そんなわけないだろ
『燕の止まり木亭』を出たところで偶然アウグストとノーマンの二人と遭遇した。
戦の前にやることと言えば酒宴だろう。
そう思って俺は闇市の商人に命令を飛ばして飯と酒を大量に用意させたのだが……飲み食いとはまた違う方法で士気を向上させる者もいる。この二人はそういう気質であるらしい。
色街。そういう店がこぞって軒を連ねる淫靡な区域。
男の欲をその身で受け止める娼婦が店前に立ち、道行く獲物へやんわりと手招きする。酔っ払って千鳥足をしていた男が、火に飛び込む羽虫のようにふらふらと誘われていった。
雄を引き寄せるフェロモンに満ちた欲望の集積地。その入口に立ったアウグストが荒い鼻息を吹き出して言う。
「勇者ガルドよ。貴様はァ……好いている女はいるか?」
「なんだ突然。まあ……いるにはいるが」
「俺ァ……ウェンディ嬢が好きだッ!」
「死ねよ。あいつはテメェのことを死ねと思ってるぞ」
「理由はァ……やはり、身体の相性ォ……だろうな。愚かだと笑うか? だが俺様にとっては……それが全てだ。獣のように昂ったあの夜をォ……俺は未だに昨日のことのようにッ! 思い出せるッ! 下腹部に走る痺れが……俺様とウェンディ嬢とを繋ぐ縁だった……!」
「ノーマン、こいつを黙らせろ」
「無理っすよ。こうなると止まらねぇんだ。まだ竜に一人で勝つほうが楽だぜ……」
なんなんだこいつ。どういう経緯でこんなケダモノが生まれたんだ。はるか昔に人を作ったやつもまさかこんなイレギュラーが産声を上げるとは思わなかったことだろう。なんなんだお前。
「だが……」
諸手を挙げて天を仰いでいたアウグストがシュンと項垂れる。
「ウェンディ嬢はァ……男だった……そうだな、勇者ガルドよ」
「残念だったな。その通りだ」
「その言葉は、偽りなきものなのだな……?」
「しつけぇな。諦めろよ。あいつにゃ一物が付いてんだ」
「………………本当にィ?」
「ノーマン! 【六感透徹】使え! 使ったか? あ!? 行くぞ! ウェンディはチンコ生やした男なんだよッ! 二度とアウグストの前に現れるつもりはねェ! 死ね!! そう言ってる! どうだオイ! これが嘘に見えるか!? あぁ!?」
「イヤ…………嘘じゃないッスね、ハイ」
「オラみろ馬鹿がッ! ウジウジと未練がましいこと言ってねぇで諦めろッ!!」
「そォか……なら仕方ねェ……」
『柱石』などと呼ばれている傑物らしからぬ軟弱な態度だったアウグストだったが。
「むんッ!」
暑苦しい気合いとともに両手で己の頬を張る。人が人の肌を叩いたとは思えないほどに鋭い破裂音が鳴り響いた。放射された圧が肌の表面を撫でる。
瞑目していたアウグストがゆっくりと目を開く。獣のように重い息を吐き出し、唸るような低声で言う。
「俺様はァ……新たな愛を追う探求者に戻ろうと思う」
「そうか。じゃあな」
くだらん宣言だ。勝手にしてりゃいい。俺には関係のないことである。
俺は身を翻した。適当に手を振りつつ広場に向かう。
「待て。勇者ガルドよ」
「あんだよ。これから約束があるから手短にな」
「貴様も……ともに来い。これから……世界を救うのだろう? 景気付けに一発ヤり、そして皆で語らう。此れ以上に……力が得られる禊もそうあるまい」
知らねぇよ。少なくとも俺はそっち側じゃねぇ。俺は言った。
「前にも言ったろ。俺は色街になんて行く気はねぇっつの」
そこでノーマンが首を傾げた。しかしそれも一瞬、すぐに納得を帯びた声を出す。
「前にも……? あぁ……鉄級のエイト、なんだもんな……そういやあったなそんなことも」
「あの時も……貴様はいつの間にか姿を消していたな……何をそんなに頑なになっている? 勇者ガルドォ」
「俺はむやみやたらに種を撒く気はねぇの。そんだけだ」
「初心なことを言う。女を抱くのが初めてというわけでもないのだろう?」
「…………」
俺は黙った。
【六感透徹】を使ったままだったのか、ノーマンがやたら浮ついた声を掛けてくる。
「おっ……? もしかして勇者様よぉ……未使用か?」
「……そんなわけないだろ」
「へぇ……! 英雄色を好むなんて言うし、さっき女がいるみたいなこと匂わせてたからてっきりソッチも剛の者なのかと思いきや……へぇ〜。まさか俺も勇者様に先輩面できることがあるとはなぁ……!」
ノーマンがばしばしと背中を叩いてくる。チッ……こいつ調子に乗りやがって……。抱いた女の数が何だというのか。急に距離を詰めてきやがってクソが。これが王都なら不敬罪だぞ。
「あまり図に乗るなよ、ノーマン。溶岩竜騒動の折、鉄級のエイトの前で無様な土下座姿を晒した負け犬の分際で」
「どうしましょうかアウグストさん。やっぱまずは自信つけてくれる系のコのがいいっすよね」
「あァ。それでいて……勇者相手でも物怖じしない豪胆さを併せ持っていればなお良しッ!」
「聞けやてめぇら! おい、離せ……!」
この……! こいつら急に精神的優位に立った気でいやがる!
