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episode7【Over the love】

 犯人が律儀な人間であるなら、この日も日付が変わる前には事件が起こるはずだ。相手は明らかに自分達に喧嘩を売っている。

 そう受け取ったアネリは、もう昨日のような呑気な行動は取らなくなった。

 部屋で待機している間も、彼女は珍しくノートパソコンを開いて、難しい顔で煌々とする画面を睨んでいる。何をしているのかと思えば、


「……ねえパーシバル、あのボウガンって確か20年前に開発された型よね」


 彼女はリトル・レッド社関連のwebサイトを見ていた。

 だが公式のページではなく、むしろ社を糾弾する人間によって立ち上げられた、これまで生産した武器のリストなどがずらりと並んでいるアンチサイト。

 タイトルは「dusty red(くすんだ赤・土色の赤)」。リトル・レッドへの皮肉だ。

 パーシバルはアネリの後ろから画面を覗き込み、そこに映る流線型のボウガンの画像をじっと見て、


「確かに同一でございます。リトル・レッド社は15年ほど前から銃器や弾薬を中心に生産しておりますので、ボウガンなどの火薬を使わない武器は種類がさほどありません」


 補足付きで、アネリの質問に答えた。

 アネリはふむふむと頷き、ボウガンのページを読み進める。


「“これは戦争目的にはあまり用いられていない。しかし、会社が狩猟用に開発したと公言しているにも関わらず、19XX年に南米で起こったテロ事件では武装集団の半数にこれが配分されていた”」


 そこまで淡々と読み上げ、アネリは嫌そうに眉をひそめる。


「馬鹿ね。狩猟の相手を間違えるような連中に持たせたら、事件が起こるに決まってるじゃない」


 冷たく吐き捨てる。

 製品の誤った使い方をする人間が起こした事件を切り取り、「リトル・レッド社が諸悪の根源」として書かれている。そのことが、アネリには我慢ならなかった。


「似たような事件は多く発生しましたが、最も規模が大きいのはこのテロ事件のようですね」

「ええ…」


 アネリが生まれる前の出来事だ。


「もし犯人がこの事件の被害者だとしたら、復讐のために同じ武器を使ったと充分考えられるわ。(けな)すつもりはないけど、精度で言ったらリトル・レッド社のボウガンは他社より相当劣ってるもの」


 精度を落としてまでこれを選んだということは、この武器によっぽどの思い入れがある証拠だ。もちろん、悪い思い入れが。

 テロ事件の記事にはまだ続きがあった。


「“結果的にテロに関与した人間のほとんどが逮捕され、この時代には主流であった方法で死刑や公開処刑が実行された。なお現在においてこれらの処刑方法は廃止されている。……電気椅子、銃殺、毒殺、もっとも無惨な方法として、武装集団自身が所持していた武器(この場合はリトル・レッド社製ボウガン)を使っての射殺がある。この政府のあまりに狂的な対処から、一部の地域では『狂犬(マッドドッグ)事件』として認識されている。”……まあ。じゃあこの事件はもう決着してたのね」


