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他人の感情を読み取れる。
荒唐無稽なことを言ったゆめに、ヒアイは小首をかしげて言う。
「さとりの血縁か?」
格別な驚きも怪訝さも含まないつぶやきだった。
(さとり……妖怪、だよね。心が読めるっていう)
ゆめはその名に覚えがあった。自分の能力は何なのだろうと思い悩んだ子どもの頃に、色々な本を読んでたどり着いたのは妖怪『さとり』。
山に住み、ひとの心を見透かすと言われる妖怪だ。
その特性を知ったとき、ゆめの心に浮かんだのは畏怖と失望だった。
自分は妖怪なのかもしれない。両親のあいだに間違えて産まれて、家族を壊した悪い妖怪なのかもしれないと幼かったゆめは自分自身を畏怖した。
それと同時に、失望もした。
記されたとおりにひとの心を見透かすことができたなら、もっとうまくやれたのにと思いもした。
母親が気味悪がっている対象が自分だと気づけていたなら、心を隠して『ふつうの子ども』を演じられたかもしれない。そうすれば家族は今も家族のままでいられたのかも、と未だに思い悩むときがある。
(わたしは妖怪にもなれないし、ひとの輪にも入れない半端な存在だった。ほんとうに妖怪だったなら、良かったのかもしれない……)
思考に沈むゆめは、キドの「えー?」という明るい声で意識を引き戻される。
「さとりは人里に降りてこないって有名な話でしょー。もしも血縁だとしても、あのひとたちは身内で固まるの好きだからこんな何も知らずに野放しになんてしないって〜」
キドのことばで、ゆめも血縁にさとりはいないだろうな、と思う。
いがみあっていた両親もひかりの母親をはじめとした父方の親族も身内でまとまるどころか、それぞれが自分の主張を繰り返してはもめていた覚えがあった。母方は祖父と祖母だけしか知らず、ゆめが心穏やかに居られる場所を作ってくれたふたりはもういない。
(いっしょに過ごした家も、もう……)
温かな思い出を振り返れば、必ず悲しい現実に辿り着いてしまう。
暗い気持ちでうつむくゆめは、となりでグラスを傾けるヒアイがゆめを見下ろして薄い唇に舌を這わしているのに気がつかなかった。
「ん? ってことはー。なんでゆめちゃん、ヒアイがひとじゃないってわかったの? もしかしてヒアイってば、心のなかで『俺は獏のヒアイさまだぜ〜!』とか思っちゃってたりして」
「ああ!?」
くふふ、と笑うキドにヒアイが眉間にしわを寄せる。
「俺はそんなこと考えねえ」
「そうなの〜、ゆめちゃん?」
不機嫌なヒアイとにやけたキドの視線を受けて、ゆめは慌てて頷いた。
「ちがいます、ちがいます! わたしは心は読めないんです。ただ、ヒアイさんの感情がほとんど伝わってこなくて。そんなひと今まで会ったこと無かったから『人間じゃないの?』なんて言ってしまって……」
思い返せば失礼な発言だ、とゆめはくちごもる。
ひとの感情はいつも一方的に伝わってきて、ときにゆめを傷つける。嫌っていたはずの能力が働かないからといって相手が人間ではないなどと判断した自分に、ゆめはショックを受けた。
「え。それってつまり、ヒアイのこと人外って見抜いてたわけじゃなく!?」
「う……はい」
驚きの声をあげるキドに、ゆめは申し訳なさいっぱいで頷く。
すると。
「ぶふっ!!」
キドが盛大に噴き出した。
目を丸くするゆめをよそに、キドはひどく楽しそうに笑いだす。
「ってことは、正体がバレたっていうのはヒアイの勘違いだったんだね! あはははははははは!」
「え……」
なんのことだろうとゆめが横に顔を向けると、ひどく苦い顔をしたヒアイがうなっていた。
「……キド、黙ってろ」
「だって、だってヒアイってば昨日の夜、めっちゃめちゃ落ち込んでたじゃん! うちの店のすみっこでずーーーーっとどんよりしててさあ」
「だまれ」
「もう会うことも無いだろうから気にしないでおきなよ、って言ってるのにぐずぐず気にして。今日だって日が落ちるなり『見つけて口封じする』ってはりきっちゃってさぁ」
「うるさい!」
ヒアイが怒鳴る。
低く、うなるような怒鳴り声をあげたヒアイの顔はひどく険しい。
だというのに不思議と怖さはなかった。向かい合うキドがけらけらと笑っているせいもあるだろう。
けれど、それだけではない。
(感情が流れ込まないのって、こんなに楽なんだ……)
ゆめは怒鳴り声が苦手だ。
怒鳴る声はいつだって強い感情をゆめにぶつけてきた。
怒り、憤り、非難や悲しみ。
怒声を伴うさまざまな感情を浴びてきたゆめだけれど、そのどれもが重く辛いものばかりであったせいでゆめは怒鳴り声が苦手だ。
けれどヒアイの放った声は声量こそ大きかったものの、怒りの感情を伴っていなかった。ゆめがごくごくわずかに感じ取れたのは、恥じらう気持ちだけ。
注意してヒアイの横顔を見ればなるほど、抜けるように白い肌がほんのりと色づいているのがわかる。バーの控えめな明かりでもわかるのだから、きっと彼の肌はずいぶんと熱を帯びていることだろう。
そう思って見つめてみれば、ヒアイの不機嫌な横顔も拗ねているようにしか見えないのだから不思議なものだ。
「ふふっ。わたしがここに連れて来られたのって、勘違いだったんですね」
なんだかおかしくなってしまって、こぼれる笑いを止められない。
自分が笑われていると思ってか、ヒアイがますます不機嫌な顔になるせいでゆめはくすくす笑ってしまう。
(不愉快を感じさせない不機嫌がこんなにも楽しいものだなんて、知らなかった)
昨夜は感情を伴わない存在にはじめて出会ったせいで動揺して、怯えたけれど。
落ち着いて向き合ってみれば、避けようの無い感情をぶつけてこないヒアイのそばはひどく居心地が良かった。
にこにこと笑うゆめを見つめて、キドがしみじみとつぶやく。
「ヒアイの無愛想な顔を怖がらない女の子なんて、珍しいねえ。きみたち、付き合っちゃえばいーんじゃない?」