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episode2【Little Red】

 アネリには、ルロイからきつく定められたいくつかのルールがあった。

 例えば、たったひとりでの外出の禁止。これは危険回避のためだ。

 また門限は午後5時厳守。屋敷の中だろうと、別荘だろうと。広い野外よりは閉鎖的な室内のほうがずっと安全と踏んでのことだ。

 だからこの日、アネリは午前7時になるより前にパーシバルただひとりを連れて、森を抜けた町の市場へ出掛けて行った。門限ギリギリまでたっぷり遊ぶために。

 財布などの貴重品を詰めたショルダーバッグを肩にかけ、この辺りの地図やパンフレットを時々眺めて、深い森の中で唯一舗装された煉瓦の道を進んでいく。


「今日はどこ行こうかしら。小さい頃から何度も探検してるのに、なかなか全部のお店を回りきれないのよね」

「この土地は広いですからね。店は、百貨店から出店まで含めると、とても地図には載りきらないでしょうね」


 他愛ない会話をするふたり。使用人のいる屋敷から1歩出てしまえば、アネリを縛るものは何もない。だからいつもより饒舌になる彼女が、パーシバルは嬉しかった。

 ところで、夏休みを利用して別荘に来たせいもあって、ふたりは装備も何もないとてもラフな格好のまま外に出ていた。子どものアネリは仕方ないとしても、従者兼護衛のパーシバルの服装は相変わらずシャツとスラックス。いつまた命を狙われるか分からないのに、これでは銃なり何なりで撃ってくださいと言ってるようなものだ。

 しかしそこはパーシバルの領分。


「お嬢様、外にいる間はなるべく私から離れないでくださいませ。どうしても離れなければならない時は、“お守り”を胸ポケットに忍ばせておいてくださいね」


 パーシバルの言うお守りに、アネリはちゃんと覚えがあった。

 ショルダーバッグの中をごそごそ探し、小さくて薄い、アルミ製のコンパクトのようなものを取り出す。

 何の変哲もなければ何に使うのかも分からないそのお守り。なぜかパーシバルはいつもこれを持つように言うのだった。


「ねえ、これ何なの? 鏡かと思ったけど違うみたいだし。記念メダルか何か?」


 アネリが訊く。

 すぐには答えは返って来ず、パーシバルは先にお守りを掬い上げ、それをアネリの胸ポケットにストンと落とした。


「これは私の代わりにお嬢様を護る盾でございますよ」

「盾? ふーん……」


 よく分かってはいないけれど、アネリはその答えで充分だと感じた。


「!」


 そんな時だ。脇道の草むらがガサガサと大きく音を立てた。

 身構えるパーシバルとアネリの前に、見知らぬ初老の男が立ちはだかった。

 落ち窪んだ目とこけた頬。明らかにやつれたその男の手にあるのは、警官の所持品と同じ、小型のピストル。粗野な身なりに反してこれだけは新品同様なため、盗んだものだということはすぐに察しがついた。


「……う、動くな……っ! テメェ……その顔、その髪……ッ、間違いねえ。リトル・レッド社の社長の娘だな……!?」


 歯をがちがち震わせながら男が叫んだ。

 リトル・レッド社。その名前を口にした時、彼の目に悲しいくらいの憎しみの炎がこもったのは明白。

 リトル・レッド社とは、言わずもがなアネリの父ルロイが経営する大手企業。一体何の会社なのかと問えば、それを聞いた人間は皆敵意を抱いた。

 目の前の初老の男も同じ。リトル・レッド社に深い憎しみを向けるひとりだ。

 しかして、そんな彼の気持ちを分かっていながら、


「ええ、そうよ。あたしアネリ・ウォーロック。リトル・レッド社の人は“赤毛のアン”って呼ぶの」


 アネリは男の感情を逆撫でした。


「で、あなたが亡くした人は、パパの作った()の流れ弾にでも当たったの?」


 リトル・レッド社は、世界屈指だ。

 世界屈指の、軍事兵器の製造・販売を行う大企業だった。


 現代でも止むことのない紛争やテロ。軍事兵器製造業とは、そういった武装兵に武器を提供する、まるで貴族ご用達の帽子屋のようなもの。

 無くてはならない間柄だが、その関係が深くなるということは同時に、最新式武装兵器で命を落とす人間が増えるということ。家族や友達や恋人を失った遺族が、恨みを抱くのも当然の流れだ。