 スクロールすると処刑風景の画像が複数アップされていた。

 思わず顔をしかめるが、モノクロな上に画質も良くないため、それほどショッキングな写真ではない。

 犯人のほとんどがこんな悲惨な最期を遂げたなら、被害者の恨みも少しは和らぎそうなものだが。


 アネリが自分なりに犯人像を模索するのにはわけがあった。

 彼女はこう考えている。

 いや、正確にはトレイシー警部の受け売りだ。


『いいかいお嬢さん。別荘内に、しかもあんな面倒臭い仕掛けを施せるとしたら……』


『……犯人は、館内に出入りできる人間かもしれない』


 認めたくはない。だが可能性はある。それを見つけようとしているのだ。

 父ルロイのために。


「よし」


 時計に目をやる。早いもので、時刻はもうじき午後7時。そんな長い間パソコンをいじっていたわけだが、おかげでたくさんの情報を得られた。

 切りのいいところで、そろそろシャワーでも浴びようと考えたのだ。


「相変わらず監視室漬け状態なのね、マドック刑事は」


 ふいに思ったことを口にする。

 あれほど警護をかって出ていたのに、実際犠牲者が出てみると監視室に引き返してしまったマドック刑事。

 事件を未然に防ごうという気持ちの表れなのだろうが、それにしても無礼というか無責任というか。

 そんなことを悶々と考えていると、


「?」


 いつも自分に対しては笑顔のパーシバルが、どこか浮かない顔をしているのに気付いた。


「パーシバル、どうしたの? 具合でも悪い……?」


 アネリは心配そうに訊ねた。

 疲れているのだろうか。無理をさせすぎたせいで。

 しかしパーシバルの様子の原因は、アネリの想像していた理由とはまったく違っていた。


「…いえ、ただ…、お嬢様がやけにマドック刑事をお気にかけるのが…、私はあまり喜ばしく思えないのでございます」


「ん?」


 アネリは思わず首を傾げる。

 パーシバルは、答えたら答えたでなんだか自分が情けなく思えてきて、下を向きながら「申し訳ございません…」と小さく謝った。

 しかしアネリはやっぱり首を傾げる。


「なぜ? パーシバルもマドック刑事がいないこと、気になるでしょ?」

「いえ、それはそうなのですが……」


 どうやらアネリとパーシバルの感じ方が食い違っているらしい。

 アネリはマドック刑事について話には出すが、まったく心配していない。どちらかと言えばあっさりと警護の任を下りてしまった彼に、呆れすら感じている。この分では今日も警護に戻って来ないだろうから。

 だが、パーシバルは……、


「いいえ、申し訳ございませんお嬢様。……きっとこれは“嫉妬”でございます。お嬢様がマドック刑事のことばかりお話しになるので、私は嫉妬しているのです」


 なんと、そう自分から打ち明けてしまった。

 情けなさそうな恥ずかしそうな顔をしていても、パーシバルは驚くほどハッキリと自分の感情を口に出した。

 アネリは大きな瞳でパーシバルをじっと見て、


「どうして嫉妬するの?」


 予想外にも、そんなシンプルな疑問を投げかけてきた。

 文脈から読んでも理由は明らかだというのに、アネリにはパーシバルが嫉妬する意味が分かっていなかった。

 言葉を失いたいところだ。だがパーシバルはいつものようにハッキリと丁寧な声で答える。


「お嬢様が大好きだからでございますよ」


 それはまるで、子どもに言い聞かせるようなニュアンスを含んでいた。


 アネリは顎に手を当てて考え、しばらく後に、


「ありがとう。あたしもパーシバルが大好きよ」


 ほんのり笑顔で、同じ言葉を返した。


 昔はふたりで言い合ったものだ。母親を亡くした年端もいかない頃のアネリに、パーシバルは無償の愛情を注いでくれた。


『私はお嬢様が大好きですよ』


 …そう囁いてくれたものだ。

 いつから、言わなくなってしまったのだろう。


 懐かしさすら感じながら、アネリはパーシバルから視線を逸らしてドアのほうへ向かっていく。


 “大好きよ。”


