死中に活を求めるは
ノーマンの勘は既に正答と最善を導き出すことを諦めていた。
スラムの入り口に差し掛かってからの出来事はノーマンが生涯をかけて培ってきた経験を根底から覆すものであり、絶対の信を置いていた価値観にさえ亀裂を生じさせるものであった。
エンデの冒険者は身一つで街を守護し続けている精鋭だ。油断さえしなければ勇者の庇護下にある王都でぬくぬくと過ごしている連中に後れを取ることはないだろう。
慢心ではない。積み上げてきた結果に裏打ちされた自負と矜持だ。
事実、王都を行き交う者の中に自分たちの相手が務まりそうな猛者は一人としていなかった。
巡回している衛兵は気も肉体も緩みきっている。意識を刈り取るのに数秒も要さないだろう。
この体たらくでよく街が回るものだ。
平和ボケと形容するほかない有り様を前にして、しかしノーマンは一切気を緩めなかった。王都のスラム出身のルーブスと連絡役の男に釘を刺されてなお気を抜くほどノーマンは甘くない。
油断はなかった。とどのつまり、この状況は――ただただ純粋に後れを取ったが故の結果であった。
神出鬼没のシクス。実際に相対するまでは半信半疑だったが、今となってはその異常性は疑うべくもない。
シクスはこちら四人全員の素性を寸分も違うことなく諳んじて見せた。
エンデの柱として目覚ましい活躍をしている金級の二人はまだしも、さして名が売れていない自分や銀級になってからまだ日の浅いメイの素性まで把握しているのは――いくらなんでも有り得ない。
【六感透徹】が指針を失う。経験と知識を糧にして解を導く力を底上げするその魔法は、極端な異常性を前にすると途端に効力を落とす。
――なぜこちらの事情が筒抜けになっている? まさか……内通者でもいるのか……?
真っ先に思い浮かんだのは連絡役の男であったが、ノーマンは即座にその可能性を否定した。
あの男の所作にはほんの僅かな嘘も含まれていなかった。そもそも、ギルドの職員と定期的に【伝心】で連絡を取り合っている時点で利敵行為は暴かれる。内通者にはなり得ない。
アウグストは論外だ。
ミラも有り得ない。彼女はその生い立ちから人を脅かす悪行を蛇蝎のごとく忌み嫌っている。危険な呪装や禁制品の流通に一枚噛んでいる男へギルドの情報を売ることは、彼女の流儀と矜持を著しく損なう行為だ。やはり有り得ない。
ならば――メイ、か。
ノーマンは悟られぬよう視線をメイへと向けた。驚愕に強張った顔。真一文字に引き結ばれた唇。震える手は杖を強く握りすぎて白味を帯びていた。
ないな。そう判断を下す。
そもそも【伝心】が使えるとバレた者は内通者に向かない。魔法の発動中に『お前は内通者か?』と思念を飛ばせば確実な答えが返ってくる。
ならば、一体誰がギルドの情報を売った?
思考が横道に逸れている間にミラが捕まった。またしても、何が起きているのか分からなかった。
迎え撃ったようには見えない。シクスはミラの奇襲を受ける寸前まで無防備な立ち姿を晒していた。『遍在』の実績を知っていてなお微塵の動揺もない。シクスは、まるで未来を予知していたかのように粛々とミラを無効化した。
判断を誤った。そう歯噛みしても既に手遅れだった。
ルーブスの『死ぬぞ』という脅しが確かな現実味を帯びて背にのしかかってくる。
拘束されたミラに突きつけられた短剣が鈍い光を発する。それを見てしまってはアウグストに突貫の許可を出すことは躊躇われた。
ただでさえ金級の一人が為す術なく敗れたのだ。軽々に許可を下してアウグストまで敗れたら任務は確実に失敗する。
彼が負ける姿は想像できないが、未知の呪装を使われたらその限りではない。
冒険者ギルドは個人が持つには過ぎた力と判断した呪装を処分、ないし国へと献上しているが、スラムの連中にそんな常識が備わっているとは考えないほうが賢明だ。
豊富な財源を持つらしいこの男なら国を揺るがしかねない呪装を複数抱えていてもおかしくない。それが十全をもって振るわれた時、自分たちが再びエンデの地を踏む未来はなくなるだろう。
そうなった時、エンデはどうなる?
確実に衰退の道を辿るだろう。即座に瓦解することはないにせよ、戦場と生活を支える二本柱が折れたら動乱が発生することは想像に難くない。
――和解に持ち込むべきだ。頭を地に擦り付けてでも。
失態のツケは払わなければならない。己のプライドで仲間を、故郷を救えるのなら――安いものだ。
ノーマンが覚悟を決めたその瞬間、シクスはアウグストをあっさりと説き伏せると同時に拘束していたミラを解放した。些かも意図が読めない行動であった。
くつくつと笑うシクスは再三にわたり己が平和主義者であることを主張する。
そんな訳あるか!