勇者の威光もこの街の猿相手には効きにくい。普段はそれが心地よかったのだが、今は無性に腹立たしく思えた。
「ガルドよ……くだらぬ童貞など……早めに捨てておけ。世界が変わるぞォ?」
「そうだぜ。それにな……これは真面目な話でもあるんだぞ? 変に操を立てようとしてよぉ、逆に本命に幻滅されたらどうするんだ? 要は練習よ、練習。な?」
「幻滅……」
「笑い話じゃないぞ? 相性が悪いってんで縁が切れるなんてのぁよくある話なんだ」
「ち、知識は人なりにあるぞ……幻滅なんて……」
「あーそれ一番だめなやつだから! こんなはずじゃなかった、なんてのがいっちばんダメ! 相手にも失礼になるぜ? な、ここは自信をつけておくって意味でさぁ……」
俺の肩に手を回したノーマンが背を叩きながら足を進める。つられて俺も歩き出す。色街の方へ――。
「ま、待て……! そう、約束、俺は今日別の約束があってだな……」
「破れ。ガルドよ……『漢になるための禊を済ませてきた』。その理由を聞いて黙らぬ相手なら……そやつは今後一切付き合うに値せぬッ!」
「くくっ、いいこと言うぜアウグストさんはよぉ。そういうこった。ほら、イこうぜ!」
なんだこいつら。俺は勇者だぞ……。それをこんな馴れ馴れしく……クソがっ! 俺はお前らの友人じゃねぇんだぞ……!
「待てって、おい……俺は勇者なんだぞ……その俺が、こんな……」
「まーまー。勇者なんてココじゃ関係ねぇよ。いくら偉かろうと着てるモン取っ払ったらそこにいるのは一人の男だぜ? ナニ放り出して権威もクソもねぇだろ。んで、終わったら風呂で互いにどうだったか話し合うのさ。案外スッキリするもんだぜ? 裸の付き合いってやつだ」
「然り、然り! 理解したならァ……行くぞ新入り! 女に怖じる者がどうして世界など救えようか! 聖剣も錆びては魔物も斬れぬ。男の磨き時だぞ、勇者ガルドよォ!」
「待て……! ほ、本当に……行くのか……」
「一体何をしているんですか……貴方たちは」
はっ! その冷や水を浴びせるが如き零度の声色は……!
ばっと振り返る。俺に続きアウグストもゆっくりと振り返った。飢えた獣のような声で言う。
「……ミラ。何をォ……しに来た」
「勇者様を抱き込んでするのが下卑た猥談とは……つくづく程度が知れますね。恥という概念を知らないんですか?」
『遍在』のミラが路地裏から姿を現した。足元にはミラが飼っているスライがいる。俺の臭いを追わせて来たのだろう。
ミラに煽られたアウグストが特有の圧を放つ。一触即発の空気。アウグストが悪鬼さながらの形相でミラを睨みつけた。
「小娘の域を出ぬ貴様がァ……何をしにこの『男の聖域』に足を踏み入れたッ! 男を解さぬ器量なき小娘とはいえ……先の発言は捨て置けぬ。事と次第によっては……戦争だぞ」
「死ねばいいのに……。頭を下半身に支配された節操なしの腰振り猿に用なんて有りませんよ。用があるのは――」
そこで『遍在』は俺を見た。
極力まで感情を排した瞳。周りから舐められぬようにという気概だろう。研がれたナイフもかくやの視線が俺を射抜く。
「勇者ガルド様。約束がお有りとのことですが……少々お時間をいただけませんでしょうか。……恐らく、勇者ガルド様にとっても無関係なことではありませんので」
▷
アウグスト、ノーマン両名の魔の手から逃れミラの後に続く。辿り着いたのは俺もたまに通る路地裏の奥であった。
区画整理が杜撰だとどうしても死角が生まれる。ここであれば表からは見えず、且つそうそう人が入り込んでくることはない。密談を交わすにはうってつけの場所であった。
「勇者様は」
先導していたミラが振り返らずに言う。
「あの二人の勧誘を嫌がっているように見えましたが……魔法を使えば難なく離脱できたでしょう。そうしなかったということは……もしかして、お邪魔してしまいましたか?」
針で刺すような含みを持った物言いである。まったく、この街のやつらは勇者の威光を恐れなさすぎだろ。申し訳程度の様付けがむしろ皮肉を浮き彫りにしているというかね。
ただまぁ……向こうの言い分が正しいので反論はできん。俺は言った。
