになる。早く俺の前から消えてほしい。
「先輩ってけっこうマニアックなところも知ってるんですね、かわいい」
後輩の言葉を受けて、マニアックという言葉は、鋭利なのだと知った。
この人は人を苛つかせる天才だと改めて思う。俺がバカにされるのは良いが、麻衣まで被害が侵食しているのは腹が立った。正直、殴りたかった。こいつが喋られなくなるまで潰したかった。でも倫理的にそんなことをしてはいけないから、俺は仕方なく、逆質問をした。
「逆に、誰推しとかあるの?」
「やっぱり西野奈々未ですよ。あんな完璧女子に憧れない人はいないですから」
誰だって知っているよ、そんなの。
この人はファンでも何でもない。ただ西野奈々未に憧れている人だ。
少しでも味方がいると思った俺がバカだった。
「あ、先輩。この前の約束覚えてますか?」
ゴミ箱の底に入れた記憶が呼び戻される。デートをする、ということを。
「休みが合う日に行きましょう! 絶対楽しいですから!」
断りたいが、借りがある。人としても女としても好きじゃない人とデートなんて、本当に憂鬱で最悪だ。
逃げることはきっと可能だ。でもそうすると、後日からもっと鬱陶しくて面倒くさい後輩になるのだと思うと、ここで片付けるのが最善の策だと思った。
「分かった、日程は任せるよ」
「了解しました!」
そう返事をした後、後輩は店長に呼ばれて休憩部屋を出た。出る際こちらに投げキッスをしたみたいだが、見て見ぬふりをした。向こうは、その反応もプラスに捉える程、俺のことを好いているみたいだ。これを理由にここのバイトを辞めようと考えたこともあるが、現実的ではないからあっさり却下した。
後輩が出て行って間もなく、入れ替わりで店長が休憩部屋にやってきた。お疲れさまです、と挨拶を交わすと、「流渓橋好きなんだって?」といきなり言われた。あいつが言ったんだ。
店長相手に適当にあしらうわけにはいかない。
「少しだけですけど」と俺は答えた。
すると店長は俺の隣に座り、「僕は大ファンなんだよね」と言った。その表情はいつもより微笑みが増している。
「誰推しなんですか?」
それは愚問だよ、とでも言うような顔で首を振った。
「箱推しだから、誰が一番好きとかないよ」
「箱推しってなんですか?」
「グループが好きってこと。僕は彼女たちの曲に惹かれてファンになったからね」
まるで他の人は顔やスタイルなどのファンが多い、みたいな言い方だった。
「掛橋くんは、推しがいるのかい?」
ここで同じ過ちをしたくないと思ったのだが、この人なら分かってくれる、という期待が出てきてしまった。
「橋掛麻衣さんが推しです」
「あー、麻衣ちゃんね」
この反応から、顔と名前が一致していて頭の中に麻衣が浮かんでいるのが分かる。それだけで嬉しかった。
「あの子は歌も上手くてダンスも上手いし容姿端麗、そこだけ見れば誰にも敵わないよ」
そこだけ、という言葉が奇妙すぎて引っかかる。
「どういうことですか?」と無意識に俺は訊いた。
「専門家じゃないけど専門家みたいなこと言うけど、ごめんね。まず、流渓橋37の冠番組があるんだけど、それはバラエティ番組なんだよね。MCを担当する芸人も相当腕のある人だから、出番さえあれば笑いに変えてくれるはずなんだ。だからそこで目立ったり笑いをとったりすればファンが増えたり仕事が増えたりするんだと思う。でも麻衣ちゃんはバラエティ番組であまり映らないんだ。とはいうのは、人気企画に呼ばれていないのが原因なんだと思う。運動音痴企画、家族アンケート企画、バレンタイン企画、学力テスト企画、お絵描き企画、ドッキリ企画、それらに一度も出たことがないんだ。ああいう企画って、西野奈々未とか他の人気メンバーが次々と爪痕を残すんだ。それで麻衣ちゃんはさ、僕も勝手な予想だけど、きっとどれも卒なくこなしちゃうんだと思う。ほら、ああいう企画って極端に下手だったり、頓珍漢なこと言ったりするのが面白いわけじゃん? もちろん、狙ってやればそれは才能だけど、普通はないだろうからね」
情報過多ではあったが、店長の言葉だからか、すんなりと頭に入って理解することができた。
「そういうもんなんですね」
「でもね、麻衣ちゃんみたいな事例って珍しくないんだよ。歌やダンス、容姿がどれだけ良くても、スター性には敵わないんだ。そこから逆転するには何が必要か、誰も分からないと思う。本人だって分からないと思う。結局は人気あるメンバーが引っ張って色んなテレビや雑誌や映画に出て、その結果、人気メンバーの人気だけがさらに上がるだけで、下にいるメンバーに目は届かないんだ」
店長の言っていることはよく分からないが、きっと正しいのだろう。例えば西野奈々未が他所のバラエティやドラマに出ると、その人の株しか上がらない。グループの知名度は上がるが、それと比例するのは、流渓橋37といえば西野奈々未というイメージが強くなってしまうことだ。
人気なメンバーが外番組に出て収穫するのは、グループの知名度と自分のファン。この負け戦にどうやって勝てばいいのか、光が全く見えない。
「だから、今は日陰にいるかもしれないけど、腐らないで欲しいんだ。いつか日向になる日を信じて、これからも麻衣ちゃんは頑張ってほしいんだ」
「本当そうですね、頑張ってほしいです」
「でもよかったよ。掛橋くんも人間らしいところあるんだね」
そう言って、店長は目を細めながら、タバコ臭いため息をついた。頬がふっくらしていてアンパンマンみたいな顔なんだと、今気づいた。
「……急にどうしたんですか?」
「いつも生気を失ったような目で働いてるからさ、気にかけてたんだよ。でも軽々しく話しかけられないし、話すきっかけもないから、見守るくらいしかできなかった。でももう大丈夫そうだね、これからもよろしくね」
店長はそう言って休憩室を後にした。
生気を失ったような目で働いていたのは自覚がある。生きる意味もなければ働く意味もよく分かっていなかったからだ。でも変わったのは、酩酊状態の俺を助けてくれたあの日からだとつくづく思う。
休憩時間が終わり、仕事に戻る。目障りな後輩にまた近寄られ、デートの日程について矢継ぎ早に言ってくる。
後輩とのデートを億劫に感じながら、仕事をこなした。