全戒消去
初めに動いたのは宰相だった。
「迎撃態勢!」
宰相が切羽詰まった声で命じると、姉上らが二人を庇うように立ち位置を変えて臨戦の構えを取った。
両の手を広げて突き出し、即座に魔法を展開できるよう備える勇者シンクレア。
魔法を扱うやつは補助として杖を用いたり、式の生成に集中するため詠唱なんぞを諳んじて見せるが、姉上は己が身一つで天変地異を彷彿とさせる現象を顕現せしめる。女神の杖と称される所以だ。
腰に佩いた剣の鞘に手を添え、即座に抜き放ち対象を斬り捨てんと構える勇者レイチェル。
その絶技は最短最速を走る理の極致だ。人の身では辿り着けぬ高みに在る剣技は、その道の達人をして理解を放棄させる領域に踏み込んでいる。女神の剣と称される所以だ。
この二人に護られている宰相と国王は世界で一番安全な場所に陣取っていると言っていい。だというのに宰相は顔に深い皺を刻んでいた。呻き声のような低さで問う。
「勇者ガルドの……弟、か?」
ほう。やはりクロードの件は知っていたか。
溶岩竜騒動の時に子飼いの間者に知られていたんだろう。あの時はガロードと名乗っていたが……正体不明のそいつが襲ってきたと勘違いしてるってわけだ。
俺は肩を竦めた。飄々と言う。
「ざぁんねん、本物の勇者ガルドでしたぁ〜。俺の弟……というかクロードは転移を使えないんでね。今はエンデで火消ししてくれてるんじゃねぇかな?」
「ならば、なぜ……」
宰相がチラと姉上二人に視線を移す。
十中八九、俺の存在を感知したら知らせろと事前に命じていたのだろう。自死させてエンデに飛ばせば俺を脅す札となる。俺を詰ませるにはどうすればいいかと策を巡らせていたこの男は抜け目なく、そして狡猾だ。
でも残念。俺だって詰まないよう立ち回ってたんだな、これが。
「勇者同士の感知機能は働かねぇよ。読み筋だったんでな。魔王に消してもらったよ。命令権を受け付けねぇよう改造してもらった時と同じようにな」
「……そういう、ことだったか」
元より俺がエンデの連中に殺されたという事実に懐疑的だったのだろう。宰相はすぐに状況を把握し、冷徹な光をその瞳に宿した。
既に次どう動くべきか思考を回しているのだろう。その判断力と危機管理能力が国家運営には欠かせない。やはりこいつは外せないな。改めてそう思った。
だが話の主導権は俺が握り続ける。俺はわざと靴の音を鳴らして一歩詰め寄った。
「で、どうするよ? 今からちょっと話し合わねぇ? 酒なら持ってきたぜ」
これみよがしに酒瓶を揺らす。しかし宰相は俺から視線を外さなかった。油断なくこちらを睨み付けている。深い皺を乗り越えるようにして、額から汗が伝った。
「……酒の肴は如何なるものですかな?」
「んー、そうだな……やっぱ姉上らがいいように使われてんのはそろそろ何とかしなくちゃならねぇからさ」
俺はちょいと人差し指を伸ばした。国王のおっさんが手に持つ杖を指差す。
「それ、真っ二つにへし折ってくれねぇかな? そうすりゃ俺たちは胸襟を開いて話し合えると思うんだよな」
芽生えた意思や記憶を散らし、偽りの記憶を植え付け、特定人物からの命令に服従するよう仕向ける呪装。【鑑定】したことがなく、『光天幕』と違い秘匿されている存在のため名前は知らないが……あえて呼ぶなら『隷属の杖』といったところか。
それが俺たち三人を国の道具たらしめている。それと同時に国王のおっさんを傀儡の座に縛り付けている。起動には王の血筋を持つ人間が必要だからだ。セキュリティ面の問題だろうな。悪質な仕組みだぜ。
ともあれ、隷属の杖さえなければ国は俺たちへの対応を改めざるを得ない。自分らに都合のいい命令を下せる道具じゃなくなるわけだからな。自分らの問題は自分らで解決するという、ごく当たり前な思考を形成するようになる。
もっとも……それは平和ボケしくさった国民にとっては劇薬に等しい。至るところで混乱が起きるだろう。俺が計画している魔力の消滅と合わされば、その混迷具合は未知の領域に踏み込む。けして少なくない犠牲を生むことだろう。