「諸事情でな。できる限り魔法を使わずに生活する訓練的なものを実施してるところだ」
「なるほど。【偽面】を使わないのも……その一環ですか?」
「それもあるっちゃあるが……まあ、諸事情だ」
「そうですか」
詮索は無意味と悟ったのだろう。ミラはそれ以上言及することはなかった。
路地裏の奥。人気がなく、外の喧騒も届かない暗がりの曲がり角を曲がってすぐのところでミラは足を止めた。
「私は……犯罪を嫌悪しています」
独白のように紡がれた言葉が薄闇に溶ける。
「平和を脅かし、生きる権利を奪い、尊厳を凌辱する。程度に差はあれ……やっていることは同じです。根本は変わりません。私はそう考えている。敷かれた法を皆が平等に守れば悲劇は減るに違いない。その考えのもと、私は自分にできることを全うして生きてきました」
冒険者は猛者揃いだ。魔物などという化物を相手に命のやり取りをする連中が軟弱でいられるわけがない。
そんな猛者どもの巣窟で己を磨き、若くして金級の地位を手にし、治安維持担当の頭を張るに至った女がこいつだ。才能に甘んじることを許さぬ矜持があったからこそ……こいつはここまで上り詰めたのだろう。
「もちろん……私の言い分が綺麗事なのは理解しています。悪事であろうと手を染めなければ生きていけない者がいるのも承知していますし、欲がなければ発展もまたあり得ない。犯罪のない世の中なんて、達せられることはないのでしょう」
語るミラの足元でスライが主人を気遣うような鳴き声を上げた。賢いこいつらは人の機微にも敏感だ。スネに頭を擦り付けるさまは親が子をあやす手付きにも似ている。
「……心配してくれるんですか? ……可愛いですね。ありがとう」
「クゥ……」
しゃがみ込んでスライの頭を撫でたミラが顔を綻ばせ――しかし次の瞬間に冷徹な光を瞳に宿した。
「だからこそ私は――国が行った所業に納得していません」
「…………まぁ、だろうな」
今回の騒動は俺が宰相の心を折り、国が方向転換を受け入れたことで全てが円満に終わった……というわけではない。
辺境の地にも火花は散ったのだ。不信という名の燻りが生まれるのは目に見えていた。
「力持つ者を秘密裏に処理していた件や……私たちエンデの民を人質として扱う所業……腸が煮えくり返る思いです。私は、あんな話を聞いた後に……なぜあの色ボケ二人があそこまで能天気でいられるのかが分かりません」
「ルーブスには話をしたのか?」
「はい」
「なんて言ってた?」
「国家という意思の集合を運営するには……それが必要なことだったのだろう、とだけ」
「結論としちゃ、まあそんなところだろうな」
正解なんてない。人は未来視なんてできないんだからな。国家運営なんて結果論でしか語ることなんてできんよ。栄えりゃ名君、廃れりゃ暗君。分の悪いギャンブルみてぇなもんだ。
「勇者様は……国のやり方に肯定的なのでしょうか」
「否定できない、っつーのが正しいな。魔法も呪装も……人が抱え込むには厄介すぎるシロモノなんだろうよ。使い方次第で国が傾くんだ。もしも国が人の善性に重きを置く政策に舵を切ってたら……今の国はなかったかもしれないしな」
所詮はたらればの話だが、間違ったことは言ってないつもりだ。
身の丈に合わない欲を抱えたどこぞの馬鹿が強力な呪装を手にしたら国が終わる。そういう危機を常に孕んでいたんだ。いま国が滅んでないのは、もちろん姉上らの奮闘のおかげでもあるが、それでも奇跡的と言っていい。
エンデを質にとって俺を脅したのもそうだ。
国を揺るがしかねない策を企てる不穏分子……勇者ガルドを始末するためには必要なことだった。それだけのことであり、俺はそのやり口を否定しない。
確固たる芯を持っているミラにとって、正義の象徴のような勇者から賛同を得られなかったのは堪えたのだろうか。
ミラが小さく息を吐き、視線を埃塗れの床へと落とす。
「…………罪を犯した国が裁かれず、罪を犯していない人が裁かれるという在り方に……私は理を見出だせません」
「やむを得ず犯される罪ってのもあるってこったな」
「それでも……やむを得ず、なんて理由のせいで犠牲になる人は――」
「だから俺がなくす」
「…………え?」
