救済
四つ辻通り。大通りが交差しているその区域は周囲の建物が取り払われており、雑然としたスラムの中では異例なほど開けていた。
騙し討ちや裏切りが困難という性質から、スラム流の公正な取引をする場として利用されている区域。
平時は閑静な一帯は、打って変わって剣呑な空気に包まれていた。
「あなたがライザルですね」
淵源踏破の勇者シンクレア。
その奥深さから深淵に喩えられる魔法を自在に使いこなして魔を祓い、民の安寧を守る女神の杖。
物腰柔らかで飾らない性格のシンクレアは市井からの信望も厚く、博愛の使徒と呼ばれ広く親しまれていた。
民衆へ慈愛の福音を齎すその口から、温かみの感じられない声が紡がれる。
「あなたが国家転覆を企てていると告発がありました」
蒼の宝石と謳われる碧眼は無機質なる氷の如し。そこには民へ笑顔を振り撒く勇者の面影は微塵も感じられなかった。
「あなた及びあなたの部下が所有する全ての呪装を国へ納めてください。そうすれば……敵意無しと判断して私たちは帰ります」
全呪装の放棄。それはライザルが一生を賭して組み立ててきた計画の破綻を意味した。
勇者の制御を奪う計画は勇者との交戦も想定されている。強力な呪装なくして太刀打ちできる相手ではない。計画成就の可能性は限りなくゼロへ近付く。
「ライザル……大人しく従って。そうすれば、命までは取られないから。馬鹿な真似はやめて、考え直して」
勇者二人の後ろに控えるプレシアが説得を呼びかける。震えの混じった声音には隠し切れないほどの憂慮が滲み出ていた。
――勇者になんて勝てるわけない。
国の中枢へ潜り込み、かの者たちが挙げた戦果の報告書を見たプレシアはそう確信していた。
王都の新聞や吟遊詩人が伝え聞かせる彼女たちの話はいかにも荒唐無稽で現実味がない。
千に迫る群を刹那の内に塵へと帰し、空を舞う強大な竜を一刀のもとに斬り伏せる。
どれも誇張された物語だと思っていた。衆愚を束ねる為に綺羅を飾った与太話なのだと思っていた。
それが全き事実であったと知った時の衝撃をプレシアは忘れたことはない。
勇者には、誰も勝てない。この国が生き残るには勇者に頼るほかないのだ。
そう何度も説得したが、ついにライザルは聞き入れることなく行動を起こすことを決意した。突如現れてスラムを掻き乱した男、シクスとともに。
――何としてでも止めてみせる。犬死になんてさせるわけにはいかない。
死にたくない。彼が死の間際で零した心からの声を聞いたから。
プレシアの行動原理は今も昔も変わらない。ただ穏やかで、命を脅かされることのない生活を。それだけだ。
切実な説得は、しかし実を結ばなかった。
ライザルの目的はプレシアの理想と真っ向から反発するものであるからして。
「……さて、記憶にねぇな。勇者様方が何を仰ってるのか、学のねぇ俺にはさっぱりだ」
ライザルが肩を竦めて空惚ける。
ここで呪装を渡したら生涯の全てが水泡に帰す。再起を図るには時間が残されていない。故にライザルは勇者を相手に啖呵を切った。
プレシアに覚悟の程を見せ付ける。
脅されて屈するようなヤワな決意ではない。本気で世界を変えるのだ。
偽りの希望に縋っている世界を。愛する者が無理して笑わなければならない世界を。
けして退かぬと態度で示すことでプレシアに撤退の指示を下させる。それがライザルに残された唯一の択であった。
鍔鳴りが響く。放たれた硬質な音の波が肺腑を撫でて抜ける。
「一回」
至高天坐の勇者レイチェル。
武芸百般を極め、至高の頂に一人坐す勇者。絶望の象徴である竜すら千々に斬り裂く女神の剣。
最強の名を恣にする勇者が暴力的な圧と同時に警告を発する。
「賊に与える慈悲は三回までだ。気の迷いは許す。だが、三度気迷ってなお弓を引くなら相応の末路を覚悟しろ」
ライザルは静かに息を飲んだ。思わず足が砕けそうになる。目の前の勇者が放った圧は格の違いを知らしめるためのものであった。
ただの脅しではない。反抗の意を消そうとしなかった場合、勇者レイチェルは躊躇うことなく刃を振るう。彼女の碧眼にはそう確信させるに足る意思があった。
果たして、ライザルはなおも空惚けた。
「だからよぉ、知らねぇって言ってんだろ? 人の話はちゃんと聞いてくれや。勇者なんだろ?」
