親の心子知らず。子の心親知らず
燕の止まり木亭。
飛ぶ鳥のような勢いで日々を生き抜く街の人たちに一時の安らぎを与えたいという想いから作られたその宿は、競合する宿の台頭および色街拡張の余波を受け、さながら葉が落ち切った枯れ木の様相を呈していた。
心ない者から閑古鳥の止まり木と揶揄されている宿。その食堂に普段とはまるで異なる声音が響いていた。
「んでさ、さすがにこの宿だけじゃ広さが足りないってんで別の孤児院も建てようってことになったんだ」
「うん」
「でさぁ、そこで意見が割れてんだよ。新しい建物を建てるか、いまある建物でいい感じなところを探すかって」
「そうなの?」
「んー。手間とか立地とか? 色々あるみたいでさ。この宿は古めかしいのに、もう片っぽがきれいだと喧嘩の元になるんじゃないかって意見もあったな」
「そこまで考えてくれてるんだ?」
「まあ、でも、実のところは商人同士の……権利? 利権? かなんかが絡んでるらしいってアンジュが言ってたよ」
「それは……大丈夫なの?」
「ん、アンジュが言うには、それくらいでちょうどいいんじゃないかってさ。商人ってのはどうやって相手を出し抜くかを常に考えてるのが普通だって。それくらい本気になってるって証? らしくてさ。『聖女』様の名前を借りて悪いことしようなんて命知らずはいないだろうから安心だって言ってた」
「そう。よかった」
宿の女将ティーナと元孤児のティナがテーブルを挟んで語り合う。互いの間にある空白をゆっくりと塗り潰すように。
燕の止まり木亭には親と子、二人以外の人影はなかった。この宿の常連である二人も今日は別の宿に宿泊している。
ティナが宿を訪ねてくるという知らせを聞いた時、『ほーん。じゃあ俺は部屋にこもってるから適当にやれや』と返した一人を、もう一人が力尽くで外へと引っ張り出したためである。
親子水入らずの一時。
それまで饒舌をふるっていたティナは、ふと口を閉じて母親の顔を見つめた。自分と同じ色彩の瞳を眺めて黙り込む。
頬杖をつき、軽く目を細めて我が子の話を聞いていたティーナは、唐突に話を切ったティナの瞳を見つめて柔らかに問うた。
「……ん? どうしたの?」
「いや……」
ふっと視線を外したティナは誤魔化すように頬を掻いた。
「……なんか、面白くねー話だったかなって思ってさ……」
「あら。どうしてそう思うの?」
「ん、いや……なんか、仕事の報告みたいになっちゃったかなって」
ティナは視線を上へ下へと当て所なく彷徨わせ、言い訳をする子どものように小声を漏らした。
「親にする、楽しい話ってのが……分かんねぇんだ。母さん……なんか、浮かない顔してるし、楽しませようとは思ったんだけど……」
「あら……そんな風に見えた? ふふっ」
らしくない気遣いをする我が子を見てティーナは相好を崩した。椅子から立ち上がり、対面ではなく隣の席に腰掛け、ティナのくすんだ茶髪をくしゃくしゃと撫でる。
「落ち込んでなんかないわ。安心してるの。本当に、文句がないくらい立派に育ってくれた。親からしたら……これ以上の幸せなんてないんだから」
「んぅ……」
ティナはくすぐったそうに軽く身を捩り、抗議にも似たうめき声を漏らしたが、大きな抵抗はせずに親の愛を受け入れた。
いま、ここには頼り甲斐を示さなければならない仲間はおらず、たかが孤児だと舐められないよう威勢を張らなければならない相手もいない。
肩の力を抜き、されるがままに身を任せる。母親の手は揺り籠のような心地よさをティナに与えた。
