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ミートローフ(3)次女の視点

リビングのテレビは、いつものように軍事衝突のニュースを流している。小さな画面の中で、爆発音と共に黒煙が立ち上り、人々が混乱の中を走り回る。耳には入っているけれど、心には響かない。ただ、繰り返される映像と声だけが、無意識に背景として頭の隅に引っかかっているだけだ。私の目は手元の本に向けられている。宇宙に関する分厚い本。何度も読んでいるはずなのに、今日はどうも頭に入ってこない。


ページをめくっては戻し、まためくっては戻す。記憶に残らない文字たちがページを埋めている。星々やブラックホール、重力波、未知の惑星――普段なら夢中になって読み進める内容なのに、今日は何も心に引っかからない。それでも、何かに集中しているふりをするために、私はページをめくる手を止めない。


本当は、違うことが頭を占めているからだ。キッチンの方から、姉と三女の楽しそうなやり取りが聞こえてくる。長女が三女に「もう少しこねた方がいいよ」とか、「次女が好きな味にしようね」とか、静かで優しい声で話しているのが耳に入ってくる。私もあの場にいればよかったのだろうか。いや、そうではない。私は違う。何かが違うんだ。


今日、あの時、私は――いや、私は自分の感情を上手く処理できなかった。車を運転しているとき、ほんの少し気が逸れただけだと思っていた。それなのに、三女が怖がっていたなんて。気づかなかった。長女が強く叱ってきたとき、私は何も言い返せなかった。だって、言い返す言葉がなかったから。彼女が正しかった。私は危険な運転をして、三女を怖がらせた。あの時の長女の目、三女の顔が、今でも頭に残っている。


本を閉じる。手元にあるのは分厚い本だけれど、その重さが今は心にのしかかるように感じる。私は、あの時どうすればよかったのだろう? 運転をする自信はあったのに、実際にはあんなふうにうまくいかなかった。三女が怖がっていたことにも、後になって初めて気づいた。そういうところ、いつも私は遅い。感情に疎いんだ。姉も三女も、私のことを見て、どう思っているのだろう。


ふと、自分が謝ったことを思い出す。夕食の準備中、長女が「チーズ入れる?」と聞いてきたとき、私は「うん」と答えた。ほんの短い返事。それだけで終わらせようと思っていた。だけど、その後に、思わず言葉が出たんだ。


「…いろいろ、ごめんね。」


勇気を振り絞って言った言葉だった。普段はこんな風に自分の感情を口にすることなんて滅多にない。謝るなんて、もっとしない。だけど、あの時は言わなければならないと思った。謝らなければならないと思った。だって、私はたくさんのことを間違えたんだ。


まず、三女を怖がらせたこと。運転中、彼女の顔が一瞬こわばっているのを見たはずだった。でも、その時は深く考えなかった。自分がうまく運転できていると思っていたから。それが後で、彼女が本当に怖がっていたと知った時、胸が痛んだ。何故、私は気づかなかったのか。姉なら、そんなことにはすぐに気づいていたはずだ。私は違う。感情がうまく読めないんだ。


そして、謝らせたこと。私は長女に叱られた時、言い返せなくて、押し黙ってしまった。何も言えなかった。あの時、私はただ言葉を失い、涙が少しだけこぼれた。泣きたくなんてなかったのに、勝手に涙が出た。私は泣かないようにしなきゃいけなかった。強くならなきゃいけなかった。だけど、あの瞬間、私はただ弱い自分をさらけ出してしまった。そんな自分に嫌気が差した。だから、謝ったんだ。姉や三女に、私が弱いところを見せてしまったことも含めて、全部謝らなきゃと思った。


気を遣わせたことも、謝りたかった。姉も三女も、私が黙り込んでいる間、気を遣ってくれた。三女は何も言わず、ただおとなしくしていたし、姉も怒った後、少し気まずそうにしていた。結局、私がそうさせたんだ。彼女たちに気を遣わせてしまったこと、それも申し訳なくて、謝りたかった。


それから、泣いたこと。私が泣いたのは、自分のせいだった。感情を抑えられなかった。もっと理性的に考えなきゃいけないのに、ただ涙が勝手に出てしまった。あの時の自分が、どうしようもなく嫌だった。だから、謝った。


でも、どう謝ればよかったのか分からなかった。ただ、「ごめんね」と言うしかできなかった。たった一言。あの一言が、十分だったのかどうか、今でも分からない。


「次女、ミートローフできたよ。」長女の声が聞こえて、私はキッチンに目を向ける。ミートローフの香りが漂ってくる。三女が一生懸命作ったミートローフ。私のために、彼女は心を込めて作ってくれたんだ。私はそれが分かっている。三女はいつも、こうして私を気遣ってくれる。私が好きなものを作ってくれるのも、彼女なりの優しさだ。だけど、その優しさが、時折私には少し重たく感じることがある。だって、私はその優しさに何も返せていない気がするから。


私は静かに椅子から立ち上がり、キッチンのテーブルに向かう。三女は笑顔でミートローフをテーブルに置き、長女も横でそれを見守っている。二人とも、私に対して何も言わない。ただ、黙ってミートローフを前にしている。その沈黙が、どこか安心感を与えてくれる。


「ありがとう、三女。」私は自然とそう言っていた。三女は「うん」と頷き、少し照れくさそうに微笑んだ。その笑顔を見ると、少しだけ心がほぐれるような気がした。


ミートローフを一口食べる。柔らかくて、チーズの風味がしっかりと効いていて、心に染み渡る味だ。美味しい。この味を噛みしめていると、なんだか少しだけ気持ちが軽くなる。温かい食事が、私の心を少しずつ解いてくれる。三女が、私のために作ってくれたその事実が、今はただありがたかった。


私はこの世界がとても大事なんだ。姉と三女、そして私たちの小さな家族。外の世界は混乱しているけれど、ここには少なくとも私たちの場所がある。私にとっては、それが全てだ。どんなに失敗しても、うまくいかなくても、この家族だけは大切にしたい。それだけは、失いたくないんだ。


ミートローフをもう一口食べて、私は少しだけ微笑んだ。それが今の私にできる精一杯の感謝の表現だった。

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