廃校にて
御剣弥命が、知り合いの不磨から廃校で居酒屋を開業した便りを受け取ったのは、夏も終わる頃のことだった。
「廃校の一部を改装して居酒屋を作るなんて、凄いですね」
「まさか廃校とはね」
とある廃校の校舎内。
一階の端が、その居酒屋だった。元は家庭科室だった場所で、盾護旭は感嘆の声を上げる。
耳が隠れるほどの長さの天鵞絨色の髪。穏やかに笑む顔は、儚げな美しさがある。白のティーシャツにデニムパンツ、深緑のカーディガン。その捲くられた袖から覗く腕は、白く華奢で、女性のようにも見える。
周囲の客は、ちらちらとその横顔を見ていた。
対面に座る叔父の御剣弥命は、微かに笑いながら頬杖をついていた。青い髪に無精髭。紺色地に桃の花模様の柄シャツに、黒のスラックス。左耳には、朱い大きな金魚のピアスが揺れている。
自分たちに向けられる好奇と下心を含む視線を、時折散らす凶悪な眼光。旭はそんなことには気付かず、のんびりとメニューを見ていた。
閉店後。
不磨がやって来た。
茶髪で、ひょろりと背の高い中年の男。灰色のシャツに黒のエプロン姿の不磨は、場所も相まって先生に見えた。弥命は不機嫌そうに、その顔を見る。
「校内にお化けがいるか見ろとか言うから、開業祝いなのに酒飲めなかったじゃねぇか」
不磨は、途端に涙目になる。
「だって、旧校舎怖いんだもん!」
「旧校舎?」
旭が聞くと、不磨は頷いた。
「ここの裏に旧校舎があるんだけど、廃校になる前からお化けが出るって」
「何で、ここで店開いたんだよ……」
弥命は呆れた顔で不磨を見た。
「後から知ったの!」
不磨が叫んだ直後。
外から、複数の足音と喧騒が聞こえた。方角的には、旧校舎の方。楽しげに笑う声は、緊迫感はなく、遊びに来たような雰囲気。
一旦、声と足音が止む。それからしばらくして、大きな衝撃音が聞こえた。三人はギョッとして、音のした旧校舎の方を見る。
「何なに!?」
不磨が飛び出して行く。
「おい、不磨!」
弥命と旭は一瞬顔を見合わせ、不磨を追って駆け出した。
三人が旧校舎の前まで来た時、その昇降口から男女数人が飛び出して来た。
皆泣き叫び、三人には目もくれず逃げて行く。
不磨は、中から声が聞こえることに気付き、近付いた。
「不磨、近付くな!」
弥命が駆けて行き、不磨を昇降口のドアから離す。入れ替わりにドアの前に立ってしまった弥命の前で、それが、中から勢い良く開いた。恐怖に歪んだ顔の男が、弥命の腕を掴み、中へ引っ張り込もうとする。バランスを崩した弥命の、もう片方の腕を掴んだのは、旭だった。
旧校舎の中は、暗闇。その闇が、男と共に弥命を半分以上飲み込んでいる。
(ぐっ……強い……)
振りほどこうとした動きを止め、弥命は自分を引っ張る旭を見る。考えたのは、一瞬だった。弥命は短く叫ぶ。
「旭、手離せ!」
旭は昇降口の向こうの闇と、弥命を見比べた。掴む手に、更に力を込める。
「絶対、嫌です……!」
「旭!」
弥命が叫んだ瞬間。闇は二人を飲み、旧校舎の中へ引き込んだ。
暗闇の中、弥命は気を失った旭を抱えながら、共に落ちて行く。
その腕の中で、旭の身体が青白く光り、小学校高学年ほどの背丈になる。闇から、その旭に触れる青白い手が現れ、徐々に中学生ほどの少年の姿が露わになった。弥命は、それを凶悪な眼光で射抜く。
「お前、旭に何しやがった」
「すまない……あいつを封印するまで、」
少年は言いかけて、消えてしまう。弥命の視界が歪んだ。
(どうなってる、この学校)
小さな旭を抱える手に力を込めたまま、弥命は意識を手放した。
旭は、階段の踊り場で一人目を覚ました。
「ここ……どこ」
立ち上がった目の前の壁には、鏡が掛けてある。鏡に映る自分に、愕然とした。
「子ども……?」
小学校高学年ほどの少年になっている。五分袖のパーカーに、七分丈のパンツ姿。
(これ、夢?)