「二回」
鍔鳴りの音が抜けていく。より凝縮された圧がライザルの全身を抜けた。
四肢を落とされたのかと錯誤して、ライザルは思わず両手両足に力を込めた。
繋がっている。今はまだ、ではあるが。
三度の警告を受けて態度を改めなかった場合、錯覚は現実となって身体を引き裂くだろう。
「ライザルッ! もう馬鹿な真似はやめてッ! 言うことを聞いてよ!」
「さっきも言いましたが、あなたが保有している全ての呪装を国へと納めるのであれば私たちはすぐにでも退きます」
勇者シンクレアが再びの警告を促す。大衆は知ることのない冷酷な仮面。国にとって都合の悪いモノを排除する呪装。
その一端がこれか、と心中で毒づいたライザルが口の端を吊り上げた。
「身に覚えがねぇッつってんだろ! 無実のやつに因縁つけるのがテメェらの仕事なのか!? ええ!? 勇者さんよぉ!!」
「三回」
ライザルの焦点がブレる。意識が飛びかけ、左胸を押さえて踏鞴を踏む。
研ぎ澄まされた刃の鋒を心臓へ突き立てられた。あまりにも真に迫った錯覚がライザルの鼓動を一瞬止めた。
意識が肉体を凌駕して幻痛を齎す。
それは紛れもない最終通告であった。
「ライザルッ!」
「……ぅ……フッ……う……!」
やはり今の勇者には逆立ちしても勝てない。
改めて認識したライザルが姿勢を立て直した。胸を押さえていた手を下ろし、震えていた膝に喝を入れ、背筋を伸ばして向かい合う三人を睨めつけた。
勇者より賜われる慈悲は、既に枯れている。
「プレシア……あんまり、俺の覚悟を馬鹿にすんなよ……」
「なに、してるのよッ! 死んだら何も残らないじゃないッ!」
「このまま生きても何も遺せねぇだろうが!!」
「…………っ!」
プレシアの狙いはただ一つ。ライザルの武装解除と計画の阻止だった。
成功するはずのない革命を断行すればライザルは世紀の国賊としてその名を歴史に刻むことになる。その末路は磔か、凄絶な拷問か。民衆への見せしめとして、衆目環視のなかで悪罵を浴びせられた後に首を落とされるかもしれない。それがかつて愛した者の末路であるなど耐えられようはずもない。
勇者をけしかけるしか方法は残っていなかった。
スラムで最も高い武力を有するライザルを止められるのは、国が有する最高戦力である彼女たちしかいない。
諦めてくれると思っていた。命と理想を秤に掛けさせたら、命を選択してくれると信じていた。
しかしライザルは諦めてくれなかった。今に至るまでどれだけ言葉を重ねても退いてくれなかった。
「私はただ……あなたに死んでほしくないだけなのに……」
「死ぬかよ。お前が虚しく笑ってる間は、死んでも死にきれねぇ……」
千の魔を祓い、竜を屠る力の化身を前にして、ライザルは毅然を貫いた。折れぬ覚悟を示すかのように。
「……なんの芝居が始まったのかは知らないが」
勇者レイチェルが剣の鍔を指で弾いた。
「お前は気迷った国賊ということで……いいんだな?」
「ま、待ってッ!」
いつ剣を抜き放ってもおかしくない剣幕をするレイチェルの前にプレシアが躍り出た。勇者二人を押し留めんと両手を広げる。
「待って! ……私の告発は、間違ってた。誤報だったのよ! だって、ねぇ、そうでしょう? 勇者にここまでされて口を割らないなんて、無実の証拠よ! だから……」
これ以上放っておいたらいよいよライザルが殺される。
勇者を呼んだのは失敗だった。今すぐに帰還させなければ。その一心でプレシアが勇者二人へ言う。
「城に、戻りましょう……。報告は、私がするわ。勇者様の手を煩わせてしまってごめんなさい……。戻りましょう、すぐに……」
両手を広げたプレシアが歩を進めた。そして勇者二人の肩に手を置き、スラムからの撤退を促そうとして、その身体がびくともしないことに驚愕の声を上げた。
「……っ、え?」
「お前、私たちを都合のいい道具か何かと思っているのか?」
「…………っ」
「ええと……プレシア、さん? あなたが何か勘違いしてるのか分からないんだけど……」
まだ国賊と判断していない故、勇者シンクレアはライザルへ向ける顔とは打って変わって柔和な笑みをプレシアへ向けた。聞き分けのない子どもへ言って聞かせるような丸い声で。