「辛く……なかった?」
「ん……そりゃ、辛いときもあったよ。そうしなきゃ生きられないからってんで……ちょっとした盗みとかもしたし」
「……うん」
「でもさ、中には優しい人なんかもいて……今なら分かるけど、俺らが盗りやすいようにわざと店を空ける露店のおっちゃんなんかもいたんだ」
「……うん」
「他にもさ、色んなことを助けてくれる……オッサンなんかもいたりして。色んな人に守られて、守られた分、仲間を守り返して……俺、頑張ったよ」
「頑張った。頑張ったよ。本当に……私が世話してたら、こんな立派にならなかったんじゃないかって思うくらい」
「んなことねーだろ」
「んふふ……優しい子」
運命が形となって降りてきて、互いの手を取って引き合わせたかのような再会から数日。
ティーナは涙とともに心の澱を吐き出して、赦しを請う懺悔の問答を済ませた。あとに残るのは注ぎそこねた愛情の念である。
思う存分に頭を撫で、肩を抱き、そっと胸元へと抱き寄せたところでティナがぐいと押し返した。
「……さすがにくっつきすぎだろぉ。ガキじゃないんだからさ……」
「ごめんごめん。でも……ふふっ、ガキじゃない、か」
「んだよー。働いて金稼いでんだ。もう立派な大人だろっ」
「そうね。もう大人……か。じゃあ」
にやりと。ティーナはほんの少しの意地悪さを滲ませた笑みを浮かべた。
「好きな人とかいるの?」
「はあっ!?」
「やっぱり何回も話に出てきたアンジュ、ちゃん? とか気になってたりするの?」
まるで予想していなかった方面に話が転がり、不意をつかれたティナは素っ頓狂な声を出した。先程よりも大きく視線を彷徨わせて言う。
「なんっ、急に……そんな、別にいねーよっ。アンジュは、あいつは古馴染みみたいなもんだからそういうんじゃねーし……」
「そうなの? お似合いだと思うけどなー。凄い優秀で活発そうだし、ぐいぐい引っ張ってくれるんじゃない?」
「しらねーよっ。今は、新聞社とかで……忙しくて、そういうこと考えてる暇なんてねぇの!」
「照れちゃって〜。慌てて誤魔化すあたりまだまだお子様なんだから」
「んだよ……人をからかって楽しいのか?」
「えー? だって楽しい話をしてくれるんでしょ?」
「……ふん」
不愉快だ、とアピールするように短く鼻を鳴らしたティナは、更なるアピールをするべくテーブルの上に肘をつき、手のひらに顎を乗せ、これ見よがしにそっぽを向いた。
あからさまな反応を見てくすくすと笑ったティーナは――ふと笑みを和らげてティナの目尻を指でなぞった。
「……あんだよ」
「ん……拗ねた時の目が、あの人そっくり。目元は、私に似なかったのね」
「……父さんに?」
「うん。そっくり」
「……俺、たまに目付き悪いって言われるんだけど?」
「うん。きりっとした凛々しいところがそっくりよ」
ちょっとした抗議のつもりだったのに、思ったよりも真っ直ぐな答えを返されて、気恥ずかしさを誤魔化すために。
「……俺の父さんって、どんな感じだったんだ?」
ティナはそう尋ねた。
「うん……真っ直ぐな人だった」
ティーナは視線を宙に溶かした。在りし日の光景を想起するように目を細め――
「お酒とつまみが好きで、足の速さと耳の良さが自慢の冒険者。腕っぷしはそこそこだったみたいだけど、仲間からはそれなりに慕われてたわ」
「……ふぅん」
「笑顔が悪人っぽいって言われると心外だーって言って拗ねてたくせに……私を置いて先に逝ってしまった、悪い人」