少女のようにも見える少年は、冷静に己の頬を引っ張った。
「……痛い。夢じゃないのか」
旭は息をつくと、改めて辺りを見渡す。
「弥命叔父さん?」
弥命を呼びながら、旭は記憶を辿る。
(真っ黒な何かに叔父さんと引っ張り込まれて、それから……覚えてない)
「ここ、旧校舎の中なのかな」
校舎内は、薄暗い。静かで、近くに人の気配も無かった。
(とにかく、叔父さんを探さないと)
旭は、階段を下りる。
すると、今下りて来たばかりの階段から、女の笑い声が聞こえた。
旭が振り向くと、赤いドレスを着た女が、笑って旭を見下ろしている。
「え。う、わ」
女は、踊りながら階段を下りて来た。
その異常さと速さに、旭は廊下を駆け出す。
肩越しに振り向くと、女が踊りながら滑るように追って来るのが見える。
(どこかに逃げなきゃ)
考えながら走る旭の腕を、横から誰かが不意に掴む。旭が確かめる前に、廊下にあったロッカーに引っ張り込まれた。
後ろからすっぽりと抱き込まれ、口を塞がれた旭は、恐怖と混乱で固まる。そんな旭の耳に、よく知った声が囁いた。
「旭。俺だよ、俺。弥命。動くなよ」
旭は目だけで、背後を見上げる。朱い大きな金魚が見え、煙草と柑橘の香りが鼻を掠めた。
(弥命叔父さんだ……)
緊張が少し抜けた瞬間、女の笑い声が響く。
再び、旭の身体が強張った。女は踊りながら、ロッカーに近付いて来る。
鉄の薄い扉一枚の向こう。直ぐ目の前に、いる。
微かに震える旭に気付いた弥命は、旭を引き寄せ頭を軽く撫でた。外を窺う弥命の、いつもと変わらぬ様子の胸の鼓動を感じる内、旭は落ち着きを取り戻す。
結局、女はロッカーを開けることなく、離れて行った。たっぷり時間を置き、弥命はロッカーを開ける。外に出て、二人はどちらからともなく息をつく。
「ありがとうございます、弥命叔父さん」
「怪我は」
「無いです。あの。僕だって、分かってくれるんですか」
旭の言葉に、弥命は一瞬不思議そうな顔になったが、直ぐに笑い出した。
「分かるに決まってんだろ。俺は、旭がその姿にされたとこ見てるしな」
笑う弥命を見、旭はホッとしたように息を吐く。
「僕、何でこんなことになってるんですか?」
旭の問いに、弥命は顔を曇らせる。
「それは分からん。やったやつ、中学生くらいの少年だったが、訳分からんことしか言わなかったからな」
弥命がそう言った時。
二人の背後で足音がした。旭と弥命は、弾かれたように振り向く。
少し離れた位置に、一人の男が立っている。
ラフな格好の若者。その姿は真っ黒な影に覆われていて、旭の全身が総毛立つ。
「出たい……何で俺だけ……」
そう呟き、呻き声を上げたと思うと、二人に向かって走って来た。弥命は、旭の背を叩く。
「走れ!」
呆然と男を見ていた旭は、それで我に返り、弥命と並んで駆け出す。
廊下を走り、突き当たりの角を曲がろうとして、旭に衝撃が走る。全身を無数の白い手に掴まれ、近くにあった教室に引き込まれた。
「うわ、」
叔父さん、と叫ぼうとした口も塞がれる。弥命は何故か、そんな旭に気付かず階段を下っていった。その後を、あの男が追って行く。
(どうして……)
旭を教室に入れると、白い手は消えた。
「大丈夫?」
後方のドアの側にいた旭は、声を上げて振り向く。
「わっ!え、君は、」
白いブラウスに、ピンクのスカート姿の少女がいた。今の旭と変わらないほどの背丈。
肩ほどの長さの黒髪を揺らし、困ったように笑っている。
「私、六年二組の籠目シオリ。あなた、どうしてこんなところにいるの?」
その声に、旭は息をつく。
「僕は、盾護旭。叔父さんとこの校舎に入っちゃって、出口を探してるんだけど」
旭がそう言うと、シオリはパッと笑顔になる。
「それ、私もついて行って良い?」
「もちろん、良いよ」
答えながら、旭は違和感を覚えていた。
(この子、なんかおかしいような)
「旭くんは六年生?見たことないけど、よその学校の子?」
シオリの言葉に、旭はドキリとする。