「前にギルドマスターの部屋で言ったろ。魔物のついでに魔力も消す。……魔法も、呪装も、全部消える。人の手に余る力はなくしちまえばいいっつう寸法よ。……そうすりゃ国も多少は健全な運営に精を出すだろうさ」
何もかも昔のクソ連中が悪いぜ。
過ぎた欲に歯止めをかけず、人の業をぶち撒けて世界を混沌に沈めたあげくあっさりと滅びた馬鹿野郎ども。
そいつらの生み出した負の遺産が世の中を歪めてるから、俺がそれを正す。そうでもしなけりゃおちおち贅沢三昧の隠居生活もできねぇよ。俺は、俺のエゴを最後まで貫き通す。
「だが相応の混乱も生まれる。魔法がなくなることで発生する犯罪もある。確実にな。この街だって無関係じゃねぇぞ。……さぁ、それを聞いてどうする? 治安維持担当『遍在』のミラ。この俺を、将来的に厄災をもたらす不穏分子として断頭台にでも連れて行くか?」
俺は両手を広げて無手をアピールした。
もしも『遍在』がそれを選ぶなら……俺は全力で応えよう。譲れぬ一線のぶつかり合いだ。かち合っちまったら一方が折れるか曲がるかしないと収まらねぇ。俺と宰相がそうだったように。
ミラは瞑目して短い呼吸を繰り返している。酷なことを強いているだろう。なんせ俺が千の年月を経て導き出した答えを、齢二十そこそこの女に求めているのだ。全くもってフェアじゃない。
だが、こちらとて引く気はないさ。今日は一歩たりとも退かない。未熟な正義が歯向かうのなら、俺の悪道で塗り潰す。覚悟はとうにできている。
やがてミラはゆっくりと目を開いた。縋る先を求めるように揺れた光彩が再び俺を射抜く。
「……貴方の……世界を救う、という言葉に嘘はないんですよね?」
俺は首を縦に振って肯った。
「ああ。救うといっても俺なりに、ではあるがね。万人の幸福を保証するなんて解釈をされたら困るが……少なくとも今よりはよほどマシになると確信してる」
「今よりは、マシ……」
「もちろん不幸になるやつはいるぞ? 魔法の腕で儲けてたやつからすりゃいい迷惑だろうしな。生活が不便になることも目に見えてる。要はこうだ」
俺は口の端を吊り上げて笑った。
「みんなで不幸になりましょう。そうすりゃ少しは自助努力の精神も芽生えるだろ、ってな」
天は自らを助くる者を助く。そうして助かったやつは、気が向いたら隣のやつに手を差し伸べりゃいい。勇者に丸投げすんなっつー話よ。
「……みんなで不幸になったら、確かに人同士で争ってる場合じゃなくなるかもしれませんね」
「もちろん抜け駆けを試みて他人を食い物にするやつも現れるだろうがな」
「それを咎めるのもみんなで、と。そういうことですね」
「冒険者ギルドって前例があるんだ。やってやれないことはないと思うぞ」
「……そう、ですね」
ミラは自分を納得させるように呟き、そして静かに頷いた。瞳はもう揺れていない。
「元より、自分一人で罪を定義しようなどと……おこがましいことは考えていません。やむを得ず犯される罪というものに肯定的な意見を抱くことはできませんが……それでも、知見として得ておいて損はないと思いました。……ありがとうございます」
「礼なんていらねぇよ。それより、俺をどうこうする気はないのか?」
「…………正直、複雑ですよ。しかし……ギルドマスターも、国も、貴方を止めていない。そうするに値する理があるのでしょう。……咎める気は、ありません」
「そうかい」
つくづく、正解なんてない。俺だって俺が正しいなどと嘯くつもりはない。
何もかもが手探りだ。それが人の世なのかもしれねぇな。俺はそんなことを思った。
「……すみません。愚痴を漏らすつもりはなかったのですが」
「別にいい。あの色ボケ二人から助けてもらった恩もあるしな」
「ふふっ……そうですか」
「……あんだよ」
「いえ……あの程度のことで恩を感じていただけるとは思っていなかったもので」
おかしなものでも見たと言いたげにミラが笑う。
チッ。調子狂うぜ。俺は手をひらひらと振った。
「あー、もういいな? 約束があるからもう行くぞ」
「ああ、まだ話は終わっていませんよ」
おっと様子が変わったぞ。
すっと笑みを引っ込めたミラが瞳から光を消した。ええ? 人ってそんな早く切り替えが利くものなの?
