海(2)三女の視点
海が見えた瞬間、胸の中がじんわりと温かくなった。ずっと歩いてきて、ようやくたどり着いた場所。私たちは潮風に包まれながら砂浜に降り立つ。白く泡立つ波が、まるで呼吸をするみたいに岸辺を行ったり来たりしている。
足を砂に埋めて一歩一歩進む。長女が背負った荷物の音がかすかに響く。次女は早足で先に行って、波打ち際にしゃがみこんだ。私はその後ろを少し遅れて追いかけながら、ふと頭に浮かんだことを言葉にしてみる。
「見えないものを見つけるって、お絵描きにも似てるな。」
波の音にかき消されそうな小さな声だったけど、次女はそれをちゃんと聞いていたみたいで、振り返ってニヤッと笑った。
「この海の中に、クジラもいるのかな……?」
そうつぶやくと、今度は長女も立ち止まって、遠くの水平線をじっと見つめた。波の向こう、もっともっと遠い海の底に、どこかでクジラが泳いでいるかもしれない。見えないけど、そう思うだけで、この場所が少し違って見える気がする。
すると、次女の目がぱっと輝いた。その瞬間、もう止まらない。
「そうなんだよ!クジラってさ、ただ泳いでるだけじゃなくて、海をかき混ぜてるんだ。知ってた?」
彼女は熱を帯びた声で一気にまくしたてる。私はつい耳を傾けてしまう。
「クジラが泳ぐと、表層と深層の水が入れ替わるんだ。あれ、ほら、海の『栄養ポンプ』って言われてるやつ。クジラが深いところに潜って、また浮上するだけで、海の中の栄養が循環するんだよ!それに、それだけじゃないんだ――クジラがうんちをすると、それがプランクトンのエサになる。つまり、クジラがいるだけで、海の生態系が回るってこと!」
次女の早口な説明に、私は「ふーん」と小さく相槌を打ちながらも、そのイメージを思い描いてみる。クジラが海の中を優雅に泳いで、その大きな尾びれで水をかき混ぜる。すると、海の底の冷たい水が上がってきて、そこに光が差し込む。そして小さな生き物たちがその中で息を吹き返す……。
次女は息をつく間もなく話し続ける。
「で、クジラが死んだらどうなると思う? そのまま海の底にゆっくり沈むんだよ。そして、その死骸が生態系の中心になるんだ。『クジラ落ち』って言って、クジラの体が海底にたどり着くと、それを食べるためにいろんな生物が集まってくる。深海には食べ物が少ないから、クジラの死骸はまるで一つの都市みたいになるんだ。そこで、微生物や魚、エビなんかが何十年もかけて共存するんだよ。」
「都市みたいに?」
私は彼女の言葉が頭に引っかかって、思わず聞き返した。想像してみる。大きなクジラの骨が海の底に沈んで、その周りをいろんな生き物たちが囲んで暮らす――暗く静かな深海の中、クジラの死骸が明かりもないのに輝いて見える。
「そう、都市。だけど、時間が経つと、みんな少しずつその場を去っていく。最後に残るのは骨。それがまた海の中に溶けて、海全体の一部になるんだ。」
次女の言葉を聞いているうちに、私は胸の中に不思議な感覚が広がるのを感じた。クジラも私たちも、結局はどこかで誰かとつながっていて、そしてどこかで消えていく。その「見えないつながり」が、なんだか絵を描くときの感覚に似ている気がする。
「見えないけど、ちゃんとあるんだよね。」
私がそう言うと、次女は満足そうにうなずいた。彼女は知識の海の中を泳ぐクジラみたいに、どんどん深い場所へ潜っていく。そしてそのたびに、新しい発見を私たちに届けてくれる。
「クジラがいなくなったら、海も変わっちゃうんだよね。」
私はぽつりとつぶやく。
次女は一瞬考え込んだあと、さらりと言った。
「そうだね。でも、それもまた新しいサイクルだよ。どんなものも変わっていくんだから。」
その言葉が、波の音に溶けて消えていく。海の匂いが鼻をくすぐり、私は少しだけ目を細めて水平線を見つめた。
見えないものを見つけること。それはきっと、ただの好奇心じゃなくて、そこにある美しさを知ることなんだ。星と星の間、クジラと海の間、そして私たちとこの世界の間――どんなに遠く離れていても、どこかでつながっている。それを感じることが、私たちがここにいる意味なんじゃないかな。
私は足元の砂を手のひらで掬って、指の隙間からこぼれるそれをじっと見つめた。どんなに細かな粒でも、いつかはどこかの砂浜から流れてきたものだろう。
「ねぇ、私たちも何かの一部なんだよね?」
思わずそう言うと、次女は私を見て、にんまりと笑った。
「もちろん。全部がね。」
波は今日も変わらず打ち寄せている。でもその下には、私たちの知らない世界が広がっている。それを探しに行く勇気があれば、きっと何かを見つけられる気がする。
私たちはしばらく、静かにその海を見つめ続けた。