それを宰相は許さない。国が乱れることを許さず、少数の犠牲で大多数を生かすことを是としている。昔の人間が改善できなかったことを今さらどうにかできるなどと夢見ていないので、俺が改善策を提案したところで耳を貸さない。勝算不明の博打は打たない。
だから心を折る必要があるのだ。俺の提案に乗るしかないと心底から思わせる。
そうすりゃこいつは俺の思惑を阻む『敵』から、俺の理想を強烈に後押しする『味方』となる。
簡単な理屈だ。こいつが国のために最善を採択し続ける現実主義者なら、俺の理想を最善に据えて、それ以外の退路を断っちまえばいい。あとは全部丸投げしてドロンっつう寸法よ。
だからまずは杖を折れと提案してみた。もちろん色よい返事が返ってくるはずもなく。
「……それは、できんな」
「そうかい。ま、知ってたさ。見事に交渉決裂だな」
勇者を政策に組み込んでいるうちは平和が担保される。ならば宰相は躊躇わない。そういう男だ。国に名前も人生も捧げた男の覚悟は頑として曲がらない。故に折るしかない。
「交渉の余地なら、まだある」
そう思っていたのだが、なにやら宰相が興味深いことを口にした。ここから始められる交渉があるんですかってな空気だが。
「聞くだけ聞こうか」
傾聴の姿勢を見せたところ、宰相は大きく息を吐いた。すぅと目を細めて言う。
「三年以上前だったか……勇者ガルド殿が苦心していた時にも言ったな。覚えているか? ……私にできることはお前の記憶を消して……その苦しみから解放してやることだけだと」
「おう。一言一句覚えてるぞ」
「ならば再度告げよう。勇者ガルドよ」
国のために平気で嘘を吐き、民を扇動して平和を演出するのが宰相のやり口だ。それがもっとも効果的だからである。
しかれども、その言葉には裏が無いように思えた。
「全ての記憶を、捨てたまえ。死が休息にならぬその身を救うには、他に案が見当たらぬ」
人は死ねば終わりだ。しかし勇者はそうではない。どれだけ死んでも記憶がついて回り、体験の連続が途切れることはない。
だから俺は消えようとしたんだ。そして魔王は俺の記憶と性格を改変した。それが救いになると信じて。宰相もそう思っての提案だろう。
「駄目だな」
故に受け入れられない。
俺はもう、それが救いでもなんでもないことを知っちまってる。
俺はゆるゆるとかぶりを振った。
「駄目なんだよ。もう、消したところで無駄なのさ。厳密に言うとな、消えてねえんだとよ。再び結び付かないよう形を変えているだけなんだそうだ。そんなことを何年もやってきたせいなのか知らんが、忘れてもすぐに思い出す」
ふとした瞬間に過去の記憶が頭をよぎることがある。きっと姉上らも同じだろう。耐用限界なんだろうな。記憶を消しても一時凌ぎにしかならないって状況が近いうちにやってくる。そんな確信がある。
まあそんな感覚を人間である宰相に求めるのは酷というもの。ならば、と前置きして反論してくる。
「勇者シンクレアと勇者レイチェルの態度はどう説明する。本当にすぐ記憶が戻るのであれば……こうして勇者ガルドに敵意を向けることはあるまい」
んー……。俺は返事に詰まった。
いや、どっちの馬鹿も割とすぐ俺に手を出そうとするけどな……。
上の姉は香辛料を渡さなかっただけで魔法をぶっ放そうとしてくるし、下の姉は何かにつけて馬鹿力で頭を引っぱたいてくる。
……そう考えると腹立ってきたな。なに簡単に記憶消されてんだよ馬鹿姉どもめ。俺は言った。
「おう、言われてんぞ姉上らよ。黙ってねぇでなんか言ってみろや。こんな姉思いな弟に敵意を向けるとはどういう了見なんだ? あ?」
姉二人は俺の問いかけに一切動じなかった。何を考えているのか判然としない瞳を俺に向けて臨戦態勢を保ち、ただ命令が下されるその時を待っている。
俺は続けた。