 初老の男は照準が定まらないほどブルブルと手を震わせている。危なっかしくて見ていられないが、気を抜けばいつ撃たれるか分からない。アネリは挑発する反面、男の動向を真剣に見定めようとする。


「戦争しやがる軍人どもは糞野郎だ! だがな、奴らが使う武器さえ作られなきゃ、おれの娘は死なずに済んだ!! てめぇの父親のせいで、何もかも目茶苦茶になったんだ!!」


 男の声が辺りに響き渡り、風も微かにビリビリと震えた。

 アネリは気丈な表情を保って、男に確認する。


「だから腹いせにあたしを殺すのね? 憎き社長のたったひとりの子どもだから」

「ああ、そうだ。お前に罪が無いことは分かってる。だがおれの娘にも罪は無かった。これは妥当な報復だ。違うか?」

「ええ、そうね。あなた物騒だけど本当に家族想いなのね。そういう人って好きだわ、あたし」


 今まで無言無表情を貫いていたパーシバルが、アネリの最後の一言を聞いた時にだけ、ピクリと反応した。もちろんそんな小さな変化にはアネリも男も気付かない。

 こんな子どもからの「好き」という発言は、男にひどく屈辱的な気持ちを抱かせた。

 男の中に、アネリが亡き娘と重なって見えたから復讐を躊躇う……などという都合の良い気持ちは芽生えない。ルロイ・ウォーロックの娘となれば、それだけで殺す理由として充分。そう盲信しているから。


「……その生意気な口を閉じろ。顔面をグチャグチャに撃ち抜いてやるぞ」


 またも物騒な言葉を吐く。

 が、その顔は今までとは一変。見開かれ、ぐらぐら揺れる目にあるのは復讐一択。

 アネリはここらが引き時と判断し、


「パーシバル、捕まえて」


 命令を下した。

 パーシバルの胸の中が大きくざわめく。緊張ではなく、期待とか喜びとか…、


「殺しても構いませんか?」


 はたまた、狂気とか。


「あんまり抵抗するならね」


 お嬢様のお許しを得たとたん、パーシバルはフリスビーを投げられた犬のように前へ駆け出した。

 もちろん目先にあるのはフリスビーではなく、生きた人間だ。

 武器を持つ人間だ。


「うわああぁぁぁぁ!!」


 ピストルを少しも恐れず接近してくるパーシバル。

 その不気味な様子に男は思わず悲鳴を上げ、両手でしっかりピストルを握ると、その引き金を引いた。

 耳を裂く銃声がひとつ。目標を定めず放たれた弾は、


「……っ!」


 パーシバルの左腕に命中。


「やっ…………」


 心の中で「やった」と叫んだ男は、さらに引き金を引く。何度も、何度も。


「……ツ、う……ッ」


 さっきの1発目に加えてさらに4発。合わせて5発の銃弾は、すべてパーシバルに命中した。

 左腕に2発。右足に1発。肩に1発。脇腹に1発。すべてがパーシバルの体内に残ったまま。

 脚を撃たれたせいでバランスを崩し、パーシバルはその場に倒れ込んだ。傷口から(おびただ)しい量の血が流れ出ている。パーシバルは呻くこともできず、ただその場に伏すだけ。