「えっ!?……うん、六年生だよ。ここには初めて来て、よく分からないんだ」
(そうだった……僕、今小学生くらいの姿だった……)
自身を眺めて溜息をつく旭を、シオリは気にする風でもなく見、にこりと笑う。
「そっか。昇降口は、こっちだよ」
「ありがとう」
二人は教室を出て、階段を下りる。
昇降口が直ぐに見えた。だが、直ぐ後ろにいたはずのシオリが居ない。
「あれ!?シオリちゃん?」
旭は辺りを探したが、見つけられない。隠れられる場所もない。旭は一旦諦めて、昇降口のガラスのドアに手を掛ける。だが、びくともしない。
「開かないか……」
旭は少し考え、辺りを見渡す。古ぼけた消火器が転がっているのを見つけ、それを手に取った。
(う、重い。この身体じゃ、やり辛いな)
旭は息を吸い込み、渾身の力で消火器をドアに叩きつける。だが、何かに弾かれたように消火器は旭の遥か後方へ飛んで行き、ドアにも傷一つつかない。
「うわ、」
反動で膝をついたが、旭は直ぐ立ち上がり、廊下にある窓へ近寄った。
鍵を開けて手を掛けても、やはり動かない。今度は椅子を当てたが、やはり割れることなく弾かれる。
(どうなってるんだろう)
旭は、窓を見つめて考えを巡らす。
ふと視線を感じて、旭はその方を見た。そして、息を呑む。
白いマスクに、黃色のキャップを被った男が、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。
「俺は、よだそうだ!さかさまだ!」
突然、そう声高に叫ぶと、男は旭に向かって走って来た。
「ええ?」
叫ばれた言葉の意味を考えてしまい、旭は一瞬固まる。だが、男が鎌を持っているのを見つけ、反射的に駆け出した。
(どこに逃げれば……)
その言葉に答えるように、声が聞こえた。
「向こうに体育館があるよ」
「シオリちゃん?」
旭は、その声がシオリのものに聞こえて、辺りを見渡す。だがやはり、誰もいない。
言葉通り、進行方向に校舎から体育館への渡り廊下が見えた。渡り廊下を渡り切ったところで、旭は躓いて転ぶ。起き上がって振り向くと、叫ぶ男が、直ぐそこにいた。
(よだそう、って何だ……?)
立ち上がって走るには、遅すぎた。旭は男を見上げる。ぎらりと、男の振り上げた鎌が光った。旭は、強く目を閉じる。
「――お前は、『うそだよ』!とっとと消えろ!」
鈍い音がした。旭は、ハッと目を開ける。
見上げた視線の先。朱い大きな金魚を揺らした弥命が、旭を見下ろして不敵に笑っていた。
男はもういない。
弥命は、握っていた拳を開いて振る。一発見舞ったようだ。
弥命は、立ち上がった旭の頭を雑に撫でる。
「引き離されたな。怪我は」
旭は安堵して、詰めていた息を吐き出す。
「無いです。叔父さんも無事で良かった……『よだそう』って、そういうことだったんですね」
弥命は、くつくつと笑った。
「対処法が分かりやすくて、助かるね」
旭はこれまでのことを話し、体育館に向かっていたことを話すと、弥命は頷いた。
「ドアと窓、俺も破ろうとしたよ。やっぱダメだよな。……体育館か。体育館も、怪談の定番中の定番だが」
笑いながら言う弥命を、旭は呆れたような顔で見上げる。
「面白がらないでくださいよ……」
「雰囲気から怪異から、こうもベタだとね」
体育館に着き、重い鉄製の扉を弥命が開ける。
体育館の中は静かで、妙にひんやりとしていた。
弥命は、奥にある倉庫の前を見、視線を鋭くする。
そこには、中学生くらいの少年とシオリが立っていた。
「シオリちゃん?」
「旭くん!」
旭と弥命は、二人の元に近付く。弥命は、少年を睨んでいた。
「お化けに追いかけられてたら、ヨツトキさんが助けてくれたの」
「ヨツトキさん?」
旭が聞き返すと、少年が頷いて、旭と弥命を見た。
白いワイシャツ姿は、制服のようにも見える。
「僕が、ヨツトキだ」
名乗った後、ヨツトキは旭を見る。