「そっか……目付きの悪さと、足と耳の良さは……親父譲りだったんだな」
しみじみとした呟きを聞いたティーナが瞬きしてから身を乗り出した。
「そ、そうなの? じゃあ……鼻が利いたりする?」
「え? いや……鼻はそんなに」
「むぅ……私の特技は受け継がなかったのー?」
「えぇ……んなこと言われてもなぁ……」
「ふふっ……冗談よ。それにしても、本当にあの人の子なのね。まるで生き写しみたい」
そこでティーナは『あっ』と声を上げた。
「生き写しと言えば」
思いを馳せるかのように、再度視線を宙に投げ掛けたティーナは――
「いま、この宿の常連になってくれてる一人が……あの人にそっくりなのよねぇ」
ゆえに、その言葉を聞いて頬を引き攣らせたティナの表情に気が付かなかった。
「………………そっくり、なの?」
「うん。美味しそうにお酒を飲むところとか……ちょっとぶっきらぼうな物言いをするところとか……寝起きの時の顔付きとか……」
「ね、寝起き!? ……なぁ、オッサ……んんっ! その人に、なんか、その……悪いことされてないよな……?」
「えっ? んふふ……まさか。その人は凄い紳士的よ? それとなく色仕掛けしても全っ然靡かなくて……女としての矜持を傷付けられたくらいなんだから」
「そ……そうか……! 紳士的……紳士的、ね。ならよかった……!」
ティナは心の底から安堵のため息を吐き出した。心臓が得体の知れない鼓動を刻んでいることを悟られまいと表情を整え、話を変えようとするも、こんな時に限って気の利いた話題が出てこず二の句が継げない。
そうしているうちにティーナが話の続きを切り出した。
「そう、紳士的なの。……私がなんかしらの事情を抱え込んでるって分かってただろうに……軽々しく踏み込んでこないで見守ってくれてた」
面倒事を避けたかっただけなんじゃねぇかなぁ?
ティナはそう思った。
「その事を、知ってか知らずか……ずっとこの宿に泊まって、私のことを陰ながら支援してくれてた。二部屋も貸し切って……いくら宿泊料が他より安いからって、普通は有り得ないわ」
身を隠すのにうってつけだっただけじゃねぇのかなぁ?
ティナはそう思った。
「それにね? 何か困ったことが起きた時にその人に相談すると……どうしてか二、三日もすると全部すっきり解決しちゃうの。今回も、そうだった」
まずい。そう直感したティナはへらっとした笑みを作って言った。
「ははは。そんな、ただの偶然だろ〜? そんなお人好しなやつがいるもんかよお〜」
この宿に泊まっている鉄級のエイトは勇者ガルドがエンデで活動するために作った人格である。
その事実を知るティナはどうにかして話題を逸らそうと試みた。ガルドから『エイトという人格は通り一遍の冒険者という設定だ』と事前に聞かされていたためだ。
実力が露呈するのはオッサンも望むところじゃないだろう。そんな思いでフォローをしたのだが。
「偶然、ね。……さぁ、本当に偶然かしら?」
その声色は、なにか強い確信を秘めたものであった。
「私ね……さっきも言ったけど、鼻が利くの。特技はね、人が飲んだお酒の銘柄を当てること」
ティーナは酒が入ったグラスの縁を五指で掴んだ。香りを振り撒くように軽く揺らし、すんと小さく鼻を鳴らす。
「どうしてかしらね? 私のことを助けてくれる人は……いつもその人が朝に飲んでたお酒の香りがするの」
――朝っぱらから酒飲んでんじゃねぇよオッサンッ! バレてんじゃねぇか!