ノーマンの培ってきた全てがその言葉を否定していたが、鋭敏になった勘はシクスが嘘をついているという判定を下さなかった。
それどころか、シクスにはこちらを敵として認識している気配すらない。ここまで堂々と戦意を放棄されると、平和主義者などという戯言を鵜呑みにしてしまいそうになる。
腹の探り合いでは……勝ち目がない。
数多の危機を切り抜けるために重宝していた魔法が、かえって判断力を鈍らせている。ノーマンは諦念混じりの息を吐き出して【六感透徹】を解除した。
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「さて……ようやく冷静になったようだな」
奇襲をいなして実力を示し、金級というエンデの要を人質に取り、情報網の質を見せつけた上で、シクスは何故か状況をフラットに戻した。まるでそれら全てが些事であると言わんばかりに。
何を考えている。
至極当然の疑問に答えるかのごとくシクスが言葉を紡ぐ。
「俺はいま……人手が……入り用でね。お前たちを……仲間に引き入れるほうが得策だと、そう考えたわけだ」
その言葉はまるで咄嗟に紡いだ言い訳のように訥々としたものであった。
無論、そのような事実はないだろう。恐らくは言葉を選んでいるのだ。こちらの反応を伺いつつ話の着地点を自分の都合の良いポイントへ持っていく。そういう強かさを持っていると推定して然るべきである。
どう返すべきか。
熟慮に迫られ、かつてないほどに思考を巡らせているところにアウグストが割り込んできた。
「ノーマン……やつに協力するぞ」
アウグストは娼婦の情報であっさりと買収されていた。緊張感の欠片もない態度で連帯を促す。
「佳い女を知る男に……悪人はいねェ。それが俺様の持論だ。ノーマン、あの御仁に手を貸そう。俺様を……信じろ」
肩に置かれたアウグストの手は、戦場であればこの上なく頼もしく感じるものであったが、今は無性に腹立たしい感触に思えてならなかった。
手を払い除けたい衝動を押し殺して言う。
「…………アウグストさん、今はさすがに馬鹿やってる状況じゃないでしょう」
「いえ……案外、馬鹿にできない判断かもしれません」
「えっ?」
ミラはあろうことか、切羽詰まった状況下においても自らの癖を優先するアウグストの考えを肯定した。
「かの娼婦の行方は、ギルドが総力を挙げて調査しましたが……ついに行方を掴めませんでした。なので、私たちは身内の馬鹿の非礼を詫びることすらできていません」
身内の馬鹿、という発言のタイミングでアウグストを一瞥したミラが続ける。
「エンデの地で失踪した人物の行方を、私たちよりも詳細に把握しているのだとしたら……こんなことを言いたくありませんが……私たちに勝ち目はないでしょう。対人において情報収集能力とはそれほどの意味を持ちます」
辺境の街で起きた失踪事件の詳細を、その街の捜査機関よりも熟知している。それは、言われてみれば明らかに異常であった。
「勝ち目がねぇ、か」
「……為す術なく命を握られた後に強がれるほど、私は思い上がっていないので。……私は先ほど判断を誤りました。その結果としてメンバーを窮地に追いやった。なので、彼の提案を飲むかの判断は……貴方に譲ります」
ノーマンの双肩に重責が乗る。イエス、ノー、保留のどれを選んでも今後の命運を左右することは明白であった。
「ノーマンッ! 俺様を信じろ! ノーマンッッ!!」
やたらデカい雑音を意図的に無視して熟考する。
シクスの提案を受け入れた時、自分たちは何をさせられるのか。
悪の片棒を担がされることになるのではないか。
シクスへの協力と並行して任務を遂行することは可能なのか。
…………そもそも、生きて帰ることが許されるのか。
シクスの提案を断った時、自分たちはどのような末路を辿るのか。
何事もなく見逃されるのか。
用済みと判断されて消されるのか。
少なくとも、王都という場において活動が制限されることは間違いない。
――クソッ! 埒が明かねぇ!
再び思考の袋小路に迷い込んだその時、頭の中に声が響いた。
(私が、あの男の考えを探りますか?)
メイの【伝心】を通じておずおずとした意思が飛んでくる。
(魔法を使えばあの男の考えを読めるかもしれない。良くないことを考えていたなら、全員で戦うか逃げるかすれば……何とかなると思います。どうでしょう?)