 そんなパーシバルの脳天に、男は銃の狙いを定めた。


「ハ……、ハハ、馬鹿が。おれの邪魔をするから…おれの……」

「……………」


 その気になれば一瞬で殺せるシチュエーションだというのに、男は引き金を引かない。

 その理由はすぐに明らかとなった。


「お付きは役に立たなかったな、ガキ。てめぇはこれからたっぷりいたぶってから殺してやる……」


 ピストルに残った最後の弾丸は、アネリのための1発だ。

 照準をパーシバルからアネリへ移した男は、ひきつけでも起こしたような笑い声を立てた。

 アネリはその場に立ち尽くしている。


「パーシバル?」


 足元には動かないパーシバルの身体。目の前にはピストルを持つ男。絶体絶命の状況でアネリは、叫んだ。


「…きっ………、きゃああぁぁ!! ごめんなさい、ごめんなさい! 助けて! 殺さないで!!」


 これには、男も驚きを隠し得なかった。


「な……………」


 さっきまで散々歯に衣着せずに自分を挑発してきたくせに。散々、余裕を振り撒いていたくせに。

 そのアネリがあっさりと命乞いを始めたのだから。


「やめて! あたしなんにも悪くないよっ……! お願いだから殺さないで……!!」


 その場に膝から崩れ落ち、顔を覆い隠して泣きわめく。年相応の子どもらしく。


「今更何言おうが手遅れなんだよ! そんな命乞いしたところでおれはお前を…………っ」


 アネリは溢れ出す涙を何度もぬぐい、嗚咽が混じった苦しげな声で訴える。


「……助けてっ、殺さないで……あたし死にたくない! 死にたくない! 死にたくないよパパ……っ!」


「……っ…!」


 アネリの発言に、男は目を見開く。

 死にたくない、死にたくないと訴えるその小さな姿が、死んだ自分の娘と重なってしまった。


『おとうさん…! 死にたくないよぉ…!!』


 心が揺らぐ。自分は何をしているのだと。

 アネリもその父親も会社も憎くてたまらないのに。アネリを殺し復讐する。そう娘に誓ったのに。これでは自分は、罪の無い子どもを容赦なく殺す奴らと同類じゃないか。

 ピストルを持つ手が大きく震えだし、少しだけ正気を取り戻した男はその惨状を両目でハッキリと見た。

 自分を恐がり泣く少女と、少女の大切な従者の……死体。


「………あ………」


 同じになってしまった。


「……あ、あぁあああぁぁ……!」


 同類だ。


「嫌だぁぁ!! 違うちがう、おれは違う! おれは奴らとは違うんだ!! 同じじゃないんだッ!!」


 男はピストルを放り出し、頭を抱えて狂ったように叫び出した。


「うわああああぁぁぁぁっっ!!!」


 男が両膝を地面につけた。


「………………」


 その時だ。

 男の視界の端で、むくりと起き上がるものがあった。

 気が動転していても、無意識に動くものに目を向ける。


「…なん、でッ…!!!」


 そこには、


「お嬢様、ご命令を。今すぐにこの男を殺せと」


 死んだと思われていたパーシバルが、放り出された男のピストルを構えて悠然と立ち上がっていた。

 全身血まみれで、顔からは血の気が引いているのに、彼は冷笑を浮かべている。撃たれたことが嘘のように、パーシバルは再びそこに立っていた。

 男は心の叫びを口に出す余裕もなく、パーシバルを見上げる。


「――――ッ!!」


 銃口が額に押し付けられてやっと恐怖心が湧いてきた。殺す側から死ぬ側に回ったという恐怖心だ。

 異常な展開を見せるのはパーシバルだけではなかった。今さっきまで後ろで泣き崩れていたアネリも、


「殺す必要なさそうよ。まだこの人にもちゃんと罪悪感とか残ってるみたいだし」


 ハンカチで上品に涙を拭き取り、パーシバル以上に涼しい顔でそう言った。

 パーシバルが不服そうに男を見下ろして、舌打ちをする。

 理解できないことが続く男のために、アネリは順を追って説明を始めた。


「ごめんなさいね。ちょっとしたテストのつもりだったの。パーシバルには死んだふりをしてもらって、後に残ったあたしをあなたは殺せるかどうか」


 つまりパーシバルが何もできず倒れたのも、アネリが急に泣き出したのもすべて演技だったということ。


「結局あなたは、あたしを殺すのを躊躇った。だから今こういう状況になってるのよ。助かったわね。……でももし躊躇わないで引き金を引くようなら、その直前にパーシバルがあなたを殺すはずだったわ」

