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深淵を覗く時

 深夜ということもあり、宿の廊下は静まり返っていた。


 燭台に灯りは点いていない。盗難防止も兼ねて深夜は光源が取り払われているのだろう。

 暗闇と静寂が広がる廊下は手探りでないと進むことすらままならない。しかし、それはあくまでも一般人であればの話。


 鬱蒼と茂る木立に潜み、夜天を駆け、街の各所にできる暗がりに身を溶け込ませる。

 冒険者ギルドの斥候として数々の修羅場を制し、感覚を研ぎ澄ませ続けたミラにとって、闇は味方になりこそすれ障害にはなり得ない。


 足に力を入れ、音が鳴らない程度に床を踏む。築十年は経過しているであろう宿の床は、意外にもしっかりとした感触を返した。


 足を置く場所は気にしなくても良さそうだ。森と違い、屋内では枝を踏み割る心配はいらない。これならば一切の音を立てることなく目的地まで辿り着ける。


 そう確信を得ても油断はしない。ミラは既に手痛い敗北を喫しているのだから。


 全神経を尖らせて気配を探る。

 現在地は二階。宿は二階建てなので上は気にしなくていい。階下から接近する気配があれば即座に引き返せるよう気を張っておく。


 廊下には人の気配はなかった。部屋から人の寝息が聞こえてくるものの、外へ出ている者はいない。


 ――本当にそうか?


 警戒はしてもし過ぎるということはない。

 前後左右、天井の確認、そして床に耳をつけ階下を探る。


 廊下には……誰もいない。間違いない。行くなら今だ。


 より強い確信とともに三歩踏み出したミラは、そこでまた歩みを止めて周囲を探った。戦地でも見せないほどの厳重警戒態勢。


 今なら鼠の呼吸音すら聞き逃さないだろう。

 苦杯を嘗めさせられ、あわや全滅しかけたという経験がミラの格を一つ押し上げた。


 今のミラは間違いなく全盛であった。呼気を殺し、存在を殺し、手練れの暗殺者顔負けの静けさで歩を進める。


 そうして立ち止まること十回を超えた頃、ミラはシクスの部屋へと辿り着いた。


 かの男は――闇市で急激に頭角を現した存在は、衆目から解放された時、一体何をしているのか。

 呪装の手入れか、毒の調合か。はたまた豪華な晩餐にでも興じているのか。


 人間である以上は睡眠も取るだろう。部屋を覗いたら、案外眠りこけている姿が目に入るかもしれない。

 それならそれで構わない。付け入る隙があるという事実は手に入る。謎に包まれている手の内は徐々に暴いていけばいいのだ。


 緊張はしていない。今は高鳴る心音すら命取りになる。


 存在そのものが凪いだ湖面になったかのようだった。

 明鏡止水の境地で顔を上げる。『眼鏡』を通して見た部屋の内部は……。


 ――誰も、いない……?