 愛して止まないお嬢様から、そんな至高の言葉を貰えたというのに、


「……………」


 パーシバルは浮かない表情のまま、どこか遠い目でアネリの姿を追っていた。

 その理由は、パーシバル自身よく分からなかった。


 ーーいいえ、お嬢様。違うのです……。


 ーー私が欲しかった言葉は、違うのです…。


 ただ、“違う”ということだけは分かる。


 苦しいほどの、今まで感じたことがないくらいの気持ちに押し潰されそうになりながら、パーシバルはアネリの後に付き従う。



 ***



「そういえば昨日の停電はどうして起こったのかしら?」


 廊下を歩きながら、アネリは疑問に思っていたことを口に出した。

 トレイシー警部もこれについては何も言っていなかったし、今朝クレメンスにそれとなく訊いた時も、


『も、申し訳ありません。わたしは存じ上げていないんです、お嬢様……』


 と、本当に心から申し訳なさそうに謝られてしまったのだ。


「これで偶然だったらそれまでだけど、理由があるなら知っておきたいわね。使用人も知らないなんて、もしかしたら電力機器が壊れてるのかもしれないし。ね、パーシバル」


 が、返事がない。


「?」


 不思議に思い振り返ってみると、パーシバルはぼんやりと何もない空間を見つめていた。

 視線に合わせてパタパタと手を振ってみても反応がない。


「パーシバル? どうしたの? 大丈夫?」


 いつものパーシバルらしくない。

 いよいよ不安になってきて、アネリは彼の手を強く握った。

 これでも反応が無かったら……。

 嫌な予感が頭を過ぎったが、パーシバルは「あっ…」と小さく声をもらし、やっとアネリと目を合わせた。

 アネリはホッと胸を撫で下ろす。


「パーシバル、やっぱり疲れてるのね。さっきから様子が変だもの」

「え……? 私が、ですか…?」

「他に誰がいるの」


 アネリは手を握ったまま、爪先を浴室とは反対側へ向けた。パーシバルは戸惑う。


「お嬢様、どちらへ行かれるのですか?」

「オドワイヤーのところよ。調子が良くないなら診てもらわなきゃ」


 オドワイヤーと聞いて、パーシバルの脳内でたちまちふたつの事柄が天秤にかけられた。

 “大好きなお嬢様の気遣い”と“大嫌いなオドワイヤーの診療”だ。

 その瞬間、パーシバルは自分がすっかり気を抜いていたことを思い知る。


 ーー私としたことが、お嬢様にこんな余計な心配をかけてしまうなんて…。


 不覚。だが同時に、


「…ふふ…、いいえ、私は何ともありませんよ。少々…考え事をしていたのです。申し訳ございません…。ですが、お心遣いありがとうございますお嬢様。お嬢様は本当にお優しい方でいらっしゃいますね……」