「それにその服は何だ? 豪勢な飾りなんぞチャラチャラさせちまってまぁ……。前のお気に入りだっつってたローブはもういいのか? お前も、動きづらい服装は嫌だってんで服を破いてたのに随分と大人しく着込んでるんだな?」
国はあくまで勇者が別人であると主張したいのだろう。代替わりに合わせて豪華な召し物を新調したようだ。
銀やら金やらをふんだんに使用した装飾品を各所に散りばめた、頭の悪い成金趣味を形にしたような服である。
権威を示すにしたってやり過ぎだ。勇者という肩書きがなかったらアホにしか映らねぇぞ。
「随分と趣味のわりぃ服だぜ。似合ってねぇんだよ。お前ら、俺が高い金出して奢ってやった服はどうしたんだ? まさかどっかに忘れてきたとか言わねぇよな?」
「……無駄だ。勇者ガルド」
茶々を入れてくる宰相を無視して問い掛ける。
「記憶を消されたからって俺が取り立てを諦めると思うなよ? 服の他にも貸した金があることを忘れるな。お前ら二人が馬鹿やらかしてカジノでスった分も合わせりゃ金貨五十枚ずつだぜ? 踏み倒しがまかり通る額じゃねぇだろ。あん?」
姉上二人は動かない。先程からずっと同じ構えを保ち、命令が下る瞬間に備えて待機している。
「金の怨みは恐ろしいぞ? 行くとこまで行きゃ肉親の情だって壊しちまう。巷じゃそういう俗な劇もあるくらいだぜ。……あぁ、劇といえばよ、俺との約束も忘れちまったってわけか? お前ら二人が救援要請に呼ばれて約束をブッチした時に言ったよな。この埋め合わせはしてもらうぞってよぉ」
視線は揺らがず、呼吸は乱れず。
これだけ言っても姉上二人はそれらしい反応を示さなかった。いっそ凛々しく見えるね。普段のアホっぽい態度よりもよほど勇者らしい。
「おーおー、無視かよお前ら。ひでぇな。泣けてくるぜ。知ってるか? 男の泣きそうな顔ってのは……そりゃもうみっともねぇんだぜ? この前ルークとかいうガキの約束をうっかり忘れてたらよ、めちゃくちゃ情けねぇ顔で見られて思わず居た堪れなくなったね。女の涙は武器になるなんて言うが、男の涙は凶器だぜ。その威力を味わってみるか? 泣くぞこら」
反応はない。まあ……そんなこったろうとは思ったよ。
消された記憶は何かしらの体験が切っ掛けとなって呼び起こされることが多い。俺の言葉がその切っ掛けにならなかったってのは……ちと腹立たしいがな。
「チッ……駄目か。ったく、ひでぇなぁ。貸した金が返ってこなくなっちまったらどうすんだよ、おっさん」
俺は一言も発さずに佇んでいる国王のおっさんに水を向けた。
隷属の杖の起動には王の血筋が欠かせない。帰するところ、姉上二人の記憶を消したのは国王のおっさんということになる。偶然や事故は有り得ない。こうなることを承知の上で事に及んだはずだ。
俺の軽い皮肉を受けたおっさんはゆっくりと目を閉じた。
「我は」
そして目を開く。とても傀儡にされているとは思えない理知の光を宿した瞳が俺を射抜いた。
「すべて国の安寧と繁栄のためになると判断した。それだけのことよ」
俺は笑った。
「いいね。ほんとはやりたくなかったとか、情けない言い訳でもしようモンなら嫌いになってたぜ、おっさん」
「難儀であるな」
「互いにな」
三者三様。互いに相容れることなく、されど目指す先は同じ。そうなっちまったらもう、とことんまでやり合うしかないよなぁ。
「最後通牒になる。勇者ガルドよ……投降したまえ。さもなくば、私はそなたの心を折るために……エンデの民を残らず抹殺する。そなたの家族が街を焼くことになるぞ」
「忠告どうも。それじゃこっちからも一つ言っておくぞ」
【隔離庫】発動。手に持った酒瓶を消す。
「俺たちの姉弟喧嘩はちっとばかり暴力的だ。巻き込まれないよう、せいぜい気を付けてくれよ?」
右手を握る。親指を立てる。指先に意識を集中する。
『消滅の針』は俺に新たな可能性を示してくれた。
無限の成長性を有する俺たちであるが、それでも枷を嵌められている。補助魔法を三つまでしか掛けられないのがその証左だ。