「……私は今すぐにでもこいつを殺してしまいたいのですが」

「我慢してよパーシバル」


 アネリは男に近寄る。


「……お嬢様」


 まだ完全に危険が去ったわけではないと考え、パーシバルはアネリを止めようと声をかけるが、アネリは構わず男のすぐ対面までやって来る。

 しゃがんで目線を合わせても、男の目にもう戦意はない。今なら、例え触れても大丈夫そうだ。


「おじさん、名前は?」

「………っ……」


 アネリの質問に、男は答えない。

 パーシバルが黙ったまま銃口を再度強く押し付けると、男の喉から掠れた悲鳴が漏れた。


「……で、デボン……。アントニオ・デボン……」

「ふうん、デボンさんね。もうあなたに殺す気がないのは分かってるけど、命を狙ったことには違いない。捕まってくれるわよね?」


 逃がすことはできなかった。またいつ気が変わるか分からない。それにデボンのような人間をたくさん捕まえればルロイからご褒美を貰えるのだ。

 仮にデボンが抵抗してもパーシバルに命じて無理矢理にでも捕まえるつもりだったが、デボンはすべてに絶望したように項垂れてしまった。


「……もう、おしまいだ……。妻には愛想を尽かされ、リンダも亡くして……、おれにはもう何もないんだ……。生きてる意味も何も……」


 さっきまでの威勢が嘘のよう。

 緊張の糸が緩み、堪えていた涙をボロボロこぼし、鼻水までズルズルと垂らすデボン。

 娘を想う姿は紛れもなく父親。けれど今はただ子どものように泣きじゃくるだけだ。


「デボンさんの人生は終わってなんかないわ」


 そのアネリの一言が、デボンを救うことになる。


「え………?」


 唖然と見上げるデボンの目元に、アネリの白いハンカチがそっと当てられた。(パーシバルがまたピクリと眉を引き攣らせたのは言うまでもないこと)


(かたき)討ちなんて格好良く言ったところで、人を殺すことには変わりないでしょ。そんな醜い方法は止めるの。いくらでも手はある。紛争や武器廃止の運動に参加して、戦争を無くせばいい。“リトル・レッド社を潰せば”いいわ」


 アネリの発言に驚いたのはデボンと、傍らに立つパーシバルだ。

 自分の父親の会社を潰せと激励するアネリ。その真意は分からないが、デボンの胸に微かに火が灯ったのは確かだった。


「……お、お前、正気か? 父親の会社だろ? それを……」


「軍人も、好きで戦争するわけじゃないわ。兵器職人も同じ。人を殺したくて爆弾や弾丸を作るわけじゃないもの。戦争なんて無いほうがいいなんてこと、本当は皆分かってる……」


 語尾を消え入らせたアネリは、デボンを優しく見つめている。

 デボンはまた新しい涙を目に溜め、今度は切なく、堪えるように、小さな嗚咽を漏らすのだった。



 ***



「いやぁ、お嬢さん。毎度のことながらよく無事に生き延びたなぁ」


 気さくな様子でアネリの肩を叩くのは、年季を感じさせるベージュのトレンチコートを着、くるんくるんの栗毛頭をした中年の白人男性。名を、トレイシー警部。

 ベテラン刑事と称される彼は、“アネリの命を狙う犯人を捕まえる”というウォーロック家の奇妙なゲームの一番の協力者であり、理解者だ。

 今やウォーロック家のゲームで犯人が現れれば、真っ先にトレイシー警部が現場に出向くといった具合。

 そのためアネリにとってはルロイに代わる、第二の父親のように親しい存在となっていた。

 デボンが戦意喪失したあの後、アネリは彼を別荘の一室に隔離し、その後トレイシー警部に連絡したのだった。『ゲームのオニを捕まえたから引き取ってほしい』と。


「休暇のために別荘に来たってのに、これじゃあ気が休まる暇もねえな。まあ安心しな。こわーい犯人は、オレ達警察がちゃんと刑務所にぶち込んでやる。敵討ちだか何だか知らねえが、ガキを手にかけようだなんてクズ野郎のすることだ」