 悩みも疑問もモヤモヤも、アネリの前では考えるのすら下らないことに思えた。


「……本当に不覚です。見失ってはいけませんね。私の体も感情も、すべてお嬢様の平穏のためにあるということを」


 自分のことで悩むなんて下らない、と。

 常人には理解できないかもしれない。けれどパーシバルにとっては、それが生きている意味になる。

 自己解決したパーシバルは、もうさっきのぼんやりした顔はしなかった。きりっとした頼もしげな笑顔でアネリの質問に答える。


「ではお嬢様、先に地下の電力機器を見に参りましょうか。危険なので、本来ならば業者の方しか許可されていないのですが、お嬢様は特別です」


 さりげなくアネリの手を握り返すところも、いつも通りだ。


「…………」


 アネリは黙って、笑顔を取り戻したパーシバルを見つめた。

 二、三、頭の中であることを考えてから、


「ええ、お願い」


 パーシバルの申し出を受け入れた。


「はい。では、こちらへどうぞ」


 せっかく久々に手を繋げたのだからと、珍しくパーシバルがアネリを先導して歩き出した。

 必然的に、アネリは普段見慣れないパーシバルの背中を見ることになる。


「…………」


 アネリは無言のままパーシバルを見つめていたが、やがてぽつりと声をもらす。耳を澄まさないと聞こえないほど小さな声だ。


「…………ねえパーシバル? あなたは………」


 だが声に出したのはそこまで。


 ーーあなたは、いろんな表情を持ってるのね。


 ーーいろんな、感情を持ってるのね。


 あとは心の中でつぶやく。

 小さなアネリの小さな声は、前を歩くパーシバルには聞こえなかった。



 ***



 地下へ続く扉はひとつだけ。

 ただそれを開くための鍵は複数あるようで、そのうちのひとつはパーシバルが鍵の束として所有していた。よっぽどルロイからの信頼が厚いのだろう。

 普段ここに出入りする人間はいない。そのため、扉の前には警官はいなかった。


「さあ、こちらですお嬢様。暗いので足元にお気を付けて」


 初めて足を踏み入れた地下室は、予想通り薄暗く淀んだ空気が漂っていた。

 コンクリートの壁の狭い通路を抜けると、広々とした空間に並べられた巨大な発電装置の群れを見る。

 いずれも正常に稼動している。装置から発せられるエンジン音が怪物の唸り声のようだ。


「へえ、こうやって発電してたのね」


 話に聞いていただけに、実際見てみるとその威圧感に圧倒されてしまう。


「本邸のお屋敷でも同じ発電装置が使われているのですよ。ただし、こちらは本邸のものよりずっと小さくて繊細なのですが」

「これより大きいの? ……ふうん、屋敷の地下に国家でも築けそうね」


 それほどの衝撃だった。

 軽口を叩きはするが、別荘の明るい内装に比べてここはだいぶ暗い。アネリは内心、早くここから出たいと思っていた。

 それを察したパーシバルが、繋いだ手を少しだけ強く握る……。

 アネリの不安が少しだけ和らいだ。


「装置を止めるスイッチ……みたいなのはあるのかしら。見たところ発電装置だけね」


 電力機器、と聞いて、壁にずらりと設置されたボタンやスイッチを想像していたのだが、壁は真っさらで電灯のスイッチすら見当たらない。

 パーシバルはアネリの疑問に答えるために、広い部屋の隅へ移動する。

 アネリに装置側ではなく壁側を歩かせるところがさりげない優しさだ。


「こちらでございます」


 部屋の隅の壁には、大きく無骨なレバーがひとつ突き出して設置されていた。今は「ON」に傾いている。


「……………」


 アネリはレバーを下げてみたいという衝動に駆られた。当然だ。そこにレバーがあるのだから。

 しかしもしそれをしたら、当然多くの人に迷惑をかけることになる。アネリは渋々自重する。


「お嬢様、触ってみますか?」

「……ちょっと、冗談言わないでよ」


 しかしこれでいくつかのことが分かった。

 レバーは剥き出しで、その気になればすぐに電力をストップできること。

 地下室に入るためには限られた鍵を使うしかないということ。

 そして地下室前には警官が配備されていなかった。つまり誰がここに入っても不思議ではないということ。

 昨晩の停電が犯人の仕業なのは間違いなさそうだ。ただ本人も復旧の速さを甘く見ていたに違いない。


「闇討ちでも考えてたのかしらね。結局ボウガンは仕掛け済みだから意味なかったと思うけど」


 もっともだ。

 結局停電が事故ではなく故意に引き起こされたということが分かった。

 そうとなれば、もうこんな陰鬱な場所にいる意味はない。


「パーシバル、戻りましょ。早くシャワー浴びて休みたいわ」


 アネリはどこかうんざりしたように声を上げる。気が滅入ってきたらしい。


「はい、かしこまりました」


 パーシバルはすぐに返事をし、アネリを連れ早々に地下室から退散した。

 時刻は、午後7時半。



 ***



 いつもならきちんと入浴を済ませ、寝る支度を整え始める頃だ。

 ところが一連のトラブルが重なり、アネリの規則正しい生活にもほんの少しの綻びが出始めてきたのである。


「え? どういうことなの?」


 浴室へ向かう途中の通路で、洗濯や洗い物の担当をしているメイドに呼び止められたアネリは、なんとも都合の悪い出来事を聞かされた。


「……申し訳ありませんお嬢様。実は昨晩の停電の影響でボイラーが故障してしまったらしくて、今は全館でお湯が使えないのです……」


 メイドは申し訳なさそうに頭を下げる。

 自分のせいではないのにこうもペコペコしないといけない仕事は大変だな……とアネリは頭の隅で思った。

 それよりも問題はボイラーだ。この別荘は電力すべてを自家発電でまかなっているくせに、給湯には未だに旧式のボイラーを使っている。

 停電のショックでボイラーのどこかが止まってしまった。つまり、満足にシャワーも浴びることができない状況になってしまったのだ。


「…………」


 普通の人なら1日くらいシャワーを我慢するところ。

