街にて (6)長女の視点
三女が本棚の前でじっと立ち尽くしている姿が目に留まった。彼女が手に取っているのは、青い表紙に描かれた大きな海とクジラの絵本だ。ページをめくるたびに、その柔らかな表情がほのかに変わり、彼女がその世界に没頭しているのがわかる。三女が海を好きなのは知っている。彼女が描く絵の中にも、よく海や魚が登場するし、何度も「クジラを見たい」と話していたことを思い出す。
ふと、私は思った。今日は少し予定通りに物事を進めすぎている。リストに書いたものはほとんど揃ったし、まだ時間もある。確かに計画通りに進めるのは大切だし、そうすることで安心感を得ている私だけれど、今はそれよりも大事なことがある気がした。それは、妹たちの笑顔を見ること。
「ねぇ、三女。」私は軽く声をかけた。彼女が振り向く。海の絵本を手にしたまま、少し戸惑ったような表情をしている。「今日はさ、海に行ってみない? そんなに遠くないし、少し寄り道するくらいなら大丈夫だと思うんだ。」
一瞬、彼女の目が驚きで見開かれる。でも、その後すぐに彼女の顔はふわりと柔らかくなって、嬉しそうに微笑んだ。「海に行くの? 本当に?」その声には驚きと期待が混ざっていた。
私は頷きながら、次女の方に目を向けた。次女はその場で立ち止まり、私と三女のやり取りを黙って見守っていた。「次女、どうかな?あの海、私たちも好きでしょ?」と、あえて彼女に尋ねる。彼女は少し肩をすくめ、思ったよりもあっさりと答えた。
「別にいいけど。今は予定も特にないし、行っても悪くないよね。」と、彼女の口元に薄く笑みが浮かんだ。それから「三女が行きたいなら」と少しだけ声を柔らかくして付け加えた。
でも、三女は少し困ったような顔をして、今度は自分の足元の荷物を見つめた。「でも、荷物が多いし、全部持っていくのは…。」
その瞬間、次女がすかさず言った。「その心配なら無用。私も持つから。長女一人で全部持たせるつもりじゃないし、それくらい大したことないよ。」少し照れたように言いながらも、彼女が気を使っているのはわかる。次女はいつも、そういう風に直接的な助けをあまり表に出さないけれど、気が利かないわけじゃない。むしろ、いつも思いやりを持って、ただそれを不器用に見せることが多いだけだ。
「じゃあ、決まりだね。」私は再び三女に目をやり、その表情が徐々に安堵に変わっていくのを確認した。
それぞれの本に視線を戻すと、少し考えを巡らせた。私が手にしていたのは、やはり冒険ものだった。いつも主人公が困難を乗り越え、迷わずに正しい道を進む姿に自分を重ねることが多い。そんな物語の中で、私は自分の理想像を見つけるのかもしれない。完璧で、強く、正しくいられるようにと。
一方、次女は今手にしている科学の本を何度も眺めていた。彼女はいつも、理屈や理論を追いかけている。難しそうな数式や物理法則が並んでいるその本を開いて、時折目を輝かせているのを見て、彼女がどれだけそれに興味を持っているかがわかる。次女は決して気持ちを表に出すタイプではないけれど、彼女の目が輝く瞬間を見ると、そんな冷静さの奥にある情熱が垣間見える。
そして、三女はどうだろう。彼女が今手にしている絵本、その中の鮮やかな海やクジラの絵が、彼女の心をどれだけ掴んでいるのか、彼女の目からはっきりと伝わってくる。彼女は言葉よりも、絵や色で感情を表現することが得意で、そんな彼女にとって、この絵本はまさに想像力をかき立てる宝物のようなものだろう。
「じゃあ、本の会計を済ませて、海に向かおうか。」私はレジに向かいながら、今後の予定をざっと頭の中で整理しつつも、心のどこかでこれが正しい選択だと確信していた。計画も大事だけど、今は妹たちの笑顔の方がもっと大事だ。
会計を済ませ、店を出ると、私たちは自然と海へと向かう道を歩き始めた。海の匂いがもうすぐそこに感じられる。それに気づいた三女が、先ほどまでの緊張感を少しずつ解き放ち、次女と私の間で嬉しそうに微笑んでいた。その笑顔を見るだけで、私は今日の選択が間違っていなかったと感じることができた。




