近付いて来る
女の人が一人、直立不動で立っている。
駅前の、何もない壁に向かって、何もせずただ立っていた。
見た瞬間ぎょっとしたけど、待ち合わせかもしれない。そう思い、通り過ぎる。
何も、壁に向かって立たなくても……とも思ったけど。
それから、家に向かって歩いていると、同じ女の人に出会した。
電柱や建物の壁に向かって、何もせず直立不動で立っている。こちらに背を向けているので、表情は分からない。
白いブラウスに、赤いスカート姿。
少し俯いていて、手には何も持っていなかった。あ、と思うと見えなくなっている。
長い黒髪がボサボサなのが分かるほど近くに立つようになって、僕は足を止めた。
このまま帰るのは、避けた方が良いような気がしたからだ。気味も悪い。
僕は、来た道を引き返した。幸いまだ夜になったばかりで、人通りは多い。
最初に女の人を見掛けた辺りまで、戻って来てしまった。彼女は、同じ場所に同じ状態で立っている。
「うわ……」
思わず声が出てしまう。
逃げられない。そう、思ってしまった。
僕は人波から出ないよう、駅の壁に背を押し当てスマホを出す。雑踏の向こうに、女の人は微動だにせず立っている。
それを眺めたまま、僕は叔父さんに電話した。
仕事中で出ないかもしれない。もし、そうなったら……
[もしもし?旭か?]
半分以上諦めていたから、その声に対する反応が遅れた。
[旭?]
「弥命叔父さん。すみません、僕です。旭です」
妙な返しをしてしまった。
[おう。どうした?]
「仕事中にすみません。実は今……」
僕が説明するのを、叔父さんは最後まで黙って聞いてくれた。話をする内、少し気持ちも落ち着く。視界に入っている女の人は、やはりぴくりとも動かない。
[ふうん、おもしろ。ま、引き返したのは正解かな。今、駅前に居るんだろ?]
「はい」
[そのまま、俺の店に来い]
「え?」
何で?とか良いのか、とかいろんな考えが頭を巡る。
沈黙の間に、叔父さんのくつくつ笑う声が聞こえて来た。
[いいから来いよ。だから連絡寄越したんだろ?]
怠そうな、それでいて言い聞かせるような声音を聞いて、僕はハッとする。そうだった。
「ありがとうございます……向かいます」
[なるべく、人多い道通って来いよ]
「分かりました」
通話を切り、僕は歩き出す。
お店に行って、どうするのかは分からない。
でも、叔父さんが来いと言うなら、大丈夫なのだろう。
女の人は、やはり僕の前に現れ続けた。距離は、さっきと同様、段々近付いて来ている。
お店に着くまで、接触せずに済むのか。
走り出したかったが、それで更に距離を詰められたらと思うと怖い。
僕は早足に、道を進んだ。近付いて来る彼女のスカートの、赤色と思ったのは、古くなった血の色だった。
もう何も知りたくない。
お店のドアが見えて来て、ホッとした。更に近付いて、僕は短く声を上げる。
ドアの前に、彼女がいた。
固まっていると、お店のドアが唐突に開く。
「旭、下向いてろ」
叔父さんの声。
僕は反射的に、その言葉に従った。
それから直ぐ、ぎゃあ、という嗄れた声と、バリン、と何か割れる音が聞こえる。
「もういいぞ」
しばらくして、再び聞こえた叔父さんの声で顔を上げた。
女の人は、もういなくなっている。
叔父さんは怠そうに、何かを持ち上げてドアに立て掛けていた。
それは――
「姿見?」
全身が映るタイプの大きな姿見だった。鏡面は大きく亀裂が入り、割れている。
叔父さんは、それを睨んでいた。
「客が置いてったんだよ。ここはゴミ捨て場じゃねぇっつーのに……ま、最後に役立ったし、これで心置きなく処分出来るが」
「あの、女の人は……」
僕が聞くと、叔父さんは不敵に笑って姿見を指差す。
「この中の方が、延々突っ立ってられるだろ」
もう一度、姿見を見る。
割れて歪んだ鏡の向こうに、赤いスカートを見た気がする。
けど、叔父さんが直ぐ真っ黒な布を被せたので、それきり分からなくなった。