 しかしアネリは小さい頃から毎日欠かさず、時には1日3回も入浴してきたため、今更習慣をねじ曲げることなんてできなかった。

 なんとか良い手は無いか。うーんうーんと頭をよじった結果、


「あ、ねえ、お茶用のお湯なら沸かせるでしょ?」

「え?は、はい。電気ポットがございますので、問題ありませんけど……」

「じゃあお湯を沸かして、ちょうどいい温度まで(ぬる)めたら浴室まで持って来て。それで体を洗うから」


 その瞬間、パーシバルの頭の中に「行水」という言葉が浮かんだ。


「お嬢様っ、そのような慣れないことをなさって、もしお風邪を召されたらどうするのです。私は認められません!」


 とんでもない。お嬢様にそんな真似をさせるだなんて。

 他に最良の方法が浮かぶわけもないのだが、それだけはさせるまいとパーシバルは必死になる。

 が、アネリは引き下がらない。


「大丈夫よ。いつもより簡単に洗うだけ。ひとりじゃ難しいから、そこはメイドの手を借りるけど」

「……………っ!」


 パーシバルは言葉を失う。

 だが、もどかしさからではなかった。


「お嬢様……っ、な、なんと慎ましいのでしょう……!」

「え?」


 少しの無理も贅沢も言わず、最低限の質素な方法で体を洗おうとするその姿勢に、パーシバルはひどく感銘を受けていたのだ。


「……で、ではすぐにお湯をお持ちしますね……」


 蚊帳の外状態だったメイドは、コント染みたふたりのやり取りに若干引きつつ、早足でその場から逃げるように去って行った。

 アネリは、よく分からないが何か失望された感じを味わいながらも、


「……先に行ってましょうか」


 なるべく気にしないよう努めて、浴室へ向かうことにした。



 ……………。



 ………。



 時刻は、午後7時40分。



 ***



 浴室の前に辿り着いた時、アネリはあることに気づく。


「あ。ねえ、誰も入浴の準備をしてないなら、鍵も閉まってるんじゃないかしら?」


 これだけ広く使用人も多い館なら戸締まりは厳しいはずだ。アネリは普段鍵を預かる立場ではないのだがそのくらいは分かる。

 また別の使用人に頼むしかないか……と、がっかりしながら引き返そうとしたところを、


「…お嬢様」

「ん?」


 パーシバルが呼び止めた。


「鍵が開いております」


「……本当?」


 始め、パーシバルの言葉をすんなり信じられなかった。

 戸締まりを忘れるなんて有り得るだろうか。ましてや正体不明の犯人にいつ命を奪われるか分からない状況の中で。

 浴室のドアをよくよく見て、


「本当」


 アネリは彼の言葉に同意した。

 指摘された通り浴室は施錠されておらず、それどころかドアは少しだけ開いている。

 ドアの隙間から見える浴室内は明かりが点けられていないため暗く、中で誰かが作業している様子は無い。

 さっきのメイドが開けたわけもない。自分達は彼女とは反対の方向へ歩いて、最短ルートでここへ来たのだから。

 無用心と思いながらも、アネリはドアノブを握り、そっと押し開ける。

 ぎいぃぃ……とドアの音がやけに重く響いた。


「…………」


 明かりの消えた浴室に入るのはこれが初めてだ。

 異質な不気味さを感じながら、アネリは勇気を振り絞り中へ入っていこうとする……。


「お嬢様、私が先に参ります」


 すかさず、パーシバルが留めた。

 アネリに返事をさせるより先に、彼は脇をすり抜け前に出る。大きな背中をまた見ることになり、アネリの不安は少しだけ和らいだ。

 広い洗面所、広い脱衣所を抜け、ふたりは浴場の曇りガラスの前まで歩み寄り、パーシバルが電灯のスイッチを入れる。

 明かりの点いた浴室内は命が宿ったように温かさを取り戻した。

 ホッと息をもらすアネリ。


「………?」


 が、何かがおかしい。

 アネリは曇りガラスの向こう……浴場の大きなバスタブを指差し、その違和感を指摘した。


「パーシバル、誰か入ってるわ」


 アネリの言葉通り、バスタブの淵から人の頭らしいものが突き出ている。

 だが変だ。ここは普段ならアネリとルロイしか使用してはいけない決まりになっているのに。

 使用人の誰かがこっそり入っているのだろうか。

 パーシバルはアネリを背後に隠しながら、浴場のドアノブを握り、


「………っ」


 素早く押し開けた。



「っ!」

「あ…!」



 ふたりは目を疑う。


 確かに、バスタブには人が入っていた。

 確かにそれは使用人であり、主人専用の浴場を勝手に使用していたのも確かだ。

 ただ予想していなかったのは、その使用人が、昨晩まで何事もなくアネリの部屋にやって来ていた“ドリー”という名のメイドであり、彼女がバスタブの中で死んでいることであった。


 時刻は、午後7時45分のこと。



 ***



 速やかにトレイシー警部に連絡を取ったために、野次馬が群がる前に警部によって現場保存ができた。

 第一発見者のアネリとパーシバルもその場に残ることになる。


「…………」


 アネリは息絶えたドリーの姿を見つめた。

 死体や体の損傷を見るのには慣れているはずなのに、さっきまで、……いや今まで、自分の世話をしていた人間が死ぬというのは、悲しさとも悔しさとも取れない気持ちになる。

 だんだんと重苦しい顔に変わっていくアネリの手を、パーシバルはさりげなく握った。

 アネリもそれに応えるように、ぎゅうっと握り返した。


「……2日目の2人目の犠牲者ってわけか……」


 トレイシー警部がつぶやく。

 アネリは無言で頷き、


「…………」


 パーシバルは何も反応を示さない。

 本来なら気を遣ってアネリを部屋に帰すべきだろうが、ふたりがそれを良しとするはずがないことくらい分かってる。

 トレイシー警部は言葉に気をつけながら、ふたりに状況を説明し始めた。


「お嬢さんの食事係だったそうだな。衣服を着たままバスタブに放り込まれてた。死因は感電死だ。外傷が無いから、薬か何かで眠らされてからここへ運び込まれたんだろう。ちなみに、浴室の鍵のひとつは彼女のポケットに入ってた」