自分より経験の浅い者が必死に解決の糸口を探ろうとしている。その事実がノーマンに自己嫌悪の念を抱かせた。
建設的な意見を出すメイに引き換え自分はどうだ? 仮定に仮定を重ねて及び腰になり身動きが取れないでいる。全く、情けない。
短く息を吐き出したノーマンがはっきりと意思を返す。
(……その策は、やめておこう。致命的な一線を越えかねない。それは最後の手段にとっておけ。今は……俺が、何とかする)
吹っ切れたノーマンは先ほど打ち立てた仮定を全て頭の中から追いやった。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。己の命をチップに変え、状況を打開するべくベットする。
「なあ、シクスさんよ。一つ聞いてもいいか?」
一歩前に踏み出し、友人へ挨拶するような気軽さでノーマンが尋ねる。シクスはほんの僅かに眉を動かした。
「好きにするといい」
「いやさぁ、俺らはアンタに割と無礼を働いたと思うんだが……まあ、それは俺らも切羽詰まってたっつーかね? アンタならもうコッチの事情を察してるモンだとは思うんだが……とにかく、俺らはアンタをやろうとしちまったわけだ」
背後で響いたミラの呻き声を聞かないフリして続ける。緩く両手を開いて無手をアピールしながら。
「そんな俺らが尋ねるのも不自然だと思うんだが……アンタは、それでも俺らと協力しようってのか?」
罠ではないのかと疑っている。その真意は伝わっているだろう。
しかし、多少遠回しな表現を用いれば心象を害さないのではという狙いがあった。
シクスは憎らしいほどに余裕を崩さず、まるで本当の平和主義者であるように振る舞う。
「ああ。実力行使に訴えたことは……気にしなくていい。先触れを遣わさなかったコチラにも責はある。最近どうにも……忙殺されていてね。礼を欠いたな」
命を狙われて『気にするな』と発言できる者の心境はどうなっているのだろうか。寛容なのか、底抜けの能天気なのか。
それとも……彼我との差がありすぎて危機を危機とも認識していないのか――。
「王都のスラムってのは、随分と懐が広いんだな?」
「ただ割り切っているだけさ。それに、細かい無礼をいちいち咎めていたら……俺は闇市の商人を一人残らず駆逐しなければならなくなる」
どこまでが冗談なのか。或いは、全て本気の発言なのか。
背筋に冷たいものが走る感触を無理やり押し殺してノーマンは笑顔を作った。
「おーおー、随分おっかねぇな……! アンタは一体俺らを手足にして何をやらせようってんだ?」
「……そうだな…………力仕事、とか」
「……それはスラムなりの隠喩ってやつか?」
「そういうことだ」
「俺らを戦力として数える、って意味でいいんだよな?」
「フッ……凡愚ではないようだな」
「アンタの手に余るほどの相手とやり合わなくちゃならんってわけか……」
「分かっているじゃないか」
酷く適当な相槌を打っているように見えるシクスだが、その裏には深淵よりもなお深い策謀を巡らせているのだろう。
自分たちは知らぬ間にシクスの計画の駒として認識されており、まんまと手のひらの上で転がされた末、五体満足で帰れるかも分からない戦いに参加させられようとしている。それがノーマンの、そしてミラとメイの共通認識であった。
相手は武力集団のライザル派閥か。
それとも権力を意のままに行使するプレシア派閥か。
或いはその両方か。
「協力してもいい。だが…………一つ願いを聞いちゃくれねぇか?」
「なんだ?」
「俺らが相応の働きをしたら……俺らが欲している情報を提供してほしい。タダ働きじゃ人は動かねぇ。闇市で幅利かせてるアンタなら……分かるだろ?」
もとより平穏無事に終われる任務だとは思っていなかった。スラムをよく知るルーブスが戦力の投入を惜しまなかったということは、つまりそういうことである。
――シクスの素性を探る時間は……まだ残されてる。惨い悪事に加担させられそうなら抜ければいい。もっとも、俺らの在り方を知った上で意に沿わないやり方を強要するとは思えないが……決めつけるのは早計か。なんにせよ、見極めていかなくちゃならねぇな。
利用されるならば利用し返すまで。向こうがこちらを侮るならば……機に備えて爪を研いでおくのだ。いつでも寝首を搔けるように。
黒い内心を表に出すことなくノーマンは条件を突きつけた。シクスは気分を害した様子もなくただ笑う。
「いいだろう」
「交渉、成立だ。俺らは今から……アンタの駒として動く。約束はゆめゆめ忘れないでくれよな。……そういうことだ。全員……いいな?」
ノーマンが振り返って尋ねると三人は異を唱えることなく首肯した。これでみな揃って最重要警戒人物の手先になることが決定した。
しかし、これは見方を変えれば懐に潜り込んだと考えることもできる。神出鬼没のトリックも、ミラを無効化した手の内も、アウグストを前にしても余裕を崩さない理由も……全て暴けば突破口も見えてくるはずだ。
――簡単に丸め込まれると思わねぇことだな。
今は隷従を甘んじて受け入れるしかない。しかし、こちらを蔑ろにしたその時は――全霊を賭して抗うまで。
窮地に追いやられたら血が騒ぐのは冒険者としての性だろう。冷えた肝は熱を取り戻し、戦意は沸々と漲ってきた。コンディションは……悪くない。
「で、俺らは今から誰の相手をすりゃいいんだ? いきなり殺しってのは勘弁願いたいが……まあ、クソみてぇな極悪人ならやぶさかでもねぇけどよ」
ある程度は実用に足る存在であることを示しておかねばならない。白々しいかもしれないが、それでもアピールは必要だろう。
そんな意気のこもった言葉を受けたシクスは、わざとらしく視線を右上にそらし、勿体ぶって数秒の間を作った後、まるで誤魔化すように目を瞑って言った。
「…………まだ、その時ではない。今日は疲、ンンッ! 疲れを、癒すことに専念しておけ。戦士にも……休息が必要だろう」
「………………そッすか」
滾った戦意に冷水をかけられたようで――ノーマンはそう返すのがやっとだった。




