橋の話
夕方の帰り道。
一人で歩いていると、腰の辺りを引っ張られるような感覚になった。
「ん?」
ふと見ると、半透明の小さな手が、僕の服の裾を引っ張っている。
手だけで、その先にあるだろう身体は見えない。くいくいと引っ張る様子は、僕の気を引きたいような、遊んでほしいような、そんな感じだ。
悪い感じはしないけど、これはどうすれば良いんだろう?
引っ張られながら歩いていると、家へ続く道にある、小さな橋までやって来た。
まずい。もう家に着いてしまう。
家に入れてしまうのは、避けた方が良いのでは。
何の解決策も思い浮かばないまま、橋を渡り終えてしまう。
だけど、渡り切った瞬間、小さな手は消えてしまった。思わず振り向く。
橋の向こうで、小さな半透明の手が、ひらひらと手を振り、ふっと消えた。
僕は声も出せないまま、橋の向こうを見ていた。もう誰も居ない。何も無い。
僕は息を吐き出して、前を向く。
家は直ぐそこだ。長い道のりに感じた。
帰ると、縁側に叔父さんの背が見える。
荷物を置いて、僕は縁側に出た。
「叔父さん」
叔父さんを見たらなんだか気が抜けて、隣に座る。
「よぉ。今出るとこだった。……ん?」
叔父さんは、僕の腰の辺りをじっと見ている。
さっきまで、小さな手に掴まれていた場所。
それから、方角的に橋の方を見た。
夜に見る水みたいな色の瞳が真剣に細められるのを、僕は吸い込まれるように見ている。
空気が張り詰めた。
「……どうしました?」
何かを壊してしまうような気がしながら、僕は叔父さんにそっと声を掛ける。
叔父さんは、元の目に戻って僕を見た。
面白そうに笑っている。
「旭、懐かれてたな」
「え、」
自分の声が固まるのが分かった。叔父さんは更に楽しそうに笑う。
「あれくらいなら、橋からこっちに来れねぇから。大丈夫だろ」
何が。何で。というより。
「初耳なんですが、それ」
「言ってねぇからな」
叔父さんは不敵に笑う。だけど、直ぐに表情を曇らせた。
「だから、庭から来るヤツは大抵やべーんだよ。庭からでなくとも、ここに出るヤツは、ろくでもねぇ」
「……何となく、そんな気はしてました」
僕は、今までの訪問者たちを思い出し、深く頷いた。庭から来ないで欲しい、人でもそうでなくとも。そもそも、普通の人間が庭から来たことは無い気がする。当たり前か。
「じゃあ、あの橋が幽霊とかが来るのを防いでいるんですか?」
「ある程度な。やべーヤツには効かんが、十分っちゃ十分だろ」
「弥命叔父さんがそうしたんですか?」
「んや?俺が来た時にはもう、そういう橋だったよ。俺は、多少補強しただけ」
それはそれで凄いんじゃないか。
やっぱり僕は、弥命叔父さんのことをいくらも知らないのだと思い知らされる。
叔父さんの左耳の、朱い大きな金魚が揺れた。泳ぐみたいに。
「怖くなったか?旭」
黙った僕を見て、叔父さんは面白そうに笑いながら聞いてきた。
その声を聞きながら、不意に叔父さんと初めて会った晩のことを思い出す。
守り刀が鳴ったり、怪しい訪問者たちがやって来た、奇っ怪な一夜。
その時も、叔父さんはこんな目をしていた気がする。正直、当時は怖かった、と思う。
なら、今は?
あの時より、僕の周りには不可思議なことが増えた。怖いことは怖いと感じる。でも。
「――いいえ。そんなには」
「ほう、その心は?」
叔父さんの、いつも鋭く怖い目が、心底楽しそうに細められるのを見た。
心。そんな凄い理由なんてない。
「……弥命叔父さんが、いてくれるからです」
口をついて出た言葉。
だけど、口にすると驚くほど腑に落ちた。
叔父さんの目が、丸くなる。それだけじゃなくて、いつもは見ないような表情になって、僕の方が驚いた。すいと顔を逸らされる。
あ、いけない。
「あの。全部叔父さんに頼れば良いやとか、そういう考えじゃないですよ」
頼らないといけない場面なんて、起きないでほしいくらいなのだから。
叔父さんは僕の方に向き直り、声を出して笑った。
「俺としてはむしろ、もうちょい頼ってほしいけどね」
「え?」
叔父さんはまだ笑いながら、手で口を押さえる。
「口が滑ったな。まあいいや。俺は、普通の人間だぜ?買い被り過ぎ」
「そんなことないと思います」
即答したら、また叔父さんの目が丸くなった。
弥命叔父さんを普通の括りに入れるのは、絶対に違う。
「そうかよ」
不服そうな顔をしながらも、叔父さんはくつくつと笑う。というか。
「そもそも、この家が事故物件じゃないですか。変な人たちが来るのもそうですけど、記憶を見せてくる仏間とか、実在しない仏壇とか、動く人形もありますし。橋が増えたところで……怖いですけど、そういうものかな、って」
「別に、あの橋は賃貸の範囲には入ってねぇけどな。使うの、ほぼ俺たちしかいないが」
「あの橋、何であるんですか?下に川は無いですよね?」
「さぁねぇ」
叔父さんが、言いながら怠そうに立ち上がる。
話が面倒になったのだろう。
「ま、橋で弾かれるからって、あんま楽観するなよ」
「しませんよ……」
「そうしろ。旭に何かあったら、俺が困るからな」
雑に僕の頭を撫で、叔父さんは仕事に行ってしまう。
幽霊を見た話をするはずが、叔父さんにはお見通しだし、橋の話で吹っ飛んでしまった。
「……頼ってほしい、か」
僕は、叔父さんに頼りっぱなしだと思うけど。
考えている内、すっかり日が落ちた。
あんな話をしてしまったから、少し意識してしまう。
また何かに出会す前に、僕は部屋の中に戻った。