 トレイシー警部の喋り方はいつも荒々しい。まだ幼いお嬢様に移っては大変と、パーシバルはこの口調をやめてほしいと考えていた。


「ポイントが増えるって考え始めてからむしろ楽しく思えてきたわ。それに今回もパーシバルが助けてくれたから大丈夫よ。ありがとね、パーシバル」

「お嬢様……っ!」


 小さな悩みもアネリの言葉であっという間に吹き飛んでしまうのだから不思議なものだ。


「そいつはそうとオイ、お付きのニーチャン」


 トレイシー警部は顎を動かして、うっとりとした表情のパーシバルを呼んだ。

 どうやらアネリの時といいパーシバルの時といい、トレイシー警部には相手の名前を正確に呼ぶ気がないらしい。

 突然現実に戻されたため、パーシバルは不満そうに警部を睨む。


「私に何のご用でしょう、トレイシー警部」


 すると警部は困ったように頭を掻いて、パーシバルの体に残る弾痕を見つめた。


「さすがにその傷は見過ごせねえな。送ってやっから、近くの病院に行け」


 元々白かった衣服は大部分が赤く染まり、流れた血の一部が固まり始めている。

 弾丸5発を食らったなんて明らかに致命傷だ。


「いえ、私なら大丈夫です」


 しかしパーシバルはそれを拒んだ。当然トレイシー警部は苦い顔をする。

 というのも、パーシバルが致命傷を負ったにも関わらず病院へ行かないのは、今回が初めてではなかったのだ。


「……てぇ言ってもなぁ。あんたの体が人より丈夫なのは知ってるが、万が一ってこともある。弾が貫通したならともかく、体ン中に残ってるのは厄介だ。なんで避けなかったよ? 避けられない状況ってワケじゃなかったんだろう?」


 確かに、デボンはピストルの扱いなど全くの素人。パーシバルがその気になれば、撃たれる前にピストルを奪い取ることもできただろう。

 しかしそれをしなかったのは……


「テストしたのよ」


 アネリが口を開いた。トレイシー警部の目がそちらに向く。


「お嬢様のテストのためにまず相手を優位に立たせる必要がございました。あの型のピストルは弾が最大6発までこめられますので、五発ほどこの身で受けました。1発もお嬢様に届かないよう、貫通させずに体の中に残したのです」


 淡々と語るパーシバルの言葉を聞いて、トレイシー警部は「まさか…」と感嘆の声を漏らした。


「とんでもない奴だな。この前は無数の切り傷を作って、ある時は大火傷。今度は穴だらけかよ……。お嬢さん、少しはこいつに無理しないよう言ってやれ」


 自分が言ったところでパーシバルが聞くわけがないことは分かりきっていた。

 しかしアネリまでも不可解そうな顔をして、


「え? なぜ?」


 そう聞き返してくる始末だ。


「なぜ……ってなぁ。あんたも不満はないのか? お嬢さんの代わりに命を危険にさらさなきゃいけねえなんてよ」


「お気遣い痛み入ります、トレイシー警部。しかし私はお嬢様の護衛(ガード)です。お嬢様のご命令ならば忠実に従うのが義務であり、喜びです。死ぬ時はお嬢様を護って死ぬようにと命ぜられているのですよ。生まれた瞬間から」


