海(5)三女の視点
ホエールウォッチング!次女が話していたあの言葉が耳に残って、心がぽっと明るくなった。あのクジラに会いに行けるかもしれない――本でしか見たことのない、巨大で優雅な海の王者。
「ホエール」――私にとってその言葉は、いつも心の奥で静かに泳いでいる。なんて言うか、頭の中にいつも抱えている「私だけのクジラ」みたいなものだ。時々、そのクジラは重くなって私を押しつぶしそうになる。でも、こうやって青く広がる海を見つめていると、どこか遠くの水の向こうで本物のクジラが泳いでいるのかもしれないって思うと、不思議と軽くなる。
この青い海の、どこかにいるんだ。私が想像するよりずっと大きな体で、静かに深い海の底を漂い、時々浮かんでは潮を吹き上げるクジラ。あの長い旅を続けて、私たちには決してわからないような道筋を知っているクジラたち。今この瞬間も、あの見えない深海のどこかを泳いでいるのかもしれない。
ねえ、もしクジラが私たちを見たら、どんな目で見るんだろう。黒くてつややかな瞳の奥に何を思うんだろう。私たちの姿をどんなふうに感じるんだろう。
そして、どんな歌を歌うんだろう?クジラは、遠くの仲間と歌で会話するって本に書いてあった。彼らの歌声は水中を何百キロも旅するんだって。それって、なんだか宇宙みたいだ。星と星が光でお互いを見つけ合うように、クジラたちは水の中で声を送り合っている。どこかで誰かが歌っている、そのことだけで安心するのかもしれない。
次女が言っていた。クジラは死んだあと、ゆっくり海の底に沈んで、そこで新しい命を作り出すんだって。クジラの体は海の生物たちの家になり、餌になる。そして、その生き物たちがまた次の命を育んでいく。死ぬことすら、命を繋ぐことになるんだ――それって、すごいと思う。私もそんなふうに、誰かのためになれるかな。死んだあとでさえも、何かを残していけるって。
想像してみる。あの巨大な体が海の底に静かに沈んでいく光景。太陽の光が届かない冷たくて暗い場所に、少しずつ横たわるクジラの姿。その周りに小さな魚たちが集まり、エビやカニが住みついていく。そこは、静かだけれど、命にあふれた場所になるんだ。暗闇の底でさえ、命は回り続ける。
もし私がクジラに会えたら、どんな気持ちになるんだろう。あの美しい青い海の中を泳ぐその姿を見たら、ただ見とれて、何も言えなくなっちゃうかもしれない。それとも、次女みたいに夢中になって、「どこから来たの?」「次はどこに行くの?」ってたくさん聞いてしまうのかな。
でも、それよりもただ、彼らの存在を感じたいんだ。クジラが歌うその瞬間を、その大きな体が海をかき混ぜるその瞬間を、そっと感じていたい。それは、たぶんお絵描きと似てる。見えないものを見つけること――白い紙の上に、自分の想像を浮かび上がらせるみたいに、広い海の中でクジラの存在を探し出すんだ。
この海のどこかに、きっとクジラはいる。星が空にあるように、あの広い海の底で眠っているんだ。私たちがまだ会えなくても、見えなくても、そこに「在る」ってことはわかる。宇宙のどこかに星が輝いているのと同じように、私の知らない場所で、あの巨大なクジラがゆっくりと泳いでいるんだ。
「ホエールウォッチング、いつ行くのかなあ。」ふと、そうつぶやいてみる。自分でも気づかないうちに口から出た言葉。
次女はそれを聞いて、何か言いかけたけど、結局笑って肩をすくめた。長女も、その横で静かに微笑んでいる。
この海のどこかにいるクジラ。いつか、あの歌を聞いてみたい。潮が吹き上がる瞬間を見てみたい。そのとき、きっと私の「ホエール」も、少しだけ軽くなる気がするんだ。