 トレイシー警部が摘み上げた透明な保存袋には、水に濡れた鍵が1本入っている。

 そして彼が顎で示した先には、用途不明のアイロンに似た機械が、コードに繋がったままバスタブから引き上げられていた。


「あれは何?」


 アネリが機械を指差し、訊ねる。

 答えは目の前からでもすぐ横からでもなく、浴場のドアから返ってきた。


「心肺蘇生装置。まぁ、要は心臓の上で電気ショックを起こすアレですよ。お嬢様」


 杖を突きながら入ってきたのは、


「あ!」

「…げ!」


 白衣と白髪に身を包んだオドワイヤー医師だった。

 純粋な驚きの声を上げるアネリと悲痛な嘆きを上げるパーシバルのふたりの顔を、オドワイヤーはニヤニヤと眺める。


「実は医務室にあったやつが昨晩から行方不明になってましてねぇ。すぐ使う予定もないんで放っといたんですが、まさか殺人の道具にされるとは。ハッハ」

「放っといちゃだめでしょ、無責任ね。急患が出たらどうするの」


 アネリにぴしゃりと叱られてもオドワイヤーはカラカラと笑うだけ。彼もまた相当肝が据わっているようだ。


「電気ショックってそんなに強いものなの? 人が死ぬくらいの……?」


 ドリーに目を向けつぶやくアネリに、またもオドワイヤーが答える。


「そりゃ、止まった心臓を蘇生させるくらいですから強力ですよ。おまけに水中は電気をよく通しますからねぇ」

「……ああ。だがそれだけじゃなかった」

「?」


 怒りを抑えているようなトレイシー警部は、バスタブを睨みながら言う。


「水中に薬品が混ぜてあった。水と人体に電気が流れやすくなる作用のある薬品だ。これじゃ、やられた人間は確実に死んじまう」


 バスタブの水は無色透明ではなく、よく目を凝らせば、泥でも混じったかのように微かに濁っていた。どうやらそれが薬品であるらしい。

 ドリーの遺体が運び出される段階になって、アネリは自分が何をしにここへ来たかを思い出した。


「……今日は体は洗えないわね。さすがに」


 不謹慎と思ったので、周りに聞こえないようぽつりとつぶやく。

 お湯を頼んだものの、こう警察が大勢いては入るに入られないだろう。メイドには悪いが行水は我慢する他なさそうだ。

 しゅん、と肩を落とすアネリに、パーシバルが優しく声をかける。


「1日きりの我慢ですよ、お嬢様。明日、修理屋を呼びましょう。そうすれば浴室が使えるようになりますからね」


 人差し指を立てて言う姿は学校の先生のようだ。身の上の理由で、教育過程はすべて家庭教師に頼っているアネリには分からない感覚だが。

 パーシバルに連れられる形でアネリは一足先に部屋に戻ることにした。現場のことは警察(プロ)に任せるのが一番だから。


 浴室の入り口をくぐる際、


「……時に、お嬢様」


 オドワイヤーが口を開いた。


「なに?」


 また無駄口を叩くつもりだろうか。

 あまり期待はしないで耳を傾けると、彼はいつもに増して妙な話を始めたのだ。


「停電を起こす方法は、何も主電源を切るだけじゃあない。うっかりとか、ついついとか、予期せず起こる停電もあるってことですな……」


 オドワイヤーは意味深にニヤニヤと笑う。

 “予期せず起こる停電”?


 ーーそれって……


「昨日の停電のことを言ってるの?」


 アネリが訊き返すも、


「……ハッハ、どうでしょうなぁ……」


 オドワイヤーはそうとぼけるだけだった。

 いつもなら彼の軽口なんて一蹴するだろう。

 だが今は状況が違う。昨晩の不可解な停電の謎はまだハッキリしていないのだから。


「……先生、お嬢様の心労を増やすおつもりですか?」


 苛立ちを覚え、パーシバルが凄む。

 が、オドワイヤーはその程度のことで怯むような相手ではない。横目でふたりの姿を意地悪そうに見ながらさらに軽口は続く。


「そうですとも。わしには分かりましたよ。お嬢様がその尊大な頭で考えても分からんようなら、また明日わしの所へいらっしゃい。……パーシバルの定期検診も近いことですしなぁ」

「…………」


 アネリは黙ったまま相手を睨む。

 パーシバルに至っては今にも噛み付きそうだ。

 しかし怒りを表に出すことなく、静かに答える。


「ええ、じゃあその時はお願いするわ。おやすみ、オドワイヤー」



 “おやすみ、オドワイヤー”

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