 淡々と、しかし興奮を押し隠して話すパーシバルに、理不尽さを感じている様子はない。心の底から“お嬢様”を慕い、従っているらしい。

 彼の何がそうさせるのかは、全く見当がつかないが。


「そうか、あんたお嬢さんが生まれた時から傍にいるんだったな。そりゃあ自分の子供みてーに大事だろうな。よし、納得した」


 うん、うんとなんとか自己解決しようと努めているトレイシー警部の姿を、パーシバルはなぜか困ったような笑みで見つめていた。


「トレイシー警部、例の密売グループの取引場所が判明したそうです。今すぐ現場に急行するようにと」


 唸りだしたトレイシー警部を呼んだのは、部下のひとりである若手のマドック刑事だ。

 きちんと整えた金髪と濃青のスーツが爽やかな印象を与える。

 野性的なトレイシー警部とは対照的に、こちらは名門大学を首席で卒業したエリート……といったイメージも。


「おぉ、やっとか。思ったより遅かったな。そんじゃあお嬢さん、デボンはこっちで預かるぜ。オレは行くが、また何かあったら呼んでくれや」

「ええ。お世話さま、トレイシー警部」


 アネリはきちんとお別れを言うと、車に乗る警部のために1歩下がって道を開けた。同時に、顔のすぐ横で手をパタパタと振る。

 アネリの見送りを受け、トレイシー警部とマドック刑事は車に乗り込み、夏の風のように颯爽とその場を去っていった。それに続き他のパトカー達も尾を引いてついていく。

 車の群れが見えなくなるまでアネリはパタパタと手を振り、パーシバルは丁寧にお辞儀をする。

 その際、


 ぽた、ぽた……


「パーシバル、別荘に戻って傷の手当てをしてもらいなさいな」


 パーシバルの傷口から溢れてきた血が地面に赤い水溜まりを作った。

 さすがにアネリも、その痛々しい光景を見るのはつらくなってきたようだ。

 いつもなら、パーシバルが自分から「治療のために屋敷に戻りましょう」なり言うのだが、今回はなかなか切り出す余裕がなかったのだ。

 アネリに体を気遣ってもらったことで、パーシバルのテンションはいとも容易く有頂天になり、普段旦那様にも見せないようなとろけた笑顔を浮かべる。

 だが服の大部分が真っ赤に染まっているため、極上の笑みもただの猟奇シーンにしか見えないから残念だ。


「……これはお見苦しいものを……」


 そう恥じらいながら持っていたハンカチで傷口を押さえつける。薄手のハンカチはすぐに赤くなってしまった。


「見せて」


 見兼ねてアネリも、自分のハンカチを傷口に宛がう。

 厚手のハンカチはふたり分の涙と大量の血を含んでもまだ色を保っていた。


「……申し訳ございません。お嬢様の清潔な持ち物が、私などの血で……」

「なにそれ」


 それではまるでアネリが抗菌の塊のようだ。


「わけの分からないこと言わないで。さあ、別荘に戻りましょう。トレイシー警部の言う通り、あたしもちょっとあなたをこき使いすぎたみたい」

「とんでもございません! 私の存在意義はお嬢様のお役に立つことにあるのですから当然です」


 アネリの先導で、ふたりはもと来た道を引き返す。

 脚を撃たれ、引き摺りながら歩いているのに、パーシバルは少しも痛みを感じていないらしい。

 肩も関節を撃たれたはず。しかし彼は自然に腕を振っている。

 見れば見るほどパーシバルという男は不可思議だ。

 そして、そんな彼に慣れきってしまっているアネリも、充分に奇妙と言える。

 さりげなく足元を確認しながら歩いていたパーシバルの目が、アネリのショルダーバッグから微かに覗いている地図へと向く。


「お嬢様、申し訳ございません……」


 そうだ。本当はふたりで街を散策するはずだったのに。自然と謝罪が口をつく。

 アネリはすぐに察したようで、地図を見えないようにしまい直す。


「またいつでも行けるわよ。もとはと言えば無茶な作戦立てたあたしに非があるんだもの。どうしてパーシバルが謝るの?」

「………お嬢様………」


 残念、悲しい、寂しい、……いや、どれも違う。

 アネリのせっかくの外出を駄目にしてしまったことでパーシバルが感じたのは、デボンへの殺意だった。

 けれど一度アネリのテストをパスした彼を殺しに行くわけにもいかない。


「……お嬢様。もし今日中に次の悪漢が現れたら、その時は殺して構いませんね?」


 だから別の人間で憂さ晴らしができないだろうか。

 そんな、ほんの少しの希望を持ってみたが、


「あんまり聞き分けのない人ならね」


 アネリの言葉によってお預けを食らう羽目になってしまった。

 ふいに、パーシバルはテストの時アネリが言った言葉を思い出した。


『何でも手はある。紛争や武器廃止の運動に参加して、戦争を無くせばいい』

『リトル・レッド社を潰せばいいわ』


 いくら平和を願うといっても、自分の大好きな父親の会社を潰せだなどと……普通言えるものだろうか。

 もし、万が一、本当に会社が潰されてしまったら…?

 その旨を訊ねると、アネリは意外にも楽しげに答えるのだった。


「大丈夫よ。だって愛情深い人間がいる限り、戦争が無くなるなんて有り得ないもの」


 大切な娘のために人殺しに手を染めかけた人間がいる。

 大切な少女のために多くの殺人を犯した人間がいる。

 一番厄介なのは私利私欲の殺人ではなくて、誰かのための殺人。


「…………なるほど」


 パーシバルはなんだかひどく納得した。

 なぜなら、自分はその言葉の根拠を説明できるから。


「ならば私も、お嬢様がご存命の限り、侵入者を殺す事を厭わないでしょうね」

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