「君をその姿にしたのは、僕だ。すまない……。僕は今、実体を持たない怪異で、実体を得る為に、君の『時』を借りた」
旭は目を丸くして、ヨツトキを見ている。
ヨツトキは、続けた。
「今夜、この校舎にある三面鏡の封印が、外から入った人間の手で解かれたんだ。それを封じ直す為には、実体が必要だった」
旭は言葉も無い。弥命は、ヨツトキを睨みながら口を開く。
「何故、俺ではなく旭の時を?」
ヨツトキは、困ったような目で、弥命を見た。
「あなたは、守られているから。封じ終えたら、この『時』は、ちゃんと返す」
弥命は、不満そうに舌打ちした。旭はヨツトキを見て、ようやく頷く。そんな三人を不安そうに見ていたシオリは、恐る恐る口を開く。
「家庭科室の三面鏡、って七不思議があるよ。悪霊が住んでるんでしょ。鏡の扉を開けると、中に連れて行かれるって」
ヨツトキは頷いた。
「その三面鏡だよ。今夜、封印を破った人間を取り込んで操り、暴れている。破られることは、無いと思っていたのに」
旭はそんなヨツトキを見つめ、静かに尋ねた。
「君は、どんな怪異なの?」
ヨツトキは三人をぐるりと見回し、両手を少し上げる。その足下に、紫色に光る時計盤のような魔法陣が浮かんだ。黒い瞳が、紫色に光る。
「僕は、この学校の子どもたちが名付けた怪異『四時四十四分の怪』だ」
シオリは、その紫色の瞳を、ただじっと見つめていた。
弥命は不機嫌そうな顔のまま、口を開く。
「最初に、俺と旭を追って来た若い男。あれが、封印を破った人間だろうな。旧校舎から飛び出して来た奴らの仲間だろ」
「叔父さんを、中に引っ張り込もうとした人ですよね」
「多分、もう命は取られてんだろうが。どこまでも、迷惑なヤツだ」
シオリが、不意に旭の袖を引く。
「ねぇ、旭くん。上……」
「上?」
シオリが天井を見上げ、旭も思わず上を見た。弥命とヨツトキも。
薄暗い天井。
バスケットボール大の目玉が一つ、ぎょろりと四人を見下ろしていた。
目玉は、床に音を立てて落ちる。シオリが悲鳴を上げた。
目玉はひしゃげる。
どろりと広がる黒い液体が旭とシオリの足下に来ると、あっという間に二人を飲み込んで消えた。
「旭!」
「シオリ!」
名前を呼ぶ弥命とヨツトキの頭上で、声がする。見上げれば、また巨大な目玉があった。
「久しぶりの、人間ダ」
ヨツトキが、目玉へと何かを飛ばす。それは時計の秒針のような紫の光で、目玉を貫いた。笑い声を残して、目玉は消える。
「……二人は恐らく、家庭科室だろう」
ヨツトキは、無感情に呟いた。そのまま歩き出す。
足早に、弥命も進む。ヨツトキは、ちらりと弥命を見た。
「……あなたと旭には、約束事が見えた。それが、この空間であなたを守っている」
「知ってる」
不機嫌に、弥命は答える。ヨツトキは、独り言のように話し続けた。
「三面鏡の悪霊は、外から来て棲み着いたモノだ。子どもたちの語りと混じり、この学校の誰の手にも負えない存在へ変化した。人、怪異問わず犠牲が出たし、人間が撤去しようとしても、不幸が起きた」
「……だから、封印するしかなかったと?」
「そうだ。昔、まだ実体化出来るほどの力があった時、僕がそうしようとしてた。僕は、その話の性質上、四時四十四分にならないと力が最大にならない。でも、丁度その時刻に。忘れ物を取りに来ただけの六年生の少女が一人、犠牲になったんだ。僕は少女ごと、三面鏡を封印した。それで、三面鏡は大人しくなった。廃校間際で、最後の犠牲だったよ」
「その少女ってのは、」
弥命は、もう答えを知っているように呟いた。
ヨツトキの声が、やや沈む。
「籠目シオリだ」
弥命はただ、溜息をつく。
ヨツトキは、もう何も言わなかった。
旭とシオリは、家庭科室で目覚めた。
二人以外には、誰もいない。
旭は、そのことに安堵する。三面鏡があると聞いていたが、今は静かだ。
(三面鏡、どこにあるか分からないな。でも、今は)
旭は、座り込んで泣くシオリの隣で背を擦りながら、黙って見守っていた。
「……旭くんは、小学生じゃないの?」