「私の家族……スライっぴはとても脚が速いんです。非常に優秀で、臭いを嗅ぎ分けることもできれば、嘘を吐く人の仕種に反応して吠え立てることもできる」
平坦な声。
「スライっぴは……とあるレースに出たことがあるんです。もちろん首位を頂きました。その時に賭けを仕切っていた一人の胴元がいました。彼は大負けしたことに焦り、詭弁を弄したのちに尻尾を巻いて逃げ出したのですが……私が捕らえた」
なぜ今そんな話を。
まずい。それだけは分かる。
「ですが……その犯人を捕らえた瞬間に、私は身体の動かし方を忘れたかのように脱力してしまい……結局、その男を取り逃がしてしまいました。当時は妙な薬でも嗅がされたのかと思いましたが……違いました。後に私はよく似た魔法を掛けられたのです。王都スラムの入口で」
かつ、かつ、と。薄闇にミラの足音がこだまする。
「私は仕事柄、犯罪者の私物を見逃さないよう心がけています。捜査の手掛かりとなるので。さて、間抜けな賭けの胴元は私の拘束を振り払って逃げ出した後……あろうことか首を斬って自害しました。薄刃の短剣です。おそらくは呪装でしょうね」
一歩下がろうとして、壁を背にしていたことに今さら気付く。
変なところで足を止めたと思っていた。このためか。
「その呪装に酷似した短剣を、私はつい最近目撃したんです。『聖女』オリビアの腹部を貫いた短剣。効果は……当てずっぽうになりますが、痛覚の無効化ではないのですか?」
俺は天を仰いだ。廃屋の合間から覗く空はとても青かった。
「他にも、こんなものがありまして。勇者様の知り合いである孤児たちが発行している漫画という紙です。よくご存知ですよね」
断定口調のミラが懐から複数の紙束を取り出す。
それは悪どい勇者が目先の利益に囚われ金儲けを繰り返し、最終的には失敗して処刑される展開を繰り返すクソのような漫画である。
「子どもらしく突飛な発想で、しかしどこか誤魔化しきれない現実味がある。扱っている魔法が全て希少な補助魔法なのは……子どもならではの柔軟さと処理しても問題ありませんが、端々に描かれる動機や悪事の方法、そして手際の良さ。これは少々異質に過ぎる。無邪気な発想と老獪な思考……果たしてこれは偶然の融合でしょうか」
ゆっくりと、真綿で首を絞めるような足取りで迫ってきていたミラが俺の前に立った。軽く腰を落とし抉り込むが如き角度で見上げてくる。
「不思議でしょうがなかったことがあります。ここ最近……重罪を犯す者の背格好が、ほぼ均一だったのですよ。不自然なほどに。勘違いではありませんよ。間近で見て、そして捕らえた私には分かる。違うのは顔と声だけでした。同じなんですよ。まるで……同一人物なのではないかと疑うほどに」
ミラさんは眼球だけをさっと滑らせて俺の足元から頭の天辺までを検分した。結果を口にすることなく、ただ続ける。
「疑問に駆られて処刑騒動の発端を遡ったところ……ある日が始まりだったことが判明しました。埒外の【追憶】を使用する鑑定師イレブン。彼が初めて姿を現したのは……鉄級のエイトのスリをギルドマスターが咎めた日と……全く同じだった」
俺はなんとなく路地裏の出口へと身体を向けて――ミラにするりと割り込まれた。色の失せた瞳が、しかし弩弓によって放たれた矢の如き鋭さを持って俺を射抜く。
迂遠は要らずと見たか。ミラさんが淡々と言う。
「勇者ガルド。犯人は、貴方ですね?」
「そんなわけないだろ。俺は勇者だぞ」
閑静な路地裏に吠え声が響き渡る。
俺への恩を忘れた畜生が何度も何度も吠え立てる中――ミラさんはちらりとスライっぴを見て、そして俺を見上げ、コテリと首を傾げてから再度問うた。
「犯人は貴方ですね?」
俺はくしゃりと破顔した。
「そんなわけないじゃないですか」
薄闇が支配する路地裏。表通りの歓声が届かぬ居心地の悪い静寂の中で、スライっぴの吠え声がその後暫く響いていた。