「あれはもう、私たちの敵なの」
そう、言った。
「て、敵って……何を言ってるの……?」
狼狽えるプレシアに対し、シンクレアはどこまでも落ち着いた声で諭した。
「あなたが言ったんでしょう? あれは国家転覆を企てている国賊だって。私たちはそれを事実だと認識した」
「何を、言って……」
「言ったでしょ? 敵意がないって示せば帰るって。でも、そうしてくれなかった。私はね、もうとっくに風で探ってる。あれが国賊なのは……もう間違いないって、分かるの」
「私は耳がいいんだ。ガル……弟ほどではないがな。……こそこそとネズミみたいに息を潜めてた連中が頻りに口にしていたぞ。『あれが消す予定の勇者か』とな」
「…………!?」
勇者二人に類稀な戦闘力があることは周知の事実である。しかし、驚異的な魔法の腕と身体能力が諜報の分野でも突出した成果を上げることを知る者は少ない。
勇者シンクレア及び勇者レイチェルはスラムに巣食う国賊の脅威を取り払うまで王城に帰参を果たすつもりはない。
「そんな話を聞いたら……私たちだって穏やかじゃいられないの。楽観はできない。だからそこをどいて。ね?」
「ま、待って……! 待ってよ! 違うの、違う! 彼は、貴女たちのことも、思って……うっ」
勇者シンクレアが指を振るうと、目に見えない風の腕がプレシアの身体を押し退けた。よろめくプレシアの姿を見たライザルが叫ぶ。
「そいつに手を出すんじゃねぇ!」
ライザルが全身に纏う呪装を起動する。直後――
「四回」
勇者レイチェルが得物を抜き放った。彼我の間にある距離を喰らい尽くして斬撃が飛ぶ。
抜刀と同時の切り上げと流れるような袈裟斬り。目にも止まらぬ神速の絶技がライザルの纏う全ての呪装を一瞬で塵へ帰した。
抗えぬ王命を突き付ける『逆徒への誅罰』
空を踏みしめ、飛翔を可能とする靴。
対手の心音を看破するイヤリング。
剣豪の体捌きの再現が能う剣。
無双の豪力を着用者へ齎す腕甲。
頑強な対魔法障壁を常時展開する外套。
不可視の迅雷を射出する指輪。
肉体が受けた衝撃を吸収し、倍する力で放出する首飾り。
平衡感覚を狂わせる音を相手へ浴びせる鈴玉。
けして塞がらぬ傷跡を刻む短剣。
その他、非戦闘用の呪装十二品。全てが致命的な損傷を受け、光の粒と化した。
「…………は?」
「呪装には、特有の魔力が宿る。それだけを斬った」
勇者レイチェルは振り抜いた剣――『天壌軌一』を流麗な所作で納刀した。
「お前を斬らなかったのは慈悲ではない。手間を減らすためだ。部下を呼べ。全員だ。纏めて――斬る」
「ライザルッ!」
「あ……あ……?」
ライザルは武の頂点だ。しかし、それはあくまでも【追憶】の力で見出した呪装の力ありきである。
数多の魔物を駆逐した。しかし、ライザルの身体能力は並以上へ成長することはなかった。彼が持つ才能は【追憶】一つのみである。
勇者レイチェルにとって呪装だけを狙って斬るなど造作もない。アウグストと互角以上に渡り合えるライザルにとっての天敵。それが勇者レイチェルである。
過去の遺物の恩恵が消えた時、そこに在るのは手足をもがれた一人の男であった。
「……戦場で放心か。是非もなし。レア、斬るぞ」
「そうね」
「うそ!? 嘘でしょ!? やめてッ! お願い……お願いします……私が、悪かったから……許して……」
こんなはずではなかった。
プレシアが自ら招いた最悪の結果を悔いて叫ぶも勇者は耳を貸そうとしない。嗚咽も、懇願も、謝罪も等しく届かない。
「まず、一人…………っ!?」
勇者レイチェルが片手で唐竹を放つ。飛んだ斬撃がライザルを両断する寸前――
「ぬうううおおおおぉぉぉォォォォッッ!!」
尋常ではない巨体がライザルの眼前に躍り出た。
激越の咆哮。極限まで練り上げられた肉体が張り詰め、膨張し、捻られ、解き放たれた。
石塊の如き拳骨が、縦に走る斬撃の横合いへと叩き付けられる。斬撃の形をした魔力が爆ぜ、軋み、撓んで、豪風と化して霧散する。
「オイオイ……勇者様よォ……棒立ちの野郎に放つ一発じゃ、ねェだろ……。弱い者イジメは、好かねぇなァ……!」
斬れぬ物無き一刀を真正面から殴り潰したアウグストは、右手の甲から滴る血を払い、獰猛に顔を歪ませて構えを取った。