泣き声が止み、ぽつりとシオリが呟いた。旭は、困ったような顔で頷く。
「うん。本当は、大人なんだ。嘘ついて、ごめんね。信じてもらえないと思ったから」
「ううん。私も旭くんみたいになったら、同じことしたと思う」
シオリはポケットから、小さく畳んだ紙を取り出す。広げた中には、子どもの字で『お姉ちゃんがげんきになるおまもり』と書かれている。シオリの目が、優しくなった。
「妹が作ってくれたんだ。美織、っていうの。明るくて元気で、私にお守りを作ってくれる、優しい妹。怖い時、これを見ると元気になるんだよ」
「優しいお守りだね」
旭が微笑んだ。シオリは、嬉しそうに頷く。
その時。
シオリの手の中で、お守りが淡く光った。
目を見張ってそれを見ていた旭を見、シオリは立ち上がる。旭も、不思議そうな顔で倣った。シオリは無理やりな笑みを作る。
「旭くん。私、本当はね……ずっと昔に、死んじゃってるんだ」
「え?」
不吉な予感が確信に変わった嫌な感覚が、旭の胸に広がる。
「三面鏡の悪霊に、やられちゃったんだと思う。あんまり覚えてないけど。夏休み前の放課後にね、忘れ物、取りに来たんだ。そしたら、いつも閉じてるはずの三面鏡が開いてて。……あんな風に」
す、とシオリが指差す。旭はハッとして、その示す方向を見た。
隅の壁に、古い三面鏡が隠すように掛けられている。両側の鏡面が、カタカタと開閉を繰り返している。やがて、壊れそうな勢いで全開になった。
中から、若い男が出て来る。男は影に覆われ、その影から無数の細長い手が伸びていた。
男は、ゆらゆらと揺らている。
「何で……ちょっと肝試しで……鏡触っただけじゃん……何で俺が……何でだヨ……あいつらは逃げられたのニ……」
その恨み言を聞いて、旭は確信する。
(やっぱり。あの時、旧校舎に入った人なんだ)
男は急に、顔を旭たちの方へ向けた。
「あァ、忌々しい封印が、やっと解けタ……久しぶりに人間を飲み込めル……」
男の口から、別人のような声がした。
黒い手が、近くの作業台に上げられていた椅子を薙ぎ払う。
旭はシオリを背に庇いながら、ドアの方へ後退する。旭の服を掴み、シオリは息を呑んだ。黒い手が男の影から無数に伸びてきて、旭の首を掴む。そのまま三面鏡へと引っ張って行った。
「っ、う……」
抵抗しても、黒い手は離れない。苦しさで、旭の視界が霞んだ。
「旭くんを離して!」
シオリが、黒い手に取り付く。だが、他の手に弾き飛ばされた。
鏡面が見えた。鏡の中は、何も無い闇。
男の笑い声が響く。旭は強く目を瞑った。
「――死んでも、ろくでもねぇな」
怒気を含んだ低い声が、不意に響く。
鈍い音がしたと思うと、旭は床に落ちる。旭が咳き込みながら見上げると、弥命が男を殴り飛ばし鏡面へ沈めていた。鏡面から尚も出て来ようとする男を蹴りつけ、完全に押し込めると、肩越しに振り向く。
「ヨツトキ、さっさとやれ!」
「分かっている」
ヨツトキが文字通り飛んで来て、三面鏡の中央の鏡面へ、赤いペンで魔法陣を描く。
魔法陣が完成すると、紫色の光が鏡を包み、絶叫が聞こえる。
シオリはポケットからお守りを出して、強く握り締めた。
ヨツトキは、両側の鏡を閉じる。だが、暴れるように再び三面鏡が開き、飛び出した黒い手が弥命の手を掴んだ。そのまま、鏡へ引き込もうとする。旭が飛び付いて、弥命を引き寄せた。
「旭!」
「弥命叔父さんが何を考えていても、僕は手を離しませんからね。一緒に帰るんです……!」
旭の目が不思議な色に煌めくのを、弥命は確かに見た。
「……分かってるよ」
弥命は、鋭さの無い眼差しで旭を見て、観念したように言う。それから、凶悪な眼光で鏡を射抜き、この場の誰よりも悪い顔をして笑った。
「封印だの何だの、まどろっこしい。それに俺は、同じ手、二度も食うほどヤワじゃねぇんだ」
弥命は足を高々と上げ、鏡面を勢い良く蹴りつける。三面鏡は粉々に割れた。断末魔が轟く。