 内装は自分たちが泊まっている部屋と違いはなかった。

 窓際に配置されたシングルベッド。

 そのすぐ側にあるサイドチェスト。

 魔石が用いられた間接照明。

 クローゼットと荷物置き。

 廊下側に配置されたウッドデスクとチェア。


 そのどこにもシクスの姿はなかった。この夜更けに出掛けたのか。一体どこへ。


「…………」


 ――やはり警戒を解くべきではない、か。


 為す術なく捕らえられたあの時、シクスは傷一つ付けることなくミラを解放した。その後も積極的に力を行使する素振りは見せず、交渉による解決を図っている。


 もちろん四人を懐柔する目的があったのだろう。シクスが口にした平和主義者という言葉を信じるつもりは毛頭ない。


 だが、ほんの少し言葉を交わした程度だが――シクスからは闇市を牛耳るような悪党の気色を感じなかったのだ。


 ただ隠すのが上手いだけかもしれない。それでも、彼に人間らしい隙のようなものがあれば……少しは協力に前向きになれていただろう。


 何もかもが未知である以上、軽々な判断を下してはならない。それが斥候としての基礎であり究極だ。後続のため未知を明かすこともまた然りである。


 成果なし。引き続き警戒の必要あり。


 熟慮の末、そう判断を下したミラは音を立てずに踵を返し。


「ひ……ッ!」


 目が合った。


 数秒前、かつてないほどに神経を尖らせ、不在を確信しながら進んできたその足跡を、嘲笑い、踏み躙るようにして――シクスがそこに立っていた。


 あり得ない。ここまで接近を許してなお気付いていなかったなんて、あり得ない。


 虚しい否定が胸中を占める。焦燥が止め処なく溢れ、まるで抗議するかのように心臓が早鐘を打った。


 喉が引きつり、一歩引いた足が床をぎぃと踏み鳴らし、殺していた息が漏れる。

 その様を見たシクスは――こちらに聞こえるよう、わざとらしく――鼻を鳴らした。


「何か用か?」


「っ…………その、少し……相談が……今後について」


 口をついて出た言葉はしどろもどろで散り散りなものだった。

 鉢合わせた場合を想定して用意した言い訳はもはや体裁を取り繕えていない。確実に嘘だと見抜かれているだろう。


「ほう……明かりも点けずにか? 闇討ちでもしに来たのかと思ったが」


 まずい。今、この状況でシクスの不興を買うのは……非常にまずい。

 懐中から発光の魔石を取り出し、魔力を流して光を灯す。


 闇の中に浮かび上がったシクスの顔が不機嫌そうに見えるのは濃い陰影のせいだけではないだろう。


「私は、それなりに夜目が利くので……不躾に見えたら、それは私の落ち度ですね。申し訳ありません」


 見縊っていたわけではない。しかし大きく見誤っていた。

 全身全霊をもって隠密に徹すれば、絶対に気取られないとはいかずとも、そうそう後れを取ることはないと思っていた。


 ――まさか、ここまで実力に開きがあるなんて……。


 初遭遇時、シクスはその気配を隠していなかった。足音も息も殺しておらず、そのうえで建物の陰に身を潜めるなどお粗末過ぎる。

 スラムの入り口から宿へ向かう最中も、シクスはいかにも自然体といった振る舞いをしており、練達が身に付けた技の一端をほんの少しも見せることはなかった。


 それらが全て策の内だとしたら?

 ともすれば殺されていたという状況がその説を肯定する。自分たちは、まだこの男の底を測りきれていなかったのだ。


 神出鬼没。無法者が蔓延る陰の地で、そんな大層な肩書きを戴くシクスは、こちらを一瞥すると眉一つ動かさずに言った。


「そうか。なら……そういうことにしておこう」


 寛容なのか、それとも自分たちのことなど歯牙にもかけていないのか。

 シクスはそれだけ言うと自室に向かって歩き出した。わざと響かせているであろう靴音が薄闇の中を反響する。


 ミラは息を止めて佇むことしかできなかった。すぐ隣をシクスが通り抜けていく。

 いま、この瞬間、この男が凶刃を振るった場合――果たして自分は生きていられるだろうか。他の三人は。

 もしも自分たちが任務に失敗し、エンデが最悪の末路を迎えた場合、迂闊な偵察に走った自分は咎人として死後も悪罵を向けられるのだろうか……。


 そんな不安は過ぎた杞憂に終わった。

 背後で扉が開く音がする。どうやらシクスは自分を――少なくとも今は――どうこうする気はないらしい。


 安堵の胸を撫で下ろしそうになった瞬間、背後から声が響いた。


「ああ、それと」


「…………なんでしょうか」


 動揺を押し殺してゆっくりと振り向くと、肩越しにこちらを見ているシクスと目が合った。とんとんと、目尻を指で小突いて一言。


「覗き見趣味とは、あまり感心しないな」


「ッ……!」


 あり得ない。もはや何度目になるか分からない否定を繰り返す。


 壁一枚を見通すことができる眼鏡型の呪装はつい最近エンデに持ち込まれたものだ。その存在を知るものは極僅かしかいない。

 ギルドが呪装を押収した後も衆目に公開することはなかった。その造形を知る者は限られた人間のみである。


 覗き事件の存在は処刑騒動まで発展したのでバレていてもおかしくない。それでも、呪装の詳細が知られているのは……あり得ない。


 当てずっぽうの可能性もある。しかし、シクスの言葉には確信を抱いている者特有の落ち着きと重みがあった。


 ――ギルドに内通者がいる? 【伝心(ホットライン)】が漏れていた? 一目見るだけで呪装の効果が分かるのか? 人の心中を、それこそ透かして見ることでもできるのか……。


