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静かな朝(1)三女の視点

パンケーキの焼ける甘い匂いが、キッチンいっぱいに広がっている。じんわりと暖かい香りが包み込むように広がって、いつもならそれだけで幸せな気持ちになれるはずなんだ。でも、今日は何か違う。胸の奥がザワザワして、どうにも落ち着かない。スパチュラを握る手に少しだけ力が入る。


パンケーキの表面に小さな泡がぽつぽつと立ち上がるのをじっと見つめる。いつもはその瞬間が待ち遠しくて楽しいのに、今はそれすら気にならない。私はスパチュラを持ったまま、自然とキッチンの窓に目を向けた。窓の外、空が重たく灰色に垂れ込めていて、いつも見ていた青い空はどこにもない。それが気に入らない。まるで、何か悪いことが近づいているみたいに感じるから。


「お姉ちゃん、なんか変じゃない?」私は窓の外を見つめたまま、少し不安げに長女に声をかける。外を見れば見るほど、何かが違うんだ。いつもなら通りを行き交う車の音が聞こえるはずなのに、今日は静かすぎる。誰もいない。子供たちの笑い声も、犬の鳴き声も、どこかに消えてしまったみたい。胸が少しぎゅっとなる。


長女はその言葉に応えて本を閉じ、私と一緒に窓の外をじっと見つめていた。彼女の目が少し険しくなっているのを感じる。お姉ちゃんも気づいてるんだ。何かがおかしいって。


数日前から、何となく感じていた違和感。街が変わりつつある。朝の空気も、家の周りの静けさも、すべてが少しずつ歪んでいる気がする。いつもは畑で忙しく働いているマクレガーおじさんも、今日は姿を見せない。農具はきれいに片付けられていて、納屋の戸も固く閉ざされている。彼の畑も、どこか疲れたように見える。何かが変わっていく予感がして、心の中がモヤモヤする。


「うん、気づいてる。おかしいわね。いつもより静かすぎる…」長女の声には、かすかな緊張感が滲んでいる。彼女はいつも私たちの支えになってくれる存在で、どんな時も冷静に振る舞ってくれるけれど、今日はその強さの裏にほんの少しの不安を感じる。それが私をさらに落ち着かなくさせる。


私はもう一度、窓の外に目を向けた。空は重く、灰色の雲が押し寄せてくるみたいに見える。その雲がどんどん近づいてきて、私たちを覆い隠してしまうんじゃないかって感じるほどだ。この街が、私たちが、何か大きな力に飲み込まれようとしているような気がして、ますます胸が苦しくなる。


次女は、そんな私たちの様子を気にすることなく、テレビに映し出されたニュースにじっと目を向けていた。彼女の手元にはいつものノートがあって、何かを書き込んでいる。テレビの画面には無表情のニュースキャスターが映っていて、彼女が伝える言葉はどれも曖昧で、何が本当なのかよくわからない。以前はもっと詳しく説明してくれていたのに、最近はぼんやりした内容ばかり。けれど、次女はそれを冷静に聞いているみたい。きっと彼女の頭の中では、すでに色んなことが整理されているんだろう。次女の冷静な姿を見ていると、少し安心するけれど、同時に私には彼女みたいに物事をうまく理解できない自分がもどかしくもある。


「お姉ちゃん、ねえ、何か怖いことが起きてるの?」気づかないうちに、その言葉が口から滑り出ていた。心の中で渦巻いていた不安が、どうしても抑えきれなくなったんだと思う。ずっと頭の中で繰り返していた疑問。もし何か起きているのなら、知りたい。でも、知るのが怖い。どちらがいいのかわからないまま、答えを求めてしまう。


長女がすぐに返事をしない。彼女の目はまだ外を見つめたまま、何かを考えている。その姿を見ていると、ますます私の心は落ち着かなくなる。大きな灰色の雲がゆっくりと低く広がって、まるで私たちを包み込むように降りてくる。そんな気がして、じっとしていられなくなる。私たちの家も、この街も、すべてがその灰色の雲の中に飲み込まれてしまいそうな気がしてならない。もう、どこにも逃げられないかもしれない。


私はもっと小さくなりたくて、スパチュラを握る手に力を込めた。パンケーキの表面が少し焦げているのを見ても、それをひっくり返す気にはなれない。外の世界で何かが変わっているように、私たちの中でも何かが変わりつつある。これまでの日常が、すぐそこまで迫っている大きな波に呑まれてしまいそうな、その恐怖がじわじわと私を覆い尽くしていくみたいだ。

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