解放された弥命は、旭を破片から守るように抱える。
「……俺は、大人しく守られてはやんねぇよ」
「えっ?」
耳元で囁かれた言葉に、旭は目を丸くした。
破片は尚も降り注ぐが、シオリのお守りが淡く光り、四人を守った。やがて破片は透明になり、誰も傷つけることなく消えていく。
弥命は壁から三面鏡を外すと、おもむろに窓へ投げつけた。
「どうせ、窓は割れねぇ。てめぇの業とでも向き合っとけ!」
弥命の言う通り、窓は割れなかった。三面鏡だけがバラバラに壊れ、微かに残った黒い影は霞のように消える。
カタン、と淋しげな音を立て、三面鏡だった物は倒れた。
ヨツトキは、じっとそれを見てから、弥命を見る。
「……とんでもない人間だな」
弥命はじろりと、ヨツトキを睨む。
「うるせぇ。いい加減、腹立ってんだよ。どいつもこいつも、勝手言いやがって」
シオリも、黙って三面鏡を見つめていた。ヨツトキは、そんなシオリとお守りへ目を向け、静かに口を開く。
「そのお守りは、すごいな」
旭も頷いた。
「うん。やっぱり、優しいお守りだね」
弥命は、息をつく。
「もう、嬢ちゃんは、ここにいることも無い。自由だぞ」
シオリは、静かに泣き出した。ぽたぽたと、涙がお守りに落ちる。
「ありがとう……美織……みんな」
目を閉じたシオリは、光になり、空へ昇るように消えた。この場に残ったお守りも、溶けるように消える。
「俺たちも、出られるんだろうな」
弥命はじろりと、ヨツトキを見る。ヨツトキは、ふ、と微笑んだ。
「もう大丈夫だ。案内する」
昇降口まで来ると、ヨツトキはドアを開け放つ。
簡単にドアは開き、外から微かな風が吹き付けてくる。
「旭、手を」
ヨツトキは、差し出した旭の手を取る。
紫色の光が二人を包み、旭は元の姿に戻った。
ヨツトキは半透明になり、その姿は揺らいでいる。
「僕は、まだ学校が生きていた頃は、実体化出来るほどの力を持っていた。でも今は、忘れられ、ただ消えるのを待つだけの存在。力は弱まっている。助けてくれて、ありがとう」
ヨツトキは、三面鏡のこと、シオリのことを旭にも聞かせる。旭は優しく笑った。
「ヨツトキは学校の怪異のことも、子どもたちのことも、好きなんだね」
その言葉に、ヨツトキは目を見張る。旭は続けた。
「そうじゃなかったら、三面鏡を封印しようなんてしないでしょ。同じ怪異なんだし、放っておいても良いよね。シオリちゃんのことも、本当はあの日、助けたかったんじゃないかな」
ヨツトキは、俯いた。
「……ああ。そうかもしれない。僕は色んな不思議を起こす怪異として、子どもたちに語られていた」
ヨツトキは顔を上げ、旭を見る。
「嬉しかったんだ。だから、三面鏡を何とかしようと思った。……本当にすまない」
旭は頷いた。
「もう良いよ」
ヨツトキに見送られ、旭と弥命は外に出る。
景色が一瞬揺らいだと思うと、夜明けの薄明かりが目に滲みた。二人が振り向いた旧校舎は、鎖と南京錠で固く閉ざされている。旭と弥命は、顔を見合わせた。
「なげー夜だったな」
「本当に。……あれ?」
目眩を覚え、旭はふらついた。弥命はその身体を支える。そのまま、旭は落ちるように眠ってしまった。
「そりゃ、そうなるわな」
弥命は、柔らかな笑みを浮かべる。そのまま旭を背負い、不磨の店がある校舎へと歩き始めた。
「……ことさんと一緒に帰る……」
不意に聞こえた、ふにゃりとした声に、弥命は足を止めた。
「旭?」
思わず名前を呼ぶと、旭は少し顔を上げた。
「弥命叔父さん……?僕、寝てたんですか……」
ふにゃふにゃとした声に、弥命は息をつく。
「……そのまま寝てろ。帰るから」
「すみません……おじさんもつかれてるのに、」
脱力する旭を背負い直し、弥命はくつくつと笑う。
「俺はどこにも行かねぇし、旭を一人にもしねぇよ」
「よかった……」
後は、穏やかな寝息だけが聞こえて来る。弥命は、苦笑いを浮かべた。
「……全く難儀だよ。俺もお前も」
後は欠伸を噛み殺し、気怠げに歩き出した。