 想定しうる全ての可能性が最悪にしか行き着かない。

 最も不可解なのは、ギルド側がここまで行動を起こしているのに向こうは依然として泰然自若を崩さないことだ。シクスは事ここに至ってもこちらを排除すべき敵と認識していない。


『他の派閥に微塵も靡かなかった連中が、シクスという男を旦那旦那と呼んで憚らない』

『誰もが見解を一致させたんだ……あいつの側に付けば間違いないと……!』


 連絡役の男が身を震わせながら放った言葉が、今更になって頭の中で警鐘のように響く。


『あれだけ派手に動いてるのに、八方手を尽くしても尻尾を掴めないんだ……斥候としての自信をなくすぜ……全く』


 諦念を抱いたことはない。故にミラは今日まで生き延びてきたのだと自負している。


 その諦めの悪さが仇になるとすれば、それは今この状況なのかもしれない。


 成果あり。対象の総合脅威度を最高と断定。敵対時の生還を不可と推定。監視されているリスクを踏まえ、逃走を非推奨とする。


 穏便な任務達成は――現状、極めて困難。


 対象の評価と任務の進捗、着地予想を修正したミラは未だ警鐘を鳴らす胸を押さえてメイの部屋へと歩を進めた。


 即座に現状を共有しなければ。誰かが短慮に走り、虎の尾を踏む前に。


 ▷


 一睡もできなかった……。

 俺は欠伸をしながら伸びをして、もしかしたら見られているかもしれないと思い体裁を取り繕った。


 扉に向けて置いた椅子に腰掛け、腕と脚を組み、じっと扉を睨みつける。覗き眼鏡対策だ。


 いやまさかあの呪装を持ち込んでくるとは思わんかった。覗き見くらいにしか使えんと高を括ってたが……そうだよな、潜入任務に持ち込めばすこぶる便利な一品だよな。いやはや想定外だった。


 しかしこれは冗談では済まされない。何かの間違いで首を斬っている現場でも覗かれたらことだ。寝てる姿なんぞ見られたらそのまま闇討ちされていたかもしれん。


 新魔法のおかげで背後をとれたのでそれっぽく脅しておいたが……『遍在』はその程度では屈しないだろう。またぞろ隙を見てこちらの素性を暴くべく暗躍するはずだ。


 あの呪装は砕いておきたかったが……致し方なし。もしあの時眼鏡に手を伸ばしてたら返り討ちにされただろうし。そうなりゃいよいよ誤魔化しがきかなくなる。


 チッ……金級はいつも俺の邪魔をする……王都の闇市にまで出張ってくるんじゃねぇよ。俺はただ穏便に儲けようとしてるだけだろッ!


 やつらが王都へ来ている理由も不明のままだ。ふざけやがってルーブスめ……あの恩知らずにはまたいつか鼻くそ入りの飯を振る舞ってやる。覚悟しておけ。


 取り留めもないことを考えながら冒険者連中が部屋に来るのを待つ。流れで俺の部下的な感じになっちまったし。

 だりぃな。自由行動でもさせときゃいいか? あいつらならそうやすやすと死なねぇだろ。


 覗き見対策でずっと座ってたせいで身体が痛ぇ。肩も変に凝っている。

痛覚曇化(ペインジャム)】で騙し騙しやっているものの、そもそもの疲労は誤魔化せないし眠気は消えない。


 首さえ……首さえ斬れれば綺麗さっぱりリセットできるのに……。


 今すぐベッドに沈み込みたい欲を必死に堪え、俺はなんとか欠伸を噛み殺した。

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― 新着の感想 ―
ふとんかぶって首切っても昇天した時の光が漏れるから、透視メガネ警戒して死ねないのか。 完全隠密でまいてから首きればいいだけか この章は実に勘違いの王道をいく展開でワクワクする
なんだかんだ慕われること多いよな
死というワンアクションがあらゆる利便性を上回るのは勇者だけ!
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