本物に成りたい本
夕方。
外出先から帰った弥命は、妙な気配を感じ、眉をひそめる。
「何だ?」
気配を辿り、縁側に面する部屋の戸を開ける。そして、息を呑んだ。
部屋には、本を読んでいる旭がいる。その傍らに、袴姿の少年の姿で、万寿がぐったりと倒れていた。
本から生えた無数の植物の蔦が、旭の全身に絡みついている。虚ろな目の旭は、弥命に気付いていないようだった。弥命は状況を一瞥し、静かに万寿に近寄る。
「万寿、しっかりしろ」
弥命が万寿の頬を軽く叩くと、万寿は目を開けた。
「弥命さん。すみません……旭さんが……」
旭の方を向きながら起き上がる万寿を支え、弥命は尋ねる。
「何があったんだ?」
「旭さんは、帰って来た時から魅入られていました。あの本を、既に読んでいて。読むのを止めようとしたら、本から蔦が出て来たんです。それで、首を絞められてしまいました」
万寿は気味悪そうに、旭の手にある本と蔦を見た。
「同じ“物”として、あの本はとても気持ち悪いんです。古くて重たい感じなのに、中身が無いみたいな軽さや、歪さがあって」
弥命は、旭の手にある本の中身を見た。見たことのない言語が羅列され、植物も描かれている。
「こいつは……」
弥命は思案するように空を睨んだが、やがて旭と本の間に自分の手を入れて振り、旭に呼び掛けた。
「旭。俺の声、聞こえるか?」
旭は顔を上げ、弥命を見る。
「みことおじさん……?」
瞳に光が無いながら、旭はそう呟く。弥命は、ゆっくりと尋ねる。
「ああ。それ、何の本読んでるんだ?」
「これですか?これは【繝エ繧ゥ繧、繝九ャ繝∵焔遞ソ】です」
「なんて?」
「【繝エ繧ゥ繧、繝九ャ繝∵焔遞ソ】です」
弥命と万寿は、顔を見合わせた。
恐らくタイトルを言っているのであろう、旭の言葉が、弥命にも万寿にも聞き取れない。何かを言っているのは分かるが、理解が出来ないのだ。
旭は弥命から本へと視線を戻し、また読み進める。
(これ以上読み進めたら、やべーな)
蔦がきつく、旭に絡みついていく。だが、旭は平気そうな様子で本の字を追っていた。
弥命はもう一度、本を見る。旭がページを捲った。そのページの一部分に何かを見つけ、じっと見つめた後、弥命は息をつく。
「万寿、旭見てろ。直ぐ戻る」
「弥命さん?」
立ち上がった弥命は、部屋を出た。言葉通り直ぐ戻って来る。怠そうに、木刀を肩に担いで。
目を丸くしている万寿をよそに、つかつかと弥命は旭に、本に、近付く。
「お前、『ヴォイニッチ手稿』、のニセモノだな」
旭に絡みついていた蔦の動きが、ピタリと止まる。
「どういう訳か知らんが、本物と思わせる為に旭の意識へ侵食し過ぎたのは、裏目に出たか」
弥命は凶悪な眼光を放ちながら、静かに笑う。
「もし本物の手稿なら、全文が理解出来ない、解読不能な言語で書かれているはずだ。植物の姿は、上手いこと模したかもしれんが。さっきのページ、一文だけ、俺にもちゃんと読めたぜ?」
蔦が、弥命へと伸びて来る。弥命は不敵に笑って、木刀を抜いた。
「ーー『弥命叔父さん、助けてください』ってな。人間一人にあっさり文を書き変えられてるようじゃ、本物とはほど遠いぞ」
弥命の木刀は、無数の蔦を綺麗に薙ぎ払う。斬られた蔦たちは、するすると本の中へ戻って行く。旭に絡みついていた蔦も離れ、やはり本へと戻って行った。意識を失い、倒れた旭を、万寿が受け止める。
本は、閉じられた。
「ありがとうございます、弥命叔父さん。万寿も」
「元に戻って良かったです、旭さん」
「その本、どうしたんだ?」
しばらくして目覚めた旭と、万寿、弥命は、本を囲み、居間にいる。
弥命は、手は触れずに本を見ながら、旭に尋ねた。
「大学で貰ったんです。『これは本物のヴォイニッチ手稿だ』って言われて。まさかと思って開いたんですが、それからのことは、あまり覚えてないんです」
「誰から貰ったんだ?」
「覚えてません。男性だった気がしますが……」
ふうん、と弥命は思案げに呟いたが、旭に目をやり、少し笑った。
「旭、ヴォイニッチ手稿知ってたんだな」
「僕が知ってるのは、知らない言語で書かれていて、地球には無い植物の絵が書いてある、未だ解読されていない本、ということくらいです」
旭は少し、困ったように笑いながら言う。
「それだけ知ってりゃ、十分だろ。ま、こいつはニセモノだが」
弥命の言葉に、本がかたりと揺れる。
「……怒っているようです。よほど、『本物』に成りたいようですね」
万寿が本をじっと見つめながら、静かに呟く。弥命は溜息をついた。
「本物はオーパーツとして有名な代物だが……それだけ、本物には何らか『力』があるのかね」
「『力』……」
呟く旭を一瞥し、弥命は面倒くさそうに言う。
「この本、さっさと処分しちまいたいが、下手なことしたらまた蔦出てきそうだよな」
その言葉に、旭と万寿は、少し身を本から離す。
「この手のは、正直関わりたくない。こういう、長年謎のまま扱われてるもんは、良くも悪くもいろいろ付きまとってるからな。ましてや、こいつニセモノだし、拗らせてるだろ。何かしら」
弥命の言葉に頷きながら、旭は何か考えるように空を見上げる。
「ちょっと連絡したい人がいます。どうにかなるか、分かりませんが」
「連絡したい人?」
意外な答えに、弥命は内心驚くが、旭は断りを入れ、その場で誰かに連絡し始める。
それからいくらもしない内に通話を終え、少し安心したような顔で、また弥命に向き直った。
「この本、引き取ってくれるみたいです」
「誰に連絡したんだ?」
「僕のバイト先の、店主さんです」
旭の答えに、弥命は頷いた。
「そういや旭、古本屋でバイトしてたな」
「やっておかないといけないことは、あるんですが」
旭は席を離れ、メモ用紙とペン、糊を持って戻って来る。
「こうしておいてほしいそうです」
旭は言いながら、紙に『ヴォイニッチ手稿のレプリカ』と書く。見ていた弥命はピンと来た様子で、旭の書いた紙を取る。
「旭は、本に触るな。もしまた蔦が出たら、面倒だ」
弥命が引き継ぎ、紙に糊を塗り、本の表紙に貼り付けた。
「おし、ラベリング完了」
弥命が言った瞬間、本から絶叫が轟く。旭は思わず耳を押さえ、弥命は顔をしかめた。万寿は、青い顔で聞いている。
「……なんつーか、こいつが英語だの日本語だの、そしてその意味だの、分かるとも思えんが。そうだとしても、分かるもんなのかね、こういうのって」
静かになった本を指で弾きながら、弥命は呟く。
旭も万寿も、何も答えられなかった。
三人で旭のバイト先である古本屋へ行き、本を無事に引き取ってもらった帰り。
万寿が、そっと旭の手を掴む。
「万寿?」
「私は、強くはありませんが。オーパーツもどきには、負けられません。これからもっと、旭さんのお役に立ちますよ」
前髪に覆われ、旭を見上げる目は見えないが、万寿の唇は強く引き結ばれている。
旭は目を丸くしたが、直ぐに柔らかく笑んだ。
「僕は、万寿が役に立つとかそういうことで選んだんじゃないよ。居てくれるだけで、きっと楽しいだろうなと思ったから、来てもらったんだ。いつも助けてくれてありがとう、万寿」
万寿はふるふると震えると、ぎゅっと旭に抱きついた。
「ありがとうございます、旭さん」
いつもの険しさが無い目で二人を見、弥命は息をつく。
「オーパーツ、ね」
「叔父さん、オーパーツも詳しいんですね」
旭の言葉に、弥命は立ち止まり、肩をすくめる。
「詳しくはねぇな。ヴォイニッチ手稿にしろ他のもんにしろ、話は聞くが、大体忘れるし。ま、何でも解き明かせば良いってもんじゃないだろ。面倒だしな」
弥命は大きく伸びをして、また歩いて行く。
旭と万寿は顔を見合わせてから、その後を追った。




