海(4) 長文の視点
「私もいつか、そういうものを見つけたいな。」
その言葉が耳に入った瞬間、私は少し驚いた。
知識や興味のあることについて熱く語るのは、次女にとっていつものことだ。クジラの話だって、深海や宇宙の話だって、何度も聞いてきた。でも、「自分のこと」をこんなふうに話すなんて、滅多にない。それが、妙に引っかかる。
次女は、いつも自分のことを後回しにしている気がする。興味の対象に没頭する彼女の姿は眩しいくらいだけど、その先にある「次女自身」はどこにいるんだろう。まるで、彼女は自分のことを置き去りにしているように見える。そこがいつも気がかりだ。
私の世界には、私がいる。私は私自身を中心に据えて生きている。理想の自分を目指して、どうしたらもっと強く、もっと正しくいられるか、そればかり考えている。責任感からじゃない。ただ、そうなりたいからそうしているんだ。
でも、次女はどうだろう? 彼女の世界に、彼女はいるのか? 何かの隙間に、ふっと姿を消してしまいそうで怖い。興味の対象に自分を委ねているうちに、自分自身の輪郭が薄れていくような――そんな不安が、ずっと私の胸を離れない。
「あなたのことを聞かせて」なんて、簡単に聞けるものじゃない。そう言ったところで、きっと彼女はまたふざけてはぐらかすだろう。「今度、もっと面白い実験を見つけたら教えてあげる」なんて言って、こっちの質問なんて聞き流すに違いない。
私は波打ち際に立ちながら、次女の横顔を盗み見る。風に吹かれた彼女の髪が、潮風に揺れて乱れている。どこか無防備で、頼りなくて、それなのに、今この瞬間だけは不思議なほど静かに見えた。
何か、もっと確かな形で繋がりたい。彼女が自分自身のことも、大切にできるようになってほしい。そんな思いが、胸の奥でずっと燻っている。
「今、お金貯めてるからさ。」
そう言ってみると、次女がちょっと驚いたように顔を向けた。
「お金?」
「溜まったら、ホエールウォッチングに行こうか。」
私はできるだけ軽く、普段のような調子で提案する。真剣な顔で聞いたら重たくなってしまいそうだから、ほんの少しの冗談を混ぜる。でも、これは私なりの本気だ。クジラの話ばかりする彼女を、いつか本物のクジラに会わせてあげたい。
「クジラ?」次女は目を丸くしたまま、ほんの少し考えるように黙り込む。そして――ふっと笑った。「それ、いいかもね。」
その笑顔を見て、私は少しだけほっとする。この瞬間の彼女は、ちゃんと「次女」としてそこにいる気がしたからだ。
けれど――やっぱり、彼女の信念はわからない。彼女が何を信じて、どんな未来を見ているのか。私にはそれが見えない。きっと、まだ彼女自身にもはっきり見えていないのかもしれない。でも、それでもいい。
いつか、彼女が自分の世界の中心に自分を見つけられるように、私は隣で見守り続けるんだ。次女がどこかに消えてしまわないように。波が岸に戻るたびに砂がさらわれるみたいに、彼女の輪郭が曖昧にならないように。
「ホエールウォッチング、楽しみだね。」
そう言って私が笑うと、次女もまた、いつものように軽口で返してきた。
「クジラの鼻息でも浴びるの、いいかもね。」
ふざけた口調。でも、その言葉の向こうには、確かに彼女自身がいる気がした。波音の合間に聞こえたその声が、私の心に静かに響いた。