その枷を壊す。あの呪装は魔力消失の過程を検分するのに役立った。どこを壊せばいいのか教えてくれた。魔力の全てを暴く鍵となった。今の俺ならば――造物主の想定を凌駕することも能う。
「…………ふぅ」
……俺は自身に補助を二つまでしか掛けられない。そう錯覚させられていた。魔王の【洗脳】のせいである。あれが俺の補助魔法の上限を埋めていた。
【洗脳】の効果は記憶の改竄と性格の改変。うち、記憶の方は既に取り戻している。
だが……まだ後者は解けていない。解こうと思えばいつでも解けたが……正直、怖かった。一人で抱え込んで絶望した挙げ句、女の前でみっともなく消えようとしたクズに逆戻りするんじゃないか、と。
「……さぁ、気合い入れろよ。ここで折れたらクソほどダセェぞ」
魔法を発動する。親指の先端を針の先に見立て、全神経を集中する。
それは式を破壊する魔法だ。
【全能消去】と似て、しかし非なる選別破壊式。俺を縛る枷も、魔王が刻んだ洗脳も、事ここに至っては無用の長物でしかない。
俺は右の親指で額を小突いた。唱える。
「【全戒消去】」
頭の中で何かが弾けた。記憶を取り戻した時と同じだ。意識の濁流が押し寄せるような感覚。追憶に浸った時とは比べ物にならないほどに重く濁った感情の澱が脳裏を満たす。
劣等感。無力感。絶望。懺悔。
「ああ……なんだよ」
つい口の端が吊り上がる。
「案外、どうってことねぇな」
好きなだけ自堕落な生活を送った。誰憚ることなく無茶苦茶なことをやらかした。
そうしているうちに、俺もだいぶ逞しい精神性を獲得していたらしい。どっと押し寄せたクソのような自責の念を笑って蹴り飛ばせるくらいには。他責思考ってのは最高だな、おい。
「……やはり、引く気はないか」
「当然だろ」
「そなたは確かに強い。だが……勇者二人を、それも姉を相手に力を全うできると思っているのか?」
「今更なこと言ってんじゃねぇよ。宰相、俺の教育哲学を教えてやる。馬鹿な姉の頭は叩いて治す、だ」
【隔離庫】。いつぞやに手に入れたアンブレイ鋼を取り出す。
【追憶】。過去に読み取った記憶の式を再現する。
黒と金を基調とした厳かな剣。立ちはだかる艱難辛苦を一振りにて斬り捨てる英雄の得物。今は未熟なチビの手に収まっているそれは、俺が見てきた中で最も素直で強い剣だ。
【修復】。物質の組成に干渉する魔法。
使い手は少なく、せいぜいが金物を修理する程度にしか使われない魔法だが、その本質が呪装生成の骨子であることを俺は知った。
【刻憶】。魔力に在るべき形と記憶を刻み込む魔法。
魔力というすこぶる応用性の高い物質を弄り回した果てに、昔の連中が生み出した窮極の式。それは妄想の産物や擬似的な生命の創造すらも可能にした。同時、今の今まで人類を苛む呪いの元凶になった魔法でもある。
だが使いようによっちゃ厄災を払う呪いよ。人の欲に応えて世界を呪ったのなら、俺の欲に応えて世界を救ってみせろ!
「【創成】」
右手に集った魔力が輝きを発する。数秒の後、光が粒のように立ち消えて――ひと振りの剣へと変じた。
黒と金の装飾があしらわれたロングソード。初めて握ったとは思えないほど手に馴染み、程よい重さが長年付き添った相棒のような安心感を与えてくれる。
さすがに生身でやり合うのは避けたいからな。こいつなら姉上の馬鹿力にも耐えてくれるだろう。
得物は用意した。あとは俺だけだ。
左の親指でこめかみを叩く。唱える。
「【全能透徹・三折】」
五感が冴える。五体が漲る。生命の沸騰を感じる。
深淵よりもなお深く、天の頂よりもなお高く。
無い物ねだりをするガキが懊悩の果てに生んだ妄執の産物だ。
覚悟しろよ、救世の勇者様よ。不出来な弟の嫉妬は、ちっとばかり重いぞ。
俺は笑みを浮かべた。薄情な姉二人へと剣先を向ける。
「さてと、そんじゃやろうか。これが……正真正銘、最後の姉弟喧嘩だッ!」