ティナはそう叫びたくなる気持ちをぐっと堪え、喉まで出かかった言葉を飲み下す。その反動もあり、否定や誤魔化しといったフォローの言葉を吐けなかった。
「本当に、不思議な魔法みたいな人。……贖罪に必死になってたら、いつの間にか返し切れない恩ができちゃった」
熱を帯びたティーナの瞳がすぅと細められ、ここにいない誰かへと向けられる。
まずいまずい。何かとてつもない不穏な空気を肌で感じ取ったティナはどうにかしようと気が逸り、咄嗟に頭に浮かんだ言葉をそのまま吐き出した。
「あのさ、母さんっ! 俺さ、孤児の時に教わったことがあるんだ! 借りた恩は踏み倒せって!」
「ちょっとブラウ! そんな馬鹿なことを口にしちゃダメっ!! 誰にそんな事を吹き込まれたの!?」
いま話題に上ってる紳士ぶった野郎です。
ティナはそう言いたかったが我慢して口を噤んだ。
「借りた恩は絶対に返さなきゃダメ! わかった!?」
「……………………はい。ごめんなさい」
「うん、いい子」
世の中はなんと理不尽に満ちているのだろう。
ティナは頭を撫でられながらそう思った。
「でも、そうよね。恩は……返さなくちゃ、よね」
口の中で転がすように呟いたティーナはグラスに残っていた酒を勢い良く呷った。ふぅと酒精を吐き出して、潤んだ瞳で虚空を見つめる。上気した頬を艶かしく撫で、軽く口を覆い、遠慮がちに、しかし確りと言う。
「ねぇ……再会したばっかりなのにこんなこと聞くのは変かもしれないけど……私が再婚したら……イヤ?」
「え゛っ」
瞬間、ティナの頭の中に情報の濁流が押し寄せた。
再婚、誰と、きまってる、紳士な男、それは誰、鉄級のエイト、オッサン、勇者、再婚、母親と、つまり、父親――――
『それをお前はどうだ? 中途半端に整えた体裁で妥協しやがって。さっきの例だと、お前の態度は『頼み事する時は頭を下げるのが普通らしいし、とりあえず下げておくかー』って感じに映るわけよ。それじゃ下卑た感情を満たせねぇ。成果も得られねぇ。ないない尽くしよ。ゲットナッシング!』
『おいお前らー。調査班から冒険者ギルドについて何か不祥事の報告が上がってたりしないか? 知られればちょっとした火種になるくらいのやつな。目をつけられる厄ネタの一歩手前くらいのやつがあれば完璧だ』
『ギロチンはすげぇよ。スパッと処刑して聴衆が盛り上がるんだからな。広く採用されるわけだぜ。なんつーか、腑に落ちるもんがあるんだよな。死ぬ時もよー、『あー、こんな感じなのか』って感覚なわけ。あれ? そこまで痛くねぇな……あっ死ぬ……て感じで。気付いたら死んでるってのはポイント高いぞ。いいから聞け。後学のためになるかもしれねぇだろ』
ティナの脳裏を過ったのは、エイトが下衆な笑みを浮かべて講釈を垂れる姿であり、下卑た笑みでギルドの粗を探す姿であり、達観した顔でギロチンレビューを披露する姿であり――確かに恩はあるが、あれが父親となると――
「いやぁ……」
ティナは力ない返事をするのが精一杯であった。
「えっ、ちょ、なに? その反応……」
『ちっと出掛けてくるわ』と言うやいなや首を斬り、何かを思い付いて醜悪な笑みを浮かべた瞬間に首を斬り、かと思えば、ふとした瞬間、なんの脈絡もなく首を斬り――
「いやぁ……」
「ブラウ? ねぇ? どうしたの?」
助けられたこともある。しかし、それ以上に。
『クソがっ! クソがーッ!!』
『首は斬るだろっ! 死んでおけば指名手配が解除されるんだから死に得だろっ!』
『そういうことなら金は貰ってやるよ! まぁこんなクソみてぇな展開で売れるわけねぇけどなバーカ! バァァカ!! ペッ!』
一度頭の中に浮かんでしまった光景が水回りのしつこい汚れの如くこびりついて離れない。
父親という存在を、無い物ねだりであると分かっていたが故に尊んでいたティナは、ガルドが父親になるという有り得べからざる未来を幻視して、ただ力なく、名状し難い心情を吐露するように。
「いやぁ……」
そう呟